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キミの鳥かご  作者: 色傘そめる
産声が聞こえる
6/9

6 経緯

 激しい下腹部の痛みと、汗だらけの身体。天井を見る瞳は霞がかって、涎は後頭部まで垂れていく。顔が破裂しそうに熱く、心臓がドンドンと暴れている。

 急にのしかかる重み。ベットの軋む音。お腹の上にのせられた、毛布にくるまれた赤子。

 近所のおばあさんと、お父さんの口論。大きな音を立てて閉まる扉。

 音のない部屋。桶より立った湯気から香る、水の匂い。

 眩しさに目をしかめて窓を見やると、大きな大きな七色の橋。

 きっとこれは祝福へと架かり、この子は素敵な生を歩むのでしょう。

「はじめまして。ずっと、ずっと会いたかったの」

 そうして、微かな産声が私の耳に響いた。



■  ■  ■ 



 お腹が膨れてからは、仕事をしなくてすんだ。

 いつも泣いてばかりいた私に、お父さんが「最初からこうすればよかった。もう大丈夫だよ」と私の上でやさしく言ってくれた。

 仕事先でしていたようなことを家の中で最後までして、そうして私は身重となり、冬を過ぎて暑さが増してきた頃に母となった。

 ずっと家にいたお父さんは外に出て仕事をするようになり、私は赤ん坊の世話と料理と洗濯。

 腕に抱いた彼女が、むずがるようにもぞもぞと動く。大人しいこの子を、私はシュトと名付けた。愛らしい、私の妹。



■  ■  ■ 



 お父さんが何の仕事をしているかは知らない。毎朝早く起きて、毎晩遅くに帰ってくる。毎日毎日休みなく。

 シュトが寝ている時にしかお父さんはいないので、それだけが少し寂しい。

 シュトは、とても大人しい良い子。夜泣きもなく、私を困らせるようなこともしない。

 穏やかな時間は、肌寒さを覚えるまで続いた。



■  ■  ■ 



 台所で夕食の用意をしていたら、

「さあおいで、準備が出来たんだ」

 お父さんの言葉に、私は疑問を返すが、それに返答はなく、

「シュトも一緒にだ。さっさと来い」

 めずらしい時間にお父さんがいることが嬉しかったけど、なんだかとても焦っているよう。いつも仕事で疲れているから、余計なことは言わない方がいいのかもしれない。

 私たちの家は、貧困層が暮らす区画にある。町の華やかさとは違う、寂れた家並み。

 家を出て、町とは反対にある山の方へと向かう。しばらく歩くと、背中に夕日が沈んでいくのが感じ取れた。人気も建物もない場所へ進んでいき、このままいくとあたりは真っ暗になってしまう。

 そろそろ用事を済ませて帰らないと、お父さんがいるとは言え妹を胸に抱きながら暗い道を歩くのは不安だ。何があるかわからない。このあたりは治安だって良くない。お金は持ってきていないけど、これ以上なにも奪われたくはなかった。



 お父さんの歩く速さは増していき、私は小走りになって追いかける。

「お父さん、もうそろそろ着かないかな? 日も暮れてきて危ないから」

 私の言葉が聞こえないように進んでいく。

 気が付くと森の中の洞窟に来ていた。お父さんはランプに明かりを灯して、洞窟の中へと入っていく。入り組んだ分かれ道も迷うことなく進んでいった。

 暗い洞窟を一つの明かりだけで歩いていると、奥の方から地鳴りのような、風が反響しているような、魔獣の呼び声ともつかない音が聞こえてくる。

「どこへ向かっているの? なにをするつもりなの? ちょっとだけでも教えて欲しいの」

 急にお父さんは立ち止まり、私の方へ振り返る。


「何って、そいつを捨てる準備だよ」


「ねえ、そいつって何のことを言っているの?」

 お父さんが毛布にくるまれたシュトを指差す。

「もういい加減臭いんだよ。ほら見てみろ」

 毛布のなかにお父さんの手が入り、シュトの手を握って私に見せた。

「指先が腐っているじゃないか。お前は鼻がひん曲がってたから知らないだろうけどな、俺は毎日帰って家のドアを開けたとたん吐きそうになってたんだよ!!」

「乱暴はやめて! ねえお父さん、そんなに強く握らないで。この子が痛がってる!」

「こいつはもう終わってんだ。生まれたときから、ろくに乳も飲まなかった。もうどうしようもないんだよ。お前だってもう、狂っちまった」

「そんなことない! そんなことない! 今も、お父さんどうしてこんなことするのって、泣いてる!」

「ああ、そうだな。弱々しいが泣いている。まだ生きているんだ。手先が腐っても。だから……」

 お父さんがランプを地面に落とし、私の身体を引っ張って洞窟を進む。

 すると、すぐに開けた空間に出た。無数のロウソクの灯りが、そこにいた大勢の人々を照らしている。


「なに……ここは」


 皆が皆、一様に大声で叫んでいる。反響が激しくなにを言っているのかは、よく聞き取れない。

 香でも炊いているのか、視界が霞んで少し離れた人の顔もよく見えない。舌先には甘やかな痺れ。

「俺がいけなかったんだ。こうすれば、お前も戻ってきてくれるかもしれないって、どうすればよかったんだ、どうすれば……」

「ねえお父さん、帰ろう、私たちの家に三人で帰ろう。お父さんが私を愛してくれたから、この子が生を授かることができたの、ようやくできた、私の妹。お父さんのおかげなのよ? ねえ、この子はちょっと大人しいだけで、大きくなったら元気に走り回って私たちを困らせるわ。きっとそれって、大変だけど、きっと、きっと楽しくて素晴らしいことなのよ。ねえほら、この子の指先がちぎれちゃったじゃない、もうお父さんが強引なことをするから。こうやって、ほら、くっつけて、あれ、くっつかない、なんでだろう、そうだ、早く家に帰って包帯を巻きましょう。そうと決まれば急ぎましょう! そうしたら、全部、全部、全部元通りっ!!」

 お父さんは困惑する私を無理やり引き寄せ、人の波を避けて空洞の中心近くまできた。

 司祭のような格好をした人と、後ろに石でできた祭壇のようなものがあった。司祭がこちらに気づくと、ギョロリとした目を向けお父さんと何事かを話し始めた。

 頭がフラフラとし始め、その場に立っていられなくなりそう。

 よろめく私を支えたお父さんは、私の胸からシュトを強引に奪い去った。

 追いかけようとしたが足がもつれる。喉が痛くて声がでない。転んだ私は手を伸ばして、息だけの声でシュトの名前を叫んだ。

 さきほどまでの大きな声が一斉に止み、人々の影がゆらゆらと洞窟の壁を舐める。

 シュトが祭壇の中央に寝かされ、司祭が獣のような唸り声で何事か唱え始めた。周りの人々も続いて声を上げ始める。やめて、やめてと叫ぶ私をよそに、司祭が懐から短剣を取り出し頭上に掲げ、さらに歓声は大きくなった。


 そうして、司祭に握られた短剣がシュトの胸にゆっくりと降りていく。

 祭壇から血が滴り落ちて、大勢の喝采が聞こえた。


 お父さんを見ると、キョロキョロと辺りを見渡しては出口の方へ行ったり来たりしている。人で塞がれていて、帰るに帰れないんだろう。

 帰るってどこへ帰るんだろう?

 そんな滑稽な父になにかを期待するのはもうだめだった。心がついていかない。

 ここからだとどうなっているのか分からないけれど、司祭の持つ短剣はシュトの身体を行ったり来たりしていて、なにかを開いたりえぐりとったりしている。

 かわいそうなことしないで。

 這いずりながら祭壇へ向かう。上手く立ち上がれない体をなんとかささえて、シュトのところへ。行ってどうするかなんてわからない。なんでもいい、彼女を返して欲しかった。私にとってのただ一つの希望。

 みんなこの悪魔的な狂騒に夢中で、祭壇のそばまで来た私を誰も咎めることはなく、私はシュトの姿を見ることができた。

「ああ……」

 血濡れの身体から内蔵が零れ、厳かに短剣が胸に突き立てられ、手足はだらりと伸びきっている。

 なぜこんな酷いことができるのだろう。なぜこの子でなくてはいけなかったのだろう。なぜ私はなにもできなかったのだろう。なぜ父はこんな場所を知っていたのだろう。

 ここでおしまい。

 もうここで、私は私にさよならする。

 彼女に、愛しい妹に、泣き叫ぶこともしてあげられなかった。何もわからないまま、ただ流されるままにここまで来てしまった。


 呆けた顔をしていると、動くはずのない彼女の身体が微かに痙攣し始めた。内側から泡立ち、肉が潰れる音。誰もなにも触っていないにもかかわらず、彼女は自分からめくれあがっている。次第に彼女から黒い霧が立ち上り、自身を暗く包みこみ、その身体の内側から人の頭が這い出てきた。


「きゃああああっ!!」

 悲鳴をあげて後ずさる。周りの歓声はさらに大きくなって、"これ"をいままで待っていたと言わんばかりにひときわ大きくなり、それはもう獣の雄叫びだった。

 何が起こっているのかわからず、後ろへと足を滑らせ尻餅をつく。見上げた先には、大きな女の姿。髪は背中まで伸びきって、顔は彫りの深い獣のような鋭さ。躍動する全身の筋肉が、一つ一つ別の生命を授かっているかのように見えた。

 大女が、指先に携えた禍々しい爪を振り上げる。まず、一番近くにいた司祭の首が、大きな鳥のように白く長い髪を広げて宙を舞った。血飛沫の後ろでは、大女が腕を振り抜いた姿。体だけが残った司祭は、刈り取られた首からゴポゴポと血を噴き出し、ぐらりと地面に倒れ込んだ。

 周りは誰も、何も気にしない。

 次は逃げ遅れた父だった。足を掴まれ、大きく振り上げられ、そのまま祭壇の角へ打ち付けられて動かなくなる。あっけないもので、世界の皮を一枚剥がした内側がこんなにも軽々しいとは思わなかった。それとも、私が最初からなにもかも知っていたら、周りのみんなのように踊り狂ったまま笑顔でいられたんだろうか。

 司祭、父ときて次に大女のそばにいるのは私だ。泣き濡れた顔で首を振る。鼻水が唇を通り越して顎から滴り落ちていく。恐ろしいこんな怪物を相手に、命乞いなど意味があるのだろうか。

 命乞い。そう命乞いだ。私はまだ、助かりたいと思っている。シュトがいなくなった場所で、父も壊れた木彫りの人形みたいにくしゃくしゃになっているこの場所で、我が身がかわいいのだ。このさき生きて、なんの意味があるんだろうとは思う。

 でも、怖いのは嫌だ。恐ろしい思いなんてしたくない。私が望んでいることは、ただ消えてしまうことだけ。妙に頭がはっきりと爽やかになっていることに気がついた。いままでが頭に靄のかかった状態だとすれば、その全てが吹き飛んで視界が明瞭になっている。今ならわかる、もう遅い、お父さんも、私も、少しおかしかったんだ。ごめんなさい。

 大女の怪物がこちらを見た。腕を振り上げ近づいてくる。私の小さな身体なんて、一薙で紙屑のように吹き飛んでしまうだろう。正面から感じ取る頬が焦げ付きそうなほどの瘴気と、存在の大きさからくる外圧だけで、私はその場で足先から砕けてしまいそうだった。

 目が合うと、大女は唸り声を漏らし、私の目の前で止まった。何故だか動こうとしない。その上げた腕を振り下ろすだけで全て終わるのに、いつまでたってもそのときはやってこない。じっと大女が私を見つめる。その瞳は、いままで気がつかなかったことが本当に愚かしいほど、いつも傍で見ていたものだと思い至った。どうして忘れることなんてできるだろう。めくれあがって、泡立って、黒い霧に包まれようが、私の愛しい彼女はそこに居たままだったのだ。

「……シュト?」

 大女は、いやシュトは、踵を返し洞窟の出口を目指して逃げるように走り出した。

「まって!!」

 私の声が聞こえたんだろうか、シュトは一瞬ビクリと肩を震わせて、再び出口に向かう。目の前にいた人々を押し退けながら。玩具のように倒れていく人々。死んではいないようだけど、それらを見ても、そばにいる人々はなんら変わらない調子で濁りきった目を見開き、祈りを捧げていた。


 追いかけなきゃ。


 祭壇に捧げられた彼女の元へいけなかったかわりに、いまここで走り出さなきゃいけない。倒れる人々を縫うように避け、最初にやってきた場所まで来た。

 目の前には暗くて狭い道。来るときは父に連れてこられたから問題はなかったけれど、ひとりでこの入り組んだ洞窟を外まで迷うことなくゆけるだろうか。誰かに道を尋ねようとも、私の声など誰も聞こうとしないだろうし、あの狂騒の中に入る勇気も留まることもできそうにない。

 そばに置いてあったロウソクを手に取り、ふと振り返る。父の姿は足先だけは見えたので、小さな声でさよならと告げた。甘い香につつまれていた人たちは、みんな笑顔で踊って声を張り上げ楽しそうに泣いていたから、私はこれ以上何も見ないように洞窟を駆け抜けた。


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