アトランティス
エイジは目を見開き驚きを露にしたが、やがてある事実に思い当たった。
「いや……でも確かに誰かに見られているような、そんな感覚はこれまでずっとあった……」
「さすが、勘が鋭いね。君の人生はこれまでずっと、誰かに影から視線を向けられていた。だがそれは決して君に危害を加えようとするものばかりではない。君を守ろうとするものも含まれていたんだ。そう、この私のようにね」
エイジの頭の中には今すぐ投げかけたい質問が洪水のようになだれ込んでいた。
「俺を、守る……? いったい俺は誰から狙われているんだ? そしてあんたはいったい何者なんだ?」
「君を狙っているのは、エージェントと呼ばれる人間達だ。そして、少々ややこしくて申し訳ないが、君を守ろうとしているこの私もそのエージェントの1人だ」
「エージェント……?」
聞き慣れないその単語を耳にし、エイジは言葉に詰まった。
「ここからは君がこれまで培ってきた常識からは全く外れた話になる。簡単には受け入れられないだろうし、混乱もするだろうが全て現実だ。だからひとまずは私の話を落ち着いて聞いて欲しい」
そう言うとブライスは手元のコーヒーカップを手に取って一口含み、少し間を置いた後に話を続けた。
「エージェントとは、普通の人間には困難な課題や問題を解決するために存在する専門家集団だ。エージェントは高い身体能力や知性、そして各々の特殊能力を用いて、決して一般人には見られることなく影で任務を遂行する。この世界でその存在を知るものは一握りの限られた要人のみだ」
「一握りの人間にしか存在を知られていない……裏の世界の人間ってことか……?」
「裏の世界、それは半分正解で、半分不正解だ。確かにエージェントが主に生活しているのは裏の世界と呼べるだろう。だが君たちが裏の世界という言葉を使う時、裏とは抽象的な概念として用いられている言葉に過ぎない」
エイジはブライスの言葉を何とか噛み砕いて理解しようとするのに必死だった。
「一般人が関与することのない、ヤクザやマフィアが生きる世界。それは裏の世界とは言えど、確かにこの地上に存在する世界だ。あくまで概念としての裏であって、物理的な裏では決して無い。だがエージェントが暮らす世界は、本当に物理的に裏側にある世界だ」
「どういうことだよ……?」
いよいよブライスの語る内容が理解出来なくなってきた。
地上に存在……? 抽象的概念……?
いったいこの男は何を言っているんだ……?
「この地上に存在せず、時空を隔てて表裏一体、対称に存在する別の世界があるということだよ。その世界の名は、アトランティス」
すぐに飲み込むにはあまりに突飛な話だった。
小説やゲームの中ならまだしも、そんなことが現実にあるはずがない。
エイジは俄かに目の前のブライスに対する不信感を募らせ始めた。
「疑いの眼差しとは、このことを言うのだろうな。まあこちらもいきなり信じてくれなんて期待してもいない。ただ、その世界は現実に存在するし、私はそこからこちらの世界にやってきた。さて、君がこの話を信じるきっかけとなることを願って、1つ面白いものを見せてやろう。ちょっと目を閉じてもらってもいいかな?」
その語り口に思わず興味をそそられ、エイジは素直に言葉に従ってみた。
そっと目を閉じる。
目の前が暗闇に包まれた。
すると、前方の暗闇からブライスの声が響いた。
「さあ、では君がこの世で一番親しいと思っている相手を思い浮かべてみてくれ。老若男女は問わないから、直感に素直に従ってくれればいい」
エイジの頭の中には自然とアイの顔が浮かんできた。
「オーケイ、じゃあ目を開けてごらん」
再び前からブライスの声がした。
エイジはゆっくりと目を開け、飛び込んできた目の前の光景に思わず驚きの声を漏らした。
アイがそこに座っていた。
いったいこれは……?
驚きの表情を浮かべるエイジに向かって、目の前のアイが口を開く。
「びっくりしたかい?」
その声はブライスそのものだった。
目から入る情報と耳から入る情報が余りに結び付かず、エイジの脳は更に混乱を起こした。
「後ろを向いてごらん」
再びブライスの声でアイが話しかけてくる。
エイジは訳が分からないまま後ろを振り返った。
そこには特段変わったものは何もなく、テーブルと椅子、その先には窓が見えた。
何だよ、別に何もねえじゃねえか……。
頭に疑問符を浮かべたまま再度前に向き直ると、そこにはアイの形も影もなく、直前までと全く同じブライスの姿があった。
いったい今日はどれほどの理解不能な出来事と向き合えば良いのだろうか―
「びっくりしただろう。だが、我々エージェントの力を使えばこれくらいのことは朝飯前だ。君の常識を超えた世界があるということ、少しは分かってくれただろうか」
ブライスが再びゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
カップをテーブルに戻し、エイジの顔をひたと見据える。
「ふむ、疑いの眼差しから驚きの眼差しへと変わっているみたいだね。良い兆候だ。人はリアリティーを感じなければどうしても驚きを感じにくい生き物だからね」
ブライスは口角を上げて顔に小さく笑みを浮かべた。
「私たちはこのような特殊能力を身につけている。能力は人それぞれで、生まれながらにしてほとんど決まっていることが多い。日々困難な任務を遂行するにあたり、不可欠なものでもあるし、この力を持っていることがアトランティスに足を踏み入れる資格でもある。そして、驚かないで聞いて欲しいが、君もその能力を持って生まれてきた人間なんだ」
「そんな馬鹿な……そんな不思議な力、今まで一度だって見たことない……」
「まだ君の中に眠っていて完全には覚醒していないだけだ。君が気付いていないだけで、目覚めようとする兆候はこれまで何度もあった。その度に俺たちは君のことを注意深く監視していたわけだがね。こちらの世界でその力が暴走でもしたら大変だ」
エイジは両手を頭に当てて俯いた。
自分が一体何者なのかが分からず、己の存在を不気味にさえ感じていた。
その時ブライスが「失礼」とエイジに断りを入れ、さっと額に右手を当てた。
「ブライスだ。どうした?」
どうやらまた例の特殊な力でこの場にいない誰かと通信をしているようだ。
しばらくブライスは相槌を打ちながら発信者の話を聞いていた。
しかし、話を聞くブライスの顔は徐々に険しさを帯びていった。
「なるほど、それはまずいことになったな……」
カフェの2階には徐々に不穏な空気が漂い始めていった。