9余所の夜の住人
伏線って難しいんですね……
金城洋平は呆然と立ち尽くしていた。
そこには自らが命を駆けてほしいと思ったものが存在していたからだ。
命をかけてというのは比喩ではない。
覚悟の深さを表す比喩ではないのだ。
例えその笑顔を見る条件が自らの命を投げ出すことなら、迷わず差し出して見せよう。
それほどまでの決意であった。
そこが、そんな情熱と意思を持ってして望んだ結末が、これか。
魅せる為でもなく、打算的な勘定無く――純粋に、純然に、信頼を、親愛を、表す微笑。
彼女がそんな表情を浮かべるのは二年かかって一度も無かった。
浮かべる笑みは魅せる為の偽物だけ。
それは確かに雹のように怜悧な美しさをたたえていて、芸術と見まごうほどに完成された笑顔だったけど――
あまりの底の無さに、最初は恐怖すら覚えた。
だが、その一瞬の後、すぐに心を奪われた。
その表情を浮かべた後、彼女は悲しそうな顔をしたのだ。
まるでそれは子供が親に重大な隠し事をしているかのような、そんな痛みをともなった顔で、
まるでそれは愛する人を守るため死地におもめく、悲痛な自己犠牲を湛えた人間のようで、
その顔に心がバラバラにされた。
今までずっと顔色をうかがって、逃げて、媚びてきた自分だからこそ――理解できたその苦しみ。
まるで夜のような根底からの闇。
その時、彼女に比べて自分がどれだけ卑小な人間かを思い知らされた。
流麗雹華と呼ばれ、学校中からあがめられるような人気を持つ少女の内に潜むのは、ただの暗くて底の無い闇だった。
だからこそ、だからこそと金城洋平は思う。
自分はかつて苦しみの中にいた。女みたいな顔をしているからと、他人と違う特徴を持っているからいじめられた。
女、女と囃し立てられ、自尊心を完膚なきまでにたたきおられた。
だが、その心は救われた。
友人がいた。
友人はいじめを回避するのではなく、耐えることを教えてくれた。
様々な論理を教え、様々な道理を教え、そして僕に趣味をくれた。
自分よりしたがいる。蔑むことは決して悪いことではない。自信をつけるために必要なことなんだ――
そして、様々なメディアを紹介してくれた。
読書、ゲーム、卓球。
趣味に没頭する間は幸せになることが出来た。
どんなに辛いことも将来を具体的に見据えることで乗り切ることができた。
学校に行かないで失敗した人の話を何件も何件もかき集め、学校に行くことの重要性を刻んだ。
それはつまり失敗した人を差別し、学校に行っている自分を上位とみるということで――
そして理解する。
僕をいじめた彼らは他人をさげすむことによって自分が自分である証を得ているのだと。
蔑んだ者は自分より下となる。
相対的に自分の価値が上がる。
自らを高めるという生きているものの大前提。
しかし流麗なる白眉芳乃にはそれがなかった。
それを畏れているかのように振舞うのだ。
助けたかった。そう強く思う。
視線をずらすだけでこんなに世界は変わるのだと教えてあげたかった。
それが契機なのだろう。
気がつけば彼女の全てを守りたいと思っていた。
自然な笑顔を浮かべ、切り捨てることを覚え、自分のために生きる。
その彼女を思い描く。それは本当に美しい姿だった。
分け合いたい。背負いたい。僕に苦しみを預けることで、もっと美しくなって欲しいとおもった。
他の人間は彼女が背負っているものすら知らない。知った人間は離れていくのだ。
美人過ぎるだの、欠点が無くて不気味だのなんだのと理屈を捏ねて。
だから僕しか彼女を救えないと――無意識とはいえそう思って、思いこんで――つまることろ思い上がっていたのだ。
けど、その思い描いていた笑顔は寸分の変わりなく現実のものとなって、それでいて彼女は僕の隣に居なかった。
嗚呼、そうか、なるほど――
回転を続け、熱に浮かされたようになる頭が、答えを出す。
今まで述べてきたのは建前で、契機になったかもしれないけど本質には届かない。
そう、この一言で、全てを理解させることが出来るのだ。
なんて陳腐な言葉なのか。
――こんなにも彼女が好きだ。
「それで……ミスコンの件はどうなったんですか?」
金城少年の質問から、幾つもの視線が注がれる。
夕日の降り注ぐ放課後の会議室には異様な熱気が生まれつつあった。
そんな空気を全身に感じつつ、雄平はため息をついた。
ここにくるとため息ばかりついている気がする。
「許可は残念ながらもらえませんでした。意志はどうも固そうですね」
しかしだからといって嘘をつくこともできないので、正直に今日の成果を話すことにした。
「そうですか……」
あちこちからため息が漏れた。
ため息が狭い教室に充満する。
……居心地が悪い。
変えようのない真実は時として絶望になる。悪くないはずなのに槍玉に挙げられるのは勘弁願いたい。
「……しかし、なあ」
「う〜ん……」
だが、周りの雰囲気は失敗した自分を糾弾しようという流れではなかった。ざわめきのようにひそひそ話が横行している。何かをためらっている雰囲気だった。
「食堂で、なあ……」
聞こえてしまう。人は自分で思っているより大きな声で話しているものだ。
びくり、と表情がこわばるのを押さえられなかった。
それを見てざわめきがさらに大きくなる。
救いを求めるようにまとめ役の3年生に助けを求めるがぼんやりとした眼で外を見つめていて、上の空だった。
「あの……食堂で白眉さんと話をしてたって聞いたんですが……その時に断られたんですか?」
ざわり、と周囲が色めき立った。
問いを発したのは金城少年だった。その表情は感情が不透明で、底が見えない。
大勢のいる場所で聞くことではないと理解しているはずなのだが、それでも好奇心が押さえきれなかったのか――それとも、嫉妬の念か。
「ああ、その時にね」
一応その話もあった。その後に言われた言葉があまりに鮮烈に脳裏に焼き付いていて覚えていないが。
「……そう、ですか……」
彼も理解しているのだろう。そんなことを話している空気ではなかったと。
しかし――学校でもほとんど関わりを持っていない筈である自分と芳乃がいかなる話題を持っているというのか。
それこそ、文化祭の話題以外ないはずである。
そう、思っているのだろう。だから引き下がるしかない。
ほかの人もそう思っているのだろう。
なんと聞けばいいのか、理由がない。
食堂で何を話していたのか――文化祭のことだ。
そういわれればもう聞き返しようがない。
『水』だの『釘』だの言われても何のことだかさっぱりわからないだろう。
結局のところそれだけだった。
だから会議が終わった後、金城少年が話しかけてきたのがかなり誤算だった。
「あの……故烏先輩?」
前と同じシチュエーションだった。
夕日の照る廊下。
「何?」
同じように怪訝そうな格好で振り返る。
用件はわかっている。だが、なるべくならば聞いてほしくはなかった。
えもしれぬ罪悪感。
ふと真っ赤な夕焼けを見てしまう。
一瞬の空白――
以前もこのようなことがあったような気がする。
紅い絵の具が降り注ぐように――
浮かぶ、少女の姿。
――雄平!
「あの……」
「っ!?」
視界が眩む。鮮やかな夕焼けの紅い色がやけにどろどろとして見えた。
「なんだい?」
なんとか持ち直す。
まただ、また何か……
「あの、先ほど同じ質問です」
その原始振り払うように金城少年を見つめた。
精悍な顔つきの美少年が夕日を背に立ちすくんでいた。ぞくり、とする。言いようのない不安が背筋を駆けめぐった。
「白眉さんと……何を話していたんですか?」
それは――と口を開き書けて、封殺された。
「何で、白眉さんは……『ふつうに笑ってた』んですか」
「っ!?」
悪寒がする。そう、あの笑みは、『夜』を溶かすような日向の笑みは――
流麗な、いつもの笑みだったか?
「君、は……」
言葉が続かなかった。『見てしまったのか』と続けるつもりだったのに。
唇が張り付いたように動かない。少年の眼がまっすぐにこっちを見つめてきていた。
あまりにまっすぐな眼だった。
こちらを恨んでいる眼ではない。
――自分自身を、恨んでいる。自分を悔いている。
こちらへの感情は少なからずあるはずなのに、完璧に自制していた。
泣き言を言いたいのかもしれない。
文句を言いたいのかもしれない。
けど、その目は、ただ事実を事実として確認するための意志をたたえていた。
「わからない。俺にもわからない」
悔しかった。彼の心に届く答えを持ってないのが心底悔しかった。
彼女の真意はわからない。
今すぐに『夜』の出来事を全部ぶちまけたい衝動に駆られた。
「そう、ですか……」
金城少年はそういってうつむいた。うつむく顔は暗い。
何か言葉をかけよう、そう思った。
「ありがとう、ございました……」
けれどその瞬間に、金城少年はきびすを返していた。
止める間もなかった。
瞬間、また立ちくらみがする。少年の姿が誰かにダブる。
まぶしい微笑をたたえた――
「待って!」
何に問いかけたのかもわからない。
その声は何にも届かず、廊下に響き渡った。
『夜』の中を少女は疾駆していた。
脳内に激しく警鐘が鳴っている。
まずい、と全身が訴えていた。
これまで上手くいっていたのだ。どこまでもプロセス通りに完璧に完全にいっていたのだ。
何もかもが正しい形に戻って、みんなみんな幸せになれるはずだったのに――
「なんで……っ!」
なんで、上手くいかないのか。
無音の闇に音が起こる。
その音は人ほどの大きさを持つ球体から漏れ出ていた。
奇怪な音だった。機械が軋むような、獣の鳴き声のような――そんな音である。その球体は黒い。周囲の闇に融け込むようにうごめいている。
どくん、とそれは胎動した。
それは化け物の生まれ出ずる兆候。
音がさらに大きくなる。
ぎぎぎぎががががががががぎぎぎぎぎぎ――
壊れたレコーダーのように、それは鳴る。
その音を形容するのにもっとも適している形容はこれだろう。
ノイズ。
不協和音。
闇がうごめく。
「化け物……ッ! ここは彼らの『夜』だ! 去れッ!」
そう言い放ち、少女は脇目もふらずその闇の種子へと突撃を開始した。
地を蹴り、跳ぶ。空気の壁を切り裂く異音とともに少女はその球体へ一撃を見舞った。
拳の一撃。全体重を乗せた渾身のストレート。
「う、ぐっ……」
紅い飛沫が舞う。
血だ。
少女の腕は馬に引きずられる罪人のように後方へ勢いよくはじき返されていた。
その顔に浮かぶのは焦燥の色。夜に少女の長い髪が踊る。
「強い――」
予想を遙かに上回るほどにその化け物は強かった。手の皮が裂け、血が一つ、二つと『夜』の地へ染みこんでいく。
痛いというよりは熱い。
後を引く鈍い痛みではなく、意識を刈り取る鮮烈な痛み。
少女は笑う。
――そう、それでいい。私は切り裂かれるのが似合っている。
「ぁぁぁぁぁっ!!!」
笑みのまま再度球体に跳んだ。より強く、この拳を握って。
剛、と拳に力が宿る。その拳に無骨な籠手が装着されていた。
強く、強く、強く、強く。
感情が拳に乗っていく。轟々と意志が手のひらで渦巻く。
穿つ意志。
一打。
凄まじい轟音が『夜』に響き渡った。少女は笑う。
次の瞬間、球体に網の目のようなヒビが入り、きしむような音を立て、球体がふるえる。
そして、ガラスの割れるような音とともに球体が吹き飛んだ。
終わる――そう思い、少女は静かに拳を下ろした。
「な――っ!?」
次の瞬間、安堵の笑みが驚愕に変わる。
「ア――――――」
闇がふるえる。ガラスのように千々に割れた黒い飛沫がまるで黒い雪のように降り注ぐ。
その中心に動く物があった。
『それ』は軋むような音を立て立ち上がる。敷き詰められた黒い雪を、『それ』は悠然と歩いていた。
その口から漏れるのはうめき声ともつかぬ異音だった。
「生まれた、か。化け物」
少女は再び構えをとる。
その体からゆらめく闘志は一分も衰えない。
いったい何なのだろうか。少女は余裕の笑みを浮かべながら、内心は歯ぎしりしたいほどに余裕をなくしていた。
目の前にたつ化け物をみる。
黒い。しかしその黒さは周囲を包む、虚無のように深い透明な黒でなく、湖の底に貯まった汚泥のように不透明な黒さだった。その黒は炎のようにゆらゆらと揺れ、おぼろげに人型を作り上げている。
手がある、足がある、頭がある。体がある。
目と鼻のあるところには穴が開き、まるで顔のような形になっていた。
化け物は何も言わない。ふるえるようなうめき声さえ、もう発しない。
「去れ、消えろ。ここは貴方の『夜』ではない」
感情を押し殺した声で少女は宣告した。
少女がその化け物を見る目は限りなく深いやるせなさがあった。
「貴方ならわかるだろう。その思いは闇ではあるが悪ではない。恐怖ではあるが罪悪ではない。それは自らを苦しめる物。前に進むために自らを焼く炎。それは他人を焼くものではない! 自らの『夜』に帰れ!」
凜、と少女の声が『夜』に響き渡る。その声は『夜』の中に残響し、びりびりと周囲の空気をふるわせた。
化け物が止まる。ぐらりと身を傾がせて。
少女の表情に微笑が浮かぶ。
だが、その表情は――
「つっ!?」
すぐに、こわばった。
化け物は傾いだ体をバネのように縮ませ、弓につがえられた矢のように跳んだ。
その手が少女に向けて突き出される。全身の闇が炎のように陽炎をまとい揺らめいた。
「そうか――っ! それほど悪になりたいか!」
拳を腰だめに構え、少女は咆哮した。
「消えてもらうぞ! 余所の『夜』の住人!」
クライマックスまであと少し。