4白い記憶が少女と重なる
さて、四話目です。日常パート。
目覚めるときは『夜』に入るときとは逆で、引っ張り上げられるような感覚で眼を覚ます。体に残るだるさをチェックしながらゆっくりと芳乃は背伸びした。
部屋の隅に立てかけてあるプラスチックの時計を見る。『夜』に入るようになってから必ずこの時間に目覚めるようになったので、目覚まし時計はベッドの隣にある机の引き出しの中で埃をかぶっている。
カーテンの隙間から漏れる朝日はまるで『夜』を消し去るように強く照りつける。
十一月なのに日差しが強いな、と芳乃は苦笑した。
「むぅ……」
頭を少し振る。眠気で意識が少しぐらぐらするけど、特に問題はなし。いつもの通りの朝だ。
「おはよ……」
誰とも無く挨拶するのはもう、恒例の行事だった。
のそのそと起き上がり、もう一度大きく伸びをする。伸びが終わると鏡を手元に引き寄せ、寝癖のチェック。
結構、自分は髪が荒れやすいのだ。真っ白な肌に対比するような、つやつやの黒髪を見ても、特になんの感慨もいだけなかった。
自分がとても美人だと言うのは中学一年生から6年間言われ続けたものだから一応は理解している。
だが、いまだに信じられない。美人という概念がさっぱりわからないのだ。
肌が白いねとよく言われるが、染みとかがよく目立つから結局損をしている。
眼が大きいねと言われるが、鏡で見てもほんの一ミリくらいしかみんなと違いないように思える。
髪がつやつやと言われるが毎日苦労して手入れしているのだからつやつやなのは当然だと思う。
みんなには言わないが。それは鼻につく言動らしく、おそらく高慢だと思われてしまうだろう。
まったく、人付き合いとは大変なのだ。
そんなことをつれつれと考えながら髪の手入れが終わる。
「よし、と」
時間を確認、まだ明らかに余裕がある。いつもより早く眼が覚めたようだった。
やはり、『夜』で彼とであったからだろうか。早くバケモノを倒せたことだし。
彼――故烏雄平は、白いナイフのような武器を両手に持っていた。
彼もまた自分と同じ、『夜』に居る人だった。そのことを考えると嬉しい。あの中で一人で居ることはとても孤独だった。
けどよく考えてみると学校でも孤独は変わらない。『アブソリューター』の仮面を持って人と付き合うと言うことはそういうことだった。
時々、計算で人と話しているような、自分がすごく自己中心的な人間になってしまったような錯覚に陥る時がある。笑顔は貼り付けたように空虚で、言葉はとってつけたように曖昧で、自分は何をやってるんだろうと自嘲する。
さびしいのだ。誰にも理解されないと言うことは、誰にも自分を話せないということは。
彼なら友達になってくれるのだろうか、彼の前では『アブソリューター』の面をつけなくてもいいのだろうか。
わからないけど、『夜』に行く意味がまた一つできた。私は『夜』で何かを探している。それが何なのかは解らないけど、初めて『夜』に入った瞬間にそれを感じた。
なつかしいような、あの場所で何か落し物をしたような感覚なのだけど、彼もまた自分と同じなのだろうか?
そういえばそうだ……故烏雄平、彼と出会ったときもなぜか――初めて会った気がしなかった。
じっくりと顔を見たのは告白の現場にたまたま居たときだけど――
その時の状況を思い出して少し赤面する。あそこまでストレートな想いをぶつけられたのは初めてだった。
そんな状況を見られた……普通ならもう卒業まで気まずくなるようなシチュエーションだったが……今では普通に会話している。
なんだか楽しい。久しぶりに昔の友達に会ったような――そんな新鮮さと驚きが同居したような感覚。彼の癖、彼の顔、彼の纏う空気、全てが何かくすぐったいような――
「はぁ…………何を考えてるんだか」
自分の思考を恥じる。ほぼ初対面の人に何を思っているのかと。意味の無いことはしない。解らないことは解らない。それだけなのに。
時計を見る。いい時間だ。荷物を持ち、自分の部屋の扉を開ける。
とりあえず朝食にしよう。
「芳乃ちゃんおはよう! 今日も可愛い!」
フローリングが覆う居間に足を踏み入れた瞬間、鈴の音のような声がこちらへ向かってくる。
目の前でにこにこと笑いながら、エプロンをはためかせ、キッチンから一目散にこっちに駆けつけて抱きついてくる女性を見て苦笑した。
「お母さんってば……。そんないきなり」
美人である。というか若い。40代後半に差し掛かる年齢なわけだが、若々しさをまったく失っては居ない。
童顔だと本人は言い張っているが、それにしても若い。子供のような溌剌さを持つ女性だった。
そんな母を見ていると、こちらまで笑顔になってくるのはやはり彼女の人徳というものなのか。
広めの居間には香ばしい朝食の匂いが漂っていた。涼やかな雀の鳴き声と、32インチの画面から響いてくるニュースキャスターの声とが合わさって。朝だと言うことを強調してくる。
「うむ、美人だな芳乃は。お父さんの誉れだよ」
居間の中央にあるテーブルに座っているメガネをかけた精悍な顔つきの男性が母の声に追従するように声を出す。
「もう、お父さんまで……」
そんな父を見て芳乃は微笑を浮かべる。
「あう〜芳乃ちゃんお父さんに笑ってお母さんには笑ってくれないのね! さぁ〜び〜し〜い〜」
「きゃうっ!? ちょ、お母さん、くすぐったいって!」
いい雰囲気だった父との視線の間に母が割り込むように立ちはだかり、今度は思いっきり前方から芳乃を抱きしめた。しかもほお擦りのおまけ付きである。
「いいじゃないいいじゃない〜お父さんにはあんな極上でスゥィーティーな笑顔を見せてるんだからお母さんにもや〜わらかい芳乃ちゃんの美肌を堪能させていただく権利とかあるはずなの! あう〜……すべすべ」
「ちょっと、きゃ、お母さんってば! 恥ずかしいしくすぐったいから駄目! これは駄目!」
いやでは無いのだが、いかんせんほお擦りは恥ずかしすぎる。小さい頃の写真を見せ付けられるような、自分の置かれている状況が幼く見える恥ずかしさである。
そんな状況を断固打破しようと、母の体を押しのけようと手にぐーっと力を入れて押す。少しずつ母親の体が離れてく。
「にゅー……芳乃ちゃんのいじわる〜不公平〜」
完全に離れる。母親から伝わる熱がなくなって少し寂しく感じるがとりあえず安心のほうが大きい。そんな行動に母は納得がいかないらしく、体が離れてからぷいとそっぽを向かれてしまった。
「そんなこと言われても……」
子供のような雰囲気を持つ母にふくれっつらで抗議されてしまっては、正直困ってしまう。 困ったように首をかしげていたとき、
「ほらほら、お母さん……そろそろやめといたほうがいいでしょ。芳乃ちゃんに嫌われちゃうよ?」
父からの助けが舞い降りた。その力強い言葉に抱きしめられた腕の力が緩む。さすが父の力は偉大である。
ほっ、と胸をなでおろしかけたそのとき。
「ふぇぇ……芳乃ちゃぁん……お母さんのこと、嫌い?」
母の緩められた手は自分の涙をぬぐうために動いていたのです。
……逆効果でしたお父さん。
「うわ〜ん! 芳乃ちゃんに嫌われたぁ! もう生きていけないよぉ! つい4分38秒前の私の馬鹿ぁ! タイムマシンができたら絶対に4分と43秒前の私の口を封じてやるぅ!」
「お母さんたぶんタイムマシンの出来る時間を換算に入れてないじゃなくてそんなことで死ななくてもいいから! ていうか嫌ってないから!」
芳乃のその言葉を聴いた瞬間、ぴたりと泣き声がやんだ。あまりの急激さに思わず仰け反ってしまうくらいに急だった。
「……嫌いじゃない? ほんと?」
上目遣いで確認してくる母を見て今が好機だと確信する。
「うん、ほんとほんと! お母さんだ〜いすき」
その好機を逃すまいと万歳しながら笑顔で(笑みがこわばっているかもしれないが)畳み掛けるように芳乃は言葉を続けた。
「そっかぁ……好きかぁ……えへへへへ」
にやぁ、と顔を緩めてだらしなく笑う母を見て、聞こえないようにため息をつく。機嫌は完全に直っているようだった。
……疲れた。いつもこんな感じである。これさえなければ最高の母親なんだけど……と無いものねだり。
「さて……私は行くよ」
そんな思考を打ち戻すように父の声が響く。計算してやってるんじゃないかって的確なタイミング。今から私の朝食がでればちょうどいつも出る時間になるって時刻。
……この母と生活していくのに見につけた能力なのだろう。社会に応用できそうな素晴らしい能力であるが、習得にかかったであろう労苦は考えたくもない。
「あ、はいはい〜。いってらっしゃいねあなた。お土産ヨロシク〜」
「……大量の愚痴ならいつでもテイクアウトオッケーだけどね」
母の天真爛漫な応援に、邪気の無い笑顔で高度な皮肉? を返しながら、父はカバンを持ち、グレーのスーツを着込み、立ち上がった。
仕事は製造関係らしく上司との軋轢が大変らしい。そんな煩わしさにまけない父はすごいと思う。
「行ってきます」
父は笑顔を崩さず、玄関の扉を開け、手を振ってくれた。
「いってらっしゃい〜」
こちらも手を振りかえして、出発の挨拶が完了する。母と声が重なった。
がちゃんという音と共に車のエンジンがかかる音がする。エンジン音が二、三度大きく鳴り響き、やがて遠くなっていった。
「ハモったね〜芳乃ちゃん」
「うん、そーだね」
それだけのことでとても嬉しそうな母を見て苦笑混じりながらも笑顔を返す。
「きゃ〜芳乃ちゃん笑ってくれた〜! 可愛い可愛い〜!」
体をくねらせ喜びにもだえる母を横目で眺めながら、芳乃は目の前で排出されたトーストに手を伸ばす。
まったくもっていつもの朝だった。今日もいつもと変わらないいい日だろう。
――そう、思ってしまったのだ。
朝食を食べ終わり、纏わり付いてくる母を適当に落ち着かせて外に出た。時刻は7時半。登校時間としては申し分ない時間だった。肌寒い。長袖の白い服を着込んでいるというのに寒さはとことん染み込んでくる。
まあ――『夜』の寒さに比べれば比較するまでもないが。
アスファルトで舗装された道路がいつの間にか剥き出しの畦道に変わっていた。目の前に広がるのは緩い角度の坂道。どう考えでも通学路では無かった。
芳乃はためらいもなくその坂を上り始める。
「ふう……」
一歩一歩、坂道をしっかりと踏み締めて登る。これはもう十年近くも続けていることだった。
坂は緩いといっても登るのはやはり辛い。慣れなのか成長したせいなのか、始めたばかりのように息を切らすようなことは無くなったけれど、のしかかるような疲労はいつまでもなくならない。
やがて目的地に到着する。
その場所は閑散としていた。見下ろすと町の光景が一望でき、深い自然と、人造物のコントラストを楽しめる場所でもある。
車の駆動音がテレビのボリュームを落したように細切れに響く以外は雑音無く、静かで、まるで時間が止まっているような空気をたたえていた。
紅い携帯電話を出し、時間を確認する。7時45分。いつもどおりだ。
この場所はどこか静謐な空気を醸し出していた。高々と、細々と大小様々な石が並ぶ場所。『夜』に感じた空気とどこか似ていて、どこか肌寒く、凍えるような空気が渦巻いていた。
墓地と、呼ばれる場所。芳乃はその西端を目指して歩きだす。
目的地に、付く。誰も居ないその場所は、ただいつものように芳乃を迎え入れてくれる。
そう、思っていた。
「え――?」
愕然とする。
目の前には信じられない光景が広がっていた。
夢か、現か――
芳乃が目指している場所で、その少女は祈りを捧げていた。何かにすがるような、どこか悲観しているようなそんな空気を漂わせながら。
髪は短く切り揃えられていて、透き通るような瞳がじっと眼前の墓石に向けられていた。柔らかい黒色の上着に、くるぶしまでのスカートをはいている。
体が硬直する。
どこか幻想めいた風景。いつもあの場所に立っている自分はあのような顔をしているのだろうか。現実から消えてしまいそうな、不安定な顔で――
意識せず体が後ずさそろうと動こうとした瞬間のことだった。
ざあ、と冷たい風が薙いだ。
「わっ」
その風に煽られて少女のスカートが翻りかける。慌てて少女はスカートを押さえる。恨みがましく虚空を見据える少女は周囲に視線を動かし、その拍子に眼が合ってしまった。
「あ――」
少女は驚いたような表情で口を押さえる。その反応は幼児めいた初心さを持っていて、先程の少女から掛け離れたように見えた。そのギャップにどこか懐かしさを感じて、芳乃は硬直したように動きを止めた。
『夜』の中に居るときのような、そんな懐かしさ。
「あなた、は……」
口をついて出た言葉は陳腐な疑問で、少女を現の存在か確かめたいが故の質問。
「ごめんなさいね。勝手に参ったりして」
その質問をさえぎるように少女は声を発した。そよぐ風のような、甘やかで、流れるような声音だった。
先程の幼げな彼女は幻だと言うように、その佇まいは初めて見たときのように神秘的な雰囲気へともどっていた。スカートを抑えていた手を自然な手つきで離し、少女は深々と礼をする。
「あ、いえ……そんな……」
律儀に礼を返すことしか出来ない。
そんな行動ををされては何も言えない。それに、そんな顔をされたら。少女の顔にかすかに香るのは、まるで悪戯を見られた子供のような――涙を見られた気丈な人のような――『ばつの悪い表情』だった。
「じゃあ、私はもう行きます」
そんな表情を完全に覆い隠すかのように少女の顔が微笑に彩られていく。
けど、芳乃は思う。
あれは、私の『アブソリューター』と同じような仮面。確信ではなく、奇妙な連帯感。最初から知っていたのに、理性が必死に否定しているような――認めることへの怖さが芳乃へ沈黙を選ばせていた。
ヒトコト、『貴女は私を知っていますか?』と聞けば全てがわかるような気がするし、何もかもが振り出しに戻るような気がしていた。
「ここは貴女にとって大切な場所なんでしょう?」
そんな思考さえも益体無いと言ってしまいたいようにくすり、と微笑を浮かべながら少女は言葉を続ける。
「そういった場所はすべからく――誰かにふみいられたくないもの」
何を知っているのだろうか、ここが私の大切な場所だと何故知っているのだろうか。そして、何故『私を知っているかのように話す』のだろうか?
得体の知れない感覚がせりあがってくるように感じる。『夜』と同じようなこの感覚。
恐い? 憤り? 悲しい? 違う、これは――
……『嬉しい』?
「だから私は謝るの。それが礼儀というものだし、それに――」
少女はそんなこちらの葛藤に見向きもせず、淡々と言葉を続ける。
また、強く風が凪いだ。声はその風に乗せられたように、最後は聞き取れず、荒涼とした空気に流されていく。
少女は微笑をたたえながらすっ、と身を翻した。
あまりにも自然に、あまりにも泰然とした動作だった。
「待っ――」
反射的に芳乃は手を伸ばし、その少女の手を掴もうとする。もっと聞きたいことがあると思った。聞かなければならないことがあると思った。
「安心して。もう此処には来ない。約束するから」
けど手はあっさりと空を切って、背を向けて、振り向きもせずかけられた言葉は強く、そして悲しい。
「じゃあね、『芳乃ちゃん』」
「つっ!?」
まるで少女は『夜』の中で時折感じる、例えようの無い懐かしさのように、するりと記憶を通りぬけて、あっさりと風のように――吹き抜けて消えた。
最後に、心に消えようの無い困惑を打ち込んで。聞きたいことはいくらでもあるのに、それでも、何も聞けなかった。
「なんで私の名前を――」
問いかけは空しく虚空を揺らす。また、風が鳴いた。
芳乃の困惑を吹き煽るように少女の痕跡を洗い流すように――激しく、びゅうびゅうと。
激しく砂埃が舞い、芳乃は思わず眼を閉じてしまう。眼を開けたときには誰も居なかった。放心するように芳乃は自らを抱きしめるように座り込んだ。
何か大きな喪失に押しつぶされるように頭を腕に埋めて、芳乃は墓石に触れる。冷たく、無機質でなんの温かみもなく、それが『止まってしまった』ことを示すものだと言うことを、刻み込まれるように理解しながら――ここで眠る人たちがいなくなってしまったことを再度確認して――それでも芳乃は問いかける。
そう、するしかなかった。
「ねえ、あの人を知ってるの?」
自分でも滑稽だなと思うほど弱弱しい声音で、
困惑の風が熱を奪う胸中を暖めるように、
「お父さん、お母さん――」
墓で眠る人にむけて問う。答えはあるはずもなく、帰ってくる音すらなく、その答えは、風を伴わず虚空へ消えた。
次は日常パートです。