裏鉄道
「準備は出来たか」
部屋の扉を開けるなり、ブライスはそう尋ねてきた。
「……ああ」
エイジは荷物を手に立ち上がった。
いよいよこの世界を離れ、アトランティスへ旅立つ時がやってきた。
アイに別れを告げたのは三日前。
容態の回復したアイはアジトを離れ、自宅に戻っていた。
一方エイジは、ブライス達の指示のもと出発の準備を少しずつではあるが進めて来た。
いきなり自分がいなくなるなんて、騒ぎになったりしないんだろうか――
そんな気持ちは自然と浮かんできたが、「大丈夫だ、全て私達に任せておけ」とブライスになだめられてしまった。
そう言われてエイジは、この世界で自分という存在はいったい何だったのだろうかと少し虚しくなりもした。
ただ唯一、一緒に暮らしていた母親にこの事実を告げる役目だけはエイジが担ったが、母親の反応は想像もしないものであった。
◆◇◆◇
「遂にこの日が来たのね……」
この世界を離れることをエイジから告げられた母親は、驚くどころか至極冷静に言葉を返した。
「えっ」
エイジは母親の予想外の反応に面食らった。
母さんまで、俺の知らない秘密を隠していたのか――
「ごめんね、そりゃあびっくりするわよね。でも決して悪気があったわけじゃないわ。そのタイミングが来るまで、待つしかなかったの」
ここ数日で理解の及ばないことが起こることには慣れていたエイジだったが、母親まで自分とは違う側にいたことは青天の霹靂だった。
「何だよみんなして……まあいいや、どうせ複雑な大人の事情があったんだろ」
「私の口からは多くは言えないけれどね……ただ、あなたにはあっちの世界でやらなくちゃいけないことがある。それは紛れもない事実。全てはアトランティスに行けば次第にはっきりしてくるはずよ」
「分かったよ。やればいいんだろやれば」
「ごめんね……母さん、こっちの世界から応援してるから。きっとあなたならやり遂げられる」
「やるだけやってくるよ」
◆◇◆◇
母親に別れを告げたエイジはアジトに戻り準備を再開した。
ブライスからはアトランティスについても簡易的な説明を受け、本もいくつか渡された。
アトランティスの歴史や常識、そしてエージェントについてのこと等が丁寧に記されていた。
しかしエイジはぱらぱらとそれらの本をめくっただけで、あまり熱心に学ぶことはなかった。
未だに本当にあるのかすらも分からない、想像もつかない世界のことを真剣に学ぼうという気にはどうしてもなれず、心ここにあらずという状態だった。
そして迎えた出発の朝。
エイジはブライスに付いて部屋を出た。
アジトの玄関に着くと、扉の前でアレフが既に待っていた。
「よう、エイジボーイ。どうだい、新しい世界へ出発する気分は?」
「まだ全然現実味ないね」
「恐れるこたあねえぞ。人生はいつだって冒険だ」
アレフは陽気に言い放ち、扉を開けて外へ出た。
「今日も変わらず調子が良いな、お前は」
ブライスがそれに続く。
人生はいつだって冒険、か――
エイジはアレフの言葉を心の中で反芻し、入り口の扉をくぐった。
◆◇◆◇
アレフの運転する車は、この前と変わらず急速度で進んでいる。
後部座席に座っているエイジは、一瞬で背後に消えて行く窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
「さて、いよいよアトランティスへの渡航だ。ここからの流れを説明しよう」
ブライスが半身になってエイジに向き合い、口を開いた。
やっとか、とエイジは思った。
そのアトランティスとやらへはどうやったら行くことが出来るのか、という疑問は当然ながらエイジは抱いていたし尋ねもしていた。
しかし「当日になったら説明するよ」と言われ煙に巻かれていたのだ。
「アトランティスへ行く方法はただ一つ、裏鉄道を利用することだ」
「裏鉄道……?」
「ああ、地下鉄とはまったくの別物で、一般人はその存在を当然知ることはない。限られた者のみが利用することを許された特殊な路線だ」
「いったいどこにそんな路線が……」
「これからマクアケというビルへ向かう。ショッピングエリアやオフィスフロアも入っている複合ビルだ。」
マクアケと言えばまだ高校生のエイジでも知っている有名なビルだ。
平日・休日を問わずたくさんの人で賑わっているはずだが、そこが裏鉄道へつながっているとは俄に信じ難い。
「そのビルのエレベーターから、裏鉄道の駅へと降りることが出来る」
「もちろん、普通の人間はそこまで辿り付けやしないぜ」
アレフが運転席から補足する。
「裏鉄道とは言え、乗り方は普通の電車とさして変わらない。駅に着いたらまず切符を買う。で、指定の電車に乗り込んで出発を待てば良い。後は電車が勝手に裏世界へと連れて行ってくれる。どうだ、簡単だろ?」
「まあ、それぐらいなら」
マクアケへと向かってスピードを上げる車の中で、エイジは裏鉄道の想像を膨らませてみたが、すぐに諦めた。
エイジはここ数日で、人間の想像力というものがいかに貧困で、人は自分の目で見たものを基点にしか考えられないのだということを痛感していた。
それから15分としない内に車はマクアケ・ビルの裏の駐車場へと到着した。
「つきましたっと」
アレフの声とともに車は完全に停止した。
「ご苦労、アレフ。良いドライブだったよ」
「そりゃどうも」
一同は車を降りて駐車場を後にし、マクアケ1階のエレベーターホールへと向かった。
エレベーターホールは、今日が平日ということもあり特に混雑はしていなかった。
これからショッピングでもするのであろう若い女性達が数名、ぱらぱらとエレベーターの到着を待っているだけだった。
エレベーターは全部で5台あり、そのうちの左から2番目の台のみボタンが黄色く点灯していた。
残りの4台はがら空きで、誰もその前に並んではいない。
ブライスとアレフはその空いたエレベーターのうち、一番右側に位置するものに向かって進んだ。
エイジもそれに従い、3人はそのエレベーターの前で立ち止まった。
ここは1階で、マクアケには地下フロアがない。
そのため、エレベーターのボタンには当然上向きのボタンしか備え付けられていない。
「面白いものを見せてやろう」
ブライスはそう言うと右手を上げ、エレベーターのボタンの前にかざした。
すると不思議なことに、そこにはあるはずのない下向きのボタンが急に出現した。
「えっ……ボタンが急に出来た?」
「出来たというより、元からあったものが見えるようになったという方が正確だな」
ブライスはかざした右手でそのボタンを押した。
そして待つこと数秒、上階からエレベーターが到着した。
ここより下の階はないはずなのに、進行方向を表す矢印は下を指している。
周りの人々は自分達のエレベーターが来るのを今かと待つばかりで、こちらの不可思議な状況には気付いていないようだ。
「さあ、乗るぞ」
エイジは2人に続いてそのエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターの扉が閉まると、ブライスはまたしても右手を階別のボタンの前にかざした。
すると再び、これまでは存在していなかったボタンが一番下に出現した。
ボタンの中に書かれている文字は「US」。
ブライスはその「US」と記載されたボタンを迷うことなく押した。
指示を受けたエレベーターは、本来存在することのない地下階に向かって動き始めた。
「USってどういう意味なんだ……?」
エイジはブライスに尋ねてみた。
「Under Stationの略さ。つまり裏鉄道の駅に向かって降りているってことだ。到着まではしばらく時間がかかるぞ」
エレベーターは徐々に下降スピードを上げていった。