ロタティオン
ラビュリントに連動させて頂いています。
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夏の始まりを歌う翡翠の声、葉の上をすべる銀の露、包まれるねっとりとした泥の気配、滑らかな圧迫。赤い花の影、煙るのは灰でなく――濁った澱。
覆い被さる水が重い。息が、できない。
「――雨だな」
浴室の扉が開いた音がして、室内履きをつっかける足音と共に石鹸の香りが流れ込んできた。追って湯気の温もりと、それから雨音。
遠退きかけていた意識がふいと戻った。
湯を使う音でかき消されていたけれど、廂を叩く野太く重い反響に、長い雨の気配がした。
「"ご休憩"のつもりだったんだが、泊まりにするかな――あんたはどうする?」
不意に向けられた声に俺はびくっとなる。
「一緒に泊まるんだったら宿代は折半」
ぱたぱたという軽い足音が、俺の転がっているベッドに近づいてくる。
「もう一戦交えてくれるんなら、俺の奢りでもいいぜ?」
俺の頭上でふふん、と笑う声がする。あの妖艶さと悪戯っぽさのない混ざった口元が脳裏に浮かぶ。
「あんたのアレ、俺の丁度いいとこに当たってくれて、悪くないんだよな」
艶めかしい声と即物的な誘い――だが。
「……う」
「……う?」
「……うううう、う」
俺の喉から漏れたのは情けない呻きだけだった。
「そんなにぶっ倒れるほど絞り取った覚えはねぇけどな」
いやいや絞られましたよ?俺のインディカ米が磨き二割三分で大吟醸になる程度にはあんたにもみくちゃにされましたよ?――と答えたつもりが
「……うううう、う」
俺の口からは再び平べったい呻きしか漏れない。
「しっかりしろよ」
「う」
ピクリとも動けない。瞼も上がらないから彼がどんな顔をしているかも解らない。
「てっきり賢者時間で一息ついてんだと思ってたんだが、風呂から上がっても全く同じ格好で転がってるなんて……なんだこりゃ」
ごめんなさい。
「色々喰ってきたつもりだけどさ」
言い終わりの声がそのまま溜息で吐き出される。
「散々セックスした後でさ、ふと気がついたらひっくり返ったまま『うううう』って呻いてる男なんざ、流石に初めてだよ」
改めての盛大な溜息に、俺も情けなくて涙が出そうになる。が、本当に申し訳なく情けなく惨めなのだが、体は今、全く言うことを聞いてくれないのだ。
雨は相変わらず重く廂を叩いている。
自分で言うのもなんだが俺の身持ちは結構堅く、友人には草食を越えてサイレージか山奥の仙人かなどと揶揄されていた。
猛烈に健全な家庭で暢気に育った故のお堅い貞操観念のせいなのか、姉と幼なじみから日々受け続けた理不尽な虐待で染み着いた女性への達観的不感症なのか、など諸々のしょうもない理由を思いつきはするけれど、本質の所は解らない。
思春期特有の青い嵐を、繊細な情動とはほど遠い穴ぐらの闘争に踏み込んで発散していた報いなのだろうとは思うが、今となってはもう、どうでもいい昔話だ。
そう、なにもかも昔話。
生々しい感情の起伏に今一つ乏しい、という俺の残念な気質も、この歳になればいっそ生きるに気楽で誇らしいもんだ、などと高をくくって油断していたばかりに昨日の、数時間前の、集会所で、うっかり鯖味噌定食をつついていたばかりに俺は。
「うう…」
いや違う、鯖味噌定食は関係ない。鯖に罪はない。あるのはさらりすべりとした、長い指の、重ねてきた手の、上目遣いの潤んだ目の、熱さに負けた、俺の弱さだ。
――考えがまとまらない。
ぼんやりと断片的でとりとめなく、言葉と気付きが意識の表面に浮かんで流れていく。
まあ、とりあえず、終わったんだ。
衝動と性欲に翻弄され日々悶々と過ごす友らの姿や、狭い交遊関係で色恋沙汰を拗らせどろどろもがく有様を眺めては、大変だなぁあはは、と暢気に他人事で済ませてきたけれど、それもつい先日までの話で終わった。
深く恋愛関係にでもならない限り体を交えないという清教徒の如き信条を是として生きてきた俺が、渾名が後少しで「ヨッコラショイもしくはじいさん」となりかけた俺が、今、初夏の嵐に蹂躙されている。
俺の前に突然現れた嵐ことリットは、ただひとこと、心臓にくる位、めちゃくちゃに綺麗な男だった。
そう、男。付いている。付いているべきところが付いていないし付いてないでほしいところが付いているし出てるところが出てなくて出てないところが出っ張っていて何かもうよく解んないけど、間違いなく男だった。
力も強い。
一度目は出向ついででお邪魔した寄り合い所のトイレ。
個室に突然押し入られてぱっくりと頂かれてしまうという官能小説もかくやの勢いある展開に、現実を認識する速度が全く追いつかず、本日俺は犬というか猫に噛まれたんだと思って家に帰って布団にくるまって寝て、なんとか凌いだ。
男と合体したのは、初めてだった。同じ状況で女に喰われても家に逃げ帰ってしくしく泣いていた自信がある俺に、きれいなお兄さんがのしかかってきてなんかもう、よくわかんないけどすごい目に遭わされ気持ちよかったという、この衝撃。つらい。清純派の草はみ男にはつらい。嫌だとかそう言う訳じゃないのがつらい。俺の人生の語彙の中に用意されていなかった状況と衝撃で、なにがなんだか解らないし形容しがたく概念化できないのがつらいとしか言いようがない敗北的つらさ。
同性愛者の友人は男女共にいるけれど、それとこれとは、知ってるのと喰われるのは全くの別の話であり、というか友達はそもそも俺を喰わない。喰わないから友人なのだ。
二度目も寄り合い所、先ほども言ったがつい数時間前の出来事だ。僅かな会話、名前を交わしあった後、何故だかいきなり食事のテーブルから連れ出されて宿屋に放り込まれ、文字通り一戦交える羽目になった。といっても、ほとんど彼のリードと要求で埋め尽くされて終わった行為だったが。
そして今、敗北者俺はベッドに転がって呻いている。ちなみに気持ちはよかった。
リットは、綺麗な男だ。
さらりとゆれる髪は淡紅色、染め残された眉と睫のはっきりした色味が、白く華やかな作りの顔を際だたせていた。声は涼やかで心地よく、潜められていても耳にはっきりと届く。唇は丸く紅を引いたように薄赤い。一度触れられれば忘れられないぷるりとした柔らかさが、自分でも解っているのか、話しかけながら煽情的に開いて突き出され、笑んで歪む。
明るい場所で改めて見る彼は、明け透けな花のようで目に痛く、俺はつい動揺して視線を逸らしてしまった。追うように覗き込んでくる仕草も、少し怖い。歳を食ってそこそこ直ってきたと思った人見知りが、彼を前にすると生まれたての感情のように俺を苛む。
それなのに彼の長い手足は見たこともない優雅さと毒々しさで遠慮なく俺に絡み、くいと縛る。心と逃げ出したい足を。裏表にちらつく蠱惑と寒気。
どうしていいかわからない。
言葉も、互いの事情も取り交わさず突然に脆い内臓を擦り合わせて、一番隠しておきたい無防備な反応を搾り取られ目撃された。俺には絶望的気まずさなのだが、彼にはそれが解っていないのだろうか。
――一度目は事故でも、二度目は故意だ。
俺が気圧と疲労に痺れて目も開けられず声も出せない、考えも纏められない状態なのは、幸運だったのかもしれない。今正気で彼に対峙したら、取り返しの付かないしくじりをやらかしていた、気がする。
俺は今、ただぼんやりと、曖昧に前後する時間と記憶をたゆたっている。このまま彼が俺の姿にすっかり呆れてなぶるのを諦めてくれたら、男としては情けないけれど今後が楽なんだけど、な。
頭上では、ぱふ、ぱふと髪の水を拭き取る音。姉貴がよくやっていた仕草。懐かしい響き。ここが宿屋なのを忘れそうになる。
「……もしかしてあんた、雨――低気圧、駄目なのか?」
ふと、思い立ったようにリットが尋ねた。
「う」
大丈夫な時と大丈夫じゃない時がある、大雨の夜はだいたい駄目で、今日は特別駄目なやつだ。そう説明したいのに、口から漏れるのは相変わらずの間抜けな後舌閉母音。
「仕方ねぇなぁ……」
ぎしりとベッドが揺れて、リットが腰を上げたのが判った。そのままパタパタと部屋を横切る足音。水音。じゃっという雫の合唱。水を含んだ布を絞る音だな、と考える隙に、俺の意識は再びぬるりと闇へ引き込まれた。
つるつると、落ちて、沈んで、音も何も聞こえなくなっていく。黒い、黒い、冥い、世界。
その真っ暗な意識の中にぽっと、ちいさく明かりが開いた。
見えたのは先ほどの続きだ。
夏の始まりの朝の空気、水の匂い、紅い花――
「風呂に入れって言いたいけど、どうせ無理だろ、あんた」
鼻をくすぐる湯気。いつの間にか頭上にリットの気配が来ていた。
俺の横に手をついて腰を下ろす軋みに、体が揺れる。そして、ぽっと、胸に暖かいタオルの感触。
「臭い男と同衾する趣味はなー、流石の俺でも持ってないからな~」
そう言いながら胸から鎖骨、鳩尾と臍。お互いの体液が混じり合っただろう場所を順番にぬぐっていく。呆れたような言葉と声に似付かわしくない、慣れた、優しい手つきだ。気持ちいい。
人肌より落ちた温度が局部を撫でて、背筋が思わずぴくりと震えた。つまみ上げられる圧迫感と生理的な快感、空気の通る瞬間のひやり、それから、もう一度熱。折り畳み直したタオルが、内側に含んでいた暖かさだ。
子供の頃にされたような、丁寧な清拭。
「終わり、っと。ほら、水。飲め」
「う……」
「駄目か……」
溜息の後、ぎしりと床がきしんでことりとグラスをおく音。
それから、
「……う」
「……ん」
髪が頬を撫でたのと同時に柔らかいものが唇を塞いで、それからちゅるり、と何かが口の中に忍び込んでくる。
水だ。あまい、水。
リットは、俺に口移しでひとくちぶんの水を、流し込んできた。
「起きないからだぞ」
フフと息で笑う音。ああ、これ、意地悪のつもりなんだ。
「ほら、起きて自分で飲まないと、もう一口いっちゃうぞ~?」
俺はもしかして苦悶の表情でも浮かべていたのだろうか。からかうような声が、耳元で脅す。苦しいなんてない、むしろ甘くてやわらかくて、不思議な感覚なのに。
「しゃーねぇなぁ」
何回目かの仕方ないの声と共に、触れる唇。
気が付いているのかいないのか、リット、お前は面白がっているけれど、これが俺達の初めてのキスなんだ。
口腔を潤す水の感触に、俺はぼんやりと思い出す。学生時代、よく研究室の真水を失敬して飲んだっけな。ぴりぴりと滲みる変な飲み心地だった。
完全なH2Oの塊には完全に味がない。ただ、肌を薄く氷の刃で切るような感触だけが口内を走る。
――完全な水は、あらゆるものを少しだけ溶かす。本当にほんの少しだけれど、硝子ですら、銀ですら、人の肉ですら溶かすんだ。
ああ、そうか。そう、なんだ。
唐突に理解した。俺は、完全な欲望の時間に日常から切り取られたように投げ込まれて、却って何も味わうことが出来ないでいたんだ。
ただ、当たり前の生理的な快楽に揉まれ、押し上げられて、困惑して果てた。それだけだった。
今やっと、追いついたように彼との触れ合いを感じている。
本能的に彼に感じていた怖さが少しづつ、薄らいでいく。今更のように。
「……寝ちまったか?」
口の端からぽろりとこぼれた水を親指で拭いながら、リットは呟いた。
じんわりとした幸福感で体の痺れが少しとろけた、気がした。そうすると、つと、言葉が喉からほどけ漏れた。
「はなが……」
「はな?」
突然の言葉に戸惑うリットの声。濡れたのかなと、指が小鼻の横を拭う。
俺も、自分でどうしてそんな言葉がこぼれたのか解らない。だがもう、理性と思考と意識と身体はどれもこれもばらばらで、ただ言葉だけがぽろぽろと、どこか遠いところからこぼれてくる。古い走り書きの付箋が日記から散らばり落ちるように
「ろくがつの、あさ、の……」
「……」
ん?と言うように呼吸が流れて、俺の言葉を待つ気配。
さらりと揺れる髪の幻影。追って揺らぐ空気とほんのりと甘い香りに、彼が本当に小首を傾げて覗き込んでいるのが判った。瞼の裏に彼の影がたゆたう。まるで木漏れ日のように。
「すいれん、だなって」
「……は?」
「夜明けに、音がするんだ……」
「ああ、その花、か」
ぎしり。俺の体が右に傾いで、傍らにリットが身を滑り込ませてきたのが解った。
「ふうん……?」
「ぽん、て、ほおずきを割るような、ききょうののつぼみを割るような、そんなおとが、とおくで……」
とおくで。だけど昨日の、今朝の音のように俺の耳の中で響く。ぽん。忘れたように、ぽん。嘘のような幻のような、記憶。
「音を立ててはじけるのが蓮花で……、浮かんで、ゆれて……夕にねむるのが睡蓮で」
「ん」
「ほしかったんだ……しずくが……銀色で、きっと甘いから」
葉の上を滑って集う露は、蜜を思わせ俺を誘った。
「ふかいんだ、こどもだと……おぼれてしまう、しらなくて」
「……」
淵の底、泥を踏んで沈む足先の唐突な感覚、そう、それは、彼の体に埋まり込む感触に熱以外の全てがそっくりだった。
「でも」
大丈夫なんだ。俺は傍らの体に頭を寄せた。さらさらの肌、脇のくぼみ、肋骨の華奢な胴の奥、拳一つ向こうでとん、とんと、こだまのようなゆっくりの心音。
「いきてる……」
「……」
「いま。いきてるから……」
大丈夫。どうして助かったかは覚えていないけれど。
ただ強烈な日差しが俺を引き上げた。水面はこちらだと、掴まる葦はここにあると――そう続けたかったけれども、限界だった。自分の意志ではままならず、俺の息は眠りに入る緩やかさに支配されていく。
「……しょーがねぇなあ」
首の後ろに、慣れた仕草で腕が滑り込んでくる。
「まあいいか、…あったかいし」
俺はぼんやりと、あれ、そういえば、と思った。
気紛れで傲慢で享楽的な態度を見せつけるように装いながら彼は、他の誰かのだらしない姿や無防備な体、甘えに、慣れているんじゃないか?
家族だろうか、兄弟、妹、それとも――
それともむしろ、もしかしてリット、飢えていたのは、体じゃなくて。
「なんだろうな、この状況」
打ち消すようなタイミングで心底呆れた溜息をつきながら、リットの声の奥は笑んでいた。
「宿代は折半、な?」
なんだよ、とんだ子守歌だ。
体が痺れていなかったら、抗議していたところなんだけどな。
深い夜に遠い雨、二つの吐息はすれ違っては重なり、また離れていく。
耳元には心音。秒針の打音に似過ぎた拍子、俺は時を刻む速度がゆるんでいく錯覚にとらわれる。
俺は花を想う。
雫に打たれてほつれる睡蓮、泥より生じて濁りに染まらず、夕闇にふれてただ微睡むように閉じる花、その甘い香りを思った。
俺の体には子供の時代が長すぎて、永遠に続く夏のような記憶ばかりが思い出を占める。
その中に滑り込む、夏華の幻影。
リットはなぜか、俺の思い出によく馴染んだ。最初に死にかけた、絶望の記憶とよく馴染んだ。
手は背中。ぽんぽん、とあやすように叩いて、それから深い吐息。眠りに落ちる準備だ。そっか、あんたもこのまま、眠るんだ。
でもさ。
こんなことされたら。こんな距離じゃ。
好きに、なっちゃうよな。
俺はぼんやりと、馬鹿みたいにそう思いながら、暖かい泥濘に落ち溶けた