決意
アレフはドアノブを回し扉を開けた。
エイジはまだ少しふらつく体を起こしてベッドから抜け出し、部屋の出口へと向かう。
アレフに従い部屋を出て、廊下を進んだ。
突き当たりにある階段を降りて下の階へ移り、また廊下を進む。
しばらく歩くとアレフが途中の部屋の前で立ち止まり、エイジを振り返った。
「少年、お前に見せておかなきゃなんねえものがある」
そう言うとアレフはエイジをその部屋の中へ誘った。
中へ入ると、そこには病院にあるような医療用のベッドや点滴などが揃えられていた。
さながら治療室といったところだ。
そしてそのベッドには既に利用者がいた。
顔一面に包帯が巻かれ、その容貌をはっきり確認することは出来ないが間違いない。
途中から姿を現し、柱の影から銃でブライスを狙ったあの男だ。
ぐったりと横たわっており、意識はないようだ。
その男を見てエイジは、先ほどの抗争中にその男を発見してからの記憶がほとんどないことに気付いた。
そんなエイジを横目に、アレフがその男の顔に巻かれた包帯に手を伸ばし、包帯を外し始めた。
包帯を剥がされた男の顔が露になる。
ぞっとした。
男の顔は複数個所がくぼみ、どす黒い色に変色していた。
ひどい重症だ。
しかし誰がこんなことを――
その時ふいに背後から声がした。
「どうだ、自分がぶっ潰した相手の顔を見るのは?」
振り返ると、そこにはブライスの姿があった。
「せいせいするか?」
エイジはその言葉を聞いて当惑した。
何だって―
「ど、どういうことだよ……? 俺が、ぶっ潰した…?」
その言葉を聞いてブライスは顔を少し曇らせた。
「やはり、覚えていないか……」
「この男を見たのは覚えてるよ……でも、その後のことはさっぱり……」
「ふむ、分かった」
ブライスは顎に手をはわせ、思慮深げに俯いた。
「奥の部屋で話がある。付いて来い。アレフ、このけが人を頼むぞ」
「もちろんっす」
ブライスは後ろへ振り返り部屋を出て行く。
エイジも仕方なしにその後を追う。
部屋を出たブライスは左に廊下を進んだ。
後に付いて廊下を歩くと、突き当りに木製の大きな扉があった。
ブライスが扉を開けて中へ入り、エイジもそれに続く。
部屋の中は広々としており、部屋の真ん中にはソファがいくつか配備され、奥には立派な机と椅子がある。
「ここは私の書斎だ」
ブライスがソファに腰を降ろしながら言う。
「さあ、気を遣わずに座ってくれ」
ブライスに促される形でエイジはソファに腰を降ろした。
ブライスと向かい合う形となり、じっとこちらを見つめられる。
相変わらず、全てを見通しているかのようなその視線。
しばらくの沈黙の後、ブライスが口を開いた。
「結論から言う。エイジ、君はこの世界にいてはならない」
余りに唐突な言葉だった。
頭が真っ白になり、言葉を上手く受け止めることが出来ない。
しかしブライスはお構いなしに続けた。
「俺たちと一緒に裏の世界、アトランティスに来い。そしてエージェントとして生きろ、エイジ。それが君の運命であり、使命だ」
エイジは呆然と目を見開いていた。
「これは君だけの問題でもない。君がこの世界にとどまり続ける限り、君の大切な人達も君のその運命に巻き込まれ、危険に晒され続けてしまう」
◆◇◆◇
コンコン。
エイジは右手で優しく部屋のドアをノックした。
「はい、どうぞ」
中から小さく返事の声が聞こえた。
これまで何度も繰り返し聞いてきたその声。
耳に馴染んで、いつだって傍にあるものだった。
だが今は、その聞きなれた声が心の奥にまで響き、寂寥感すら募らせた。
エイジは扉を開けた。
室内のベッドの上に、アイがいた。
ベッドの端に腰掛け、僅かに微笑みながらこちらを見ていた。
こうやって間近で顔を合わせるのは丸二日ぶりだ。
しかし体感時間としては、それよりも遥かに長い時が流れたような気がする。
「大分良くなったって聞いたけど、大丈夫か?」
「うん。おかげさまで、ね。エイジも大変だったみたいね」
いつも通りの日常の中で、急に得体の知れない男たちに襲われる。
そんなトラウマものの経験をしながらも気丈に相手を気遣えるアイの、そのしなやかな強さにエイジは舌を巻いた。
「俺なんか、全然大したことないって。襲われたのはアイの方なんだから」
「でも、きっと助けに来てくれるって信じてたから、不思議と怖くはなかったんだ。エイジがいるから大丈夫って思えた。何でだろ、これまでそういうことがあったわけでもないのにね」
アイがにこりと微笑む。
「俺の方が助けられることは多かったかもな……」
「ははは、そうだね。でも実際、私の勘は間違ってなかったわけだ。相手、やっつけてくれたって聞いたよ」
医療室で見た男の顔が脳裏をよぎり、エイジの心はずきりと痛んだ。
だがその痛みはエイジの決意をより強固にする。
エイジはベッド脇の椅子に腰を降ろし、アイを正面から見据えた。
いつになく真剣な眼差しに、アイは少しとまどいを見せた。
「ど、どうしたのそんな怖い顔して……」
「これから俺の言うことが、どんなに理解出来なくても俺の本気の言葉として受け取って欲しい」
「えっ……?」
エイジは少し間を置いて、再度口を開いた。
「俺、この世界からいなくなる」
アイは目を大きく見開いた。
「……何を、言ってるの……?」
「意味、分かんないよな。でもほんとのことなんだ」
アイは瞳を揺らしながらエイジをじっと見つめている。
言いたいこと、聞きたいことが多すぎて、言葉が見つからないのだろう。
「俺はこの世界にいちゃいけないみたいだ。それに、別の世界でやらなくちゃならないことがあるらしい。だから、もう一緒にはいられない。今までこんな俺と仲良くしてくれてありがとな」
多くを語っても仕方ない、とエイジは思っていた。
だからこそ、シンプルに事実のみを伝えた。
もう今まで通りの日常を共に過ごすことは出来ない、という事実を。
いつもはぶっきらぼうで愛想の悪いところもあるエイジが、この時ばかりはまっすぐに目を見据えて言葉を紡いでいる。
内容は到底理解出来ないが、彼の言っていることはきっと偽らざる事実だと、アイは直感的に悟った。
だが頭の中の整理はつかず、ぐちゃぐちゃだ。
アイは、自分の頬を何かがツウっと下へ流れていくのを感じた。
自分でも気付かないうちに、アイは大粒の涙を流していた。
涙を拭うことさえせず、アイはエイジに問いかけた。
「本当にもう、一緒にはいられないの?」
エイジは心が張り裂けそうな気がした。
「ああ……ごめん」
「どうして……? ずっと一緒だったじゃない」
アイは幼い頃に、両親を交通事故で亡くしていた。
やむなく親戚の家に預けられたが、うまく馴染むことが出来なかったのだろう。
直接的にそのような言葉を聞いたわけではないが、言動の端々にその事実が透けて見えた。
だからこそ幼い頃から一緒に多くの時を過ごし、深いつながりのあるエイジはアイにとって唯一の家族のような、大切でかけがえのない存在であった。
エイジもそのことを良く分かっていた。
もう限界だ――
エイジは椅子から立ち上がり、アイから目を逸らして背を向けた。
「ほんとにごめんな……でも、俺は何よりもお前のことを大切に思ってるし、その上での決断だってことだけは分かって欲しい」
後ろでアイが一層涙ぐむ音が聞こえる。
「……うん、分かった…でもやっぱり、さみしいな」
「ごめん……でも約束するよ。全てを綺麗に片付けて、きっとまたこの世界に戻ってくる」
「本当……?約束だよ……」
アイは泣きじゃくりながら声を絞り出す。
エイジはアイの方へ向き直った。
「ああ、約束する。だからいったん今は笑顔でお別れだ」
そう言うエイジの頬も涙が伝っていたが、それでもエイジはくしゃっと満面の笑みを浮かべていた。
それを見てアイもにこりと微笑み返す。
「バイバイ、エイジ。また今度ね」
「おう。またな」
エイジはそう言うと再びアイに背を向けて歩き出し、部屋を後にした。