12.迷いを切り裂き、今
小説を投稿しようと思ったら何故か強制終了を繰り返し、前話分の投稿画面に戻るというバグ。ようやくなおりました……
屋上は風が強かった。昨日までは太陽が強く照っていたのにもう、冬の風に変わっていて、肌を切り裂く寒さが大気に満ちていた。
葉が一つ、二つと降り注ぐ。やがて、授業が終わる鐘の音が響き渡った。
昼時のサイレンが断続的に鳴る。各教室から大量の生徒が外に出る音が感じられた。
喧噪が満ちる。
そしてその喧噪は、食堂へとフェードアウトしていった。
そんな中、身じろぎもせず芳乃はじっと、この屋上に入るために唯一の扉を見つめていた。
不意に、扉が軋んだ音を立てる。
「あの……すいません。待たせましたか?」
ざあ、と風が舞った。
舞い上がろうとする衣服を押さえつけながら声の主を芳乃は見つめる。
「いえ、大丈夫。私も今きたところだから。金城くん」
目の前に立つのは子供のように幼い印章を抱かせる男だった。
「そうですか……それで、さっそくですけど返事を聞かせていただけると聞いてきたんですが」
「ええ」
「あの日の――告白のお返事を」
すっ、と金城の眼が細められ、端正な童顔が微笑の形に変わる。
その微笑みは、恐怖と期待が混沌として込められていて、目を伏せながら芳乃は沈黙する。
「あの日とは、逆ですね」
「ええ……」
「あの日は僕が呼び出して……」
「ええ」
「今日は呼ばれた」
「ええ――」
「あの、白眉さん」
金城の顔がぎゅっ、と悲しそうな顔になる。
「いいんですよ。僕に気兼ねしないでください。駄目なら駄目だとはっきり言ってください。白眉さんの迷惑になるようなら、僕は――」
泣きそうな声で金城は訥々と語る。感情を押し殺そうとして、できない。そんな表情だった。
「金城君……」
「はい」
「おつきあい、しましょう」
「え――」
信じられない物を見たと言うように大きく目が見開かれた。
「そ、それは……」
「ええ、交際です。貴方と、私が」
かみしめるように一言一言。
「本当、ですか?」
呆然と目の前の少年は立ちすくんだ。
「雄平ぃぃぃぃっ!」
「……んだよ」
騒々しい声に不機嫌な心がささくれ立つ。目の前で慌てたように騒ぐ希の声がひどく高く聞こえた。
「どうしたのさ! どういうことさ!」
「何があった」
ひたすら慌てる希をはたいて落ち着かせる。
「いたっ、なんだよもう……」
「何が大変なんだ?」
涙声で頭を抱える姿は明らかに男性の域を超えていたが、今の心はそれにさえ反応できない。
先を促す。
「何って……よし……白眉さんのことだよ!」
「今呼び捨てにしようとしたな」
心が荒れる。今その名前はタブーだというのに。
「それがどうかしたか?」
「……機嫌が悪いのはそれが原因じゃないみたいだね」
「あん? どういうことだ?」
「白眉さん……一年の金城君とつきあうことになったんだって」
その言葉に、思考が停止した。
「あ?」
一瞬の後脳に凄まじい熱がかかる。
あまりに激しい感情。
「そういうことかよ……」
喉の奥でつぶやいて思いっきり立ち上がる。
「あいつが、あの化け物かっ!」
椅子をはねとばし、立ち上がる。後ろで希が何か言っているがもう気にならなかった。
「っ――あ……」
『夜』の中で少女は血を流し続けていた。ずきずきとする痛みも、突き刺すような痛みもその身体に刻まれている。
すべての痛みあるこの身体、それがたまらなくお似合いだと思った。
このまま自分はこの化け物が消えるまで、彼の心を傷つけないように戦い続ける。ここは心の中だから。
夜風が傷に染み渡る。また一つ、二つと痛みが意識の上に登った。
「は、はっ!」
その痛みを笑い飛ばしてやった。目の前に立つ人型はまだ強く揺らめいている。現実ではどのくらいの時が経っているのだろうか――益体のない思考が生まれる。
関係ない。現実の自分などもうないも同じことだ。
手甲を握りしめる。その冷たさが感覚を呼び起こした。傷が、傷が、傷が、傷が、体中にある傷が痛みを訴える。何度繰り返しただろう。まだ、跳ぶ。
人型は決して積極的には動かない。だが、緩慢にこの『夜』を破壊しようとしていた。踏みしめる足は一撃で地面をえぐりとばすし、繰り出される拳は一撃で大気を灼き染める。
牽制はもはや通用しない。散っても散っても同じように再生するのだから。
拳を突き出す。手甲のある方だ。
それを盾にして思いっきりつっこんだ。
風圧がほほを掠める。人型の拳だ。またほほが浅く切れる。
「つ、ぁぁぁぁぁぁぁっ!」
勢いのままに踏み込んだ。身体を捻り、足を独楽のように回し、全身の力を乗せる。全力の拳はおそらくやつの拳より強い。だがこの人型の想いはあまりにも強くまっすぐ過ぎる。
消しても消えない。不要な過去ではなく必要な現在。それは――あまりにも強い。
がつん、と右手が食い込んだ。しかしその先は化け物の身体ではなく、無造作に突き出された人型の右手だった。
――読まれた!?
焦燥と驚愕が胸の中で荒れ狂う。身体は脱出しようと動いていた。手を引っこ抜くように後ろに跳ぼうとする。
「う、あっ!?」
だが、それを許すほど化け物は愚鈍ではない。ぎちりぎちり、と凄まじい握力で手甲の上から握りしめてきた。
その痛みからなんとか逃れようと左足を使ってローキックを放った。人間で言う関節部分にクリーンヒットする。だが化け物は揺らぎもしない。左手でジャブを放ちながら、右足でローをねらう。
――無駄だった。
めきめきめきめき、と木が倒れるときのような軋む音が立つ。それが自分の右手から出ているとはとても信じられない。凄まじい激痛が走った。
脳を直接揺さぶられたかのような痛みだ。
「あ、ああああああああああああああああああああっ!!!」
痛みが脳を支配する。視界が真っ赤になるほどの衝撃。脳ががんがんと揺れる。立ってなど居られない。
「が、ぁ……ああ……」
地面に墜ちる。足が地面に付いた、視界が下がる。意識など保っていられない。涙が止めどなくあふれる。痛い、痛い、痛い――
このまま意識を失ってしまった方が楽なのではないかとさえ思える。けど、それでも、そんな状況でもなお少女は意識を保った。
「こんな、痛みで……」
右手が軋む。軋む。
「倒れるなんて――しちゃいけないのよ私はぁっ!」
怒号と共に、五指に力がともった。化け物に握りしめられていた手が再び異音を発し始める。そして、徐々に化け物の指が開き始めた。
化け物の身体が震える。何かに恐怖しているかのような仕草に少女の心は再び奮い立つ。眼に光がともった。
さらに五指を、めいっぱいに圧力のかかる方向へ開いていく。ぎりぎりと拘束が外れていくそれを阻止せんと人型はあいている拳でボディをねらってきた。
それを待っていたとばかりに少女は肘をその拳に当てた。石と石がぶつかったときのような音がする。
そのパンチに力を込めすぎたのであろう。握っている拳の力が弱まった。
その隙を逃さずミドルキックに転ずる。みぞおちのあたりに体重の乗ったキックが炸裂し、その反動で後方へ跳ぶ。
間合いが開けた――と思った。
「――なっ!?」
激痛が走る。脇腹――肝臓のあたり。
人型の腕が、本体を離れ、黒糸でつながれたように伸び、脇腹に食らいついていた。
まずい! と直感的に思う。口の中に生暖かい液体があふれる。鉄錆の味が味蕾を襲った。
「か、はっ」
こらえきれず吐血した。ぞっとするような熱が脇腹をはい上がっていく。それと同時に足が砕けた。あまりの痛みに意識があっけなく遠くへ行きそうになる。
意識を失うことだけはなんとか避けたが、もう足の方は限界だった。その場にへなへなとへたりこんでしまう。
足に力が入らなかった。頭がぐらぐらする。意識はもう半分無く、感覚も消えそうになる。脇腹の痛みさえももう消えていく。
視界が霞んだ。黒い人型の輪郭がぼやけるように曖昧になっていく。
駄目だ――!
意識が歪んでいく。立っていることさえも不思議な怪我をしているということはわかっていた。それでもなお、自分は倒れるわけにはいかないというのに――
「来い」
化け物に言葉を放つ。
「こっちだ。『僕』はまだ、生きている」
意識がもうろうとして、何を言っているかわからない。
不意に、化け物の動きが止まった。
不自然な止まり方だった。がくがくと足が震え、まるで何かにおびえるように化け物は動く。そして、化け物は万歳をした。
瞬間のことだった。
ぱん、とまるで空気が許容量を超えた風船のように化け物の身体が爆ぜ割れた。
「え――」
あまりの突然の出来事に意識が覚醒する。破片に砕けることはない、完全な破裂。塵さえも出ない。
静寂が『夜』を支配した。
「なんで……」
少女の呆然とした声が闇に溶けた。
夕暮れに紅く染まる町並みに人の声が溶けては消える。
芳乃は隣に歩く、今日恋人になった男性を見上げ、微笑した。美しい笑顔。
だが、心の中は暗い。何かが違う――そんな感覚が心の奥で移ろう。
「あの……」
不意に、金城が話しかけてきた。
「はい?」
その声に対応する。声は高くもなく低くもない――いつものように流麗な仮面がかけられているのを自覚する。
「いえ、その……」
金城の顔は真っ赤に染まっていた。恥ずかしげに目をそらし、口元をもぐもぐと動かしている。
「嬉しいです。こうして……一緒にいれて」
けなげな言葉に少しうれしさを感じる。けど――なんだろう、胸の奥にあるのは、もっと大きな罪悪感。
「うん、ありがとう」
その寂しさを押し殺して笑顔を作った。金城の眼がこちらを向く。そして――その顔が曇った。
「けど――」
金城の顔が泣きそうなほどに歪んだ。
「まだ、笑ってくれないんですね」
どくん、と心臓が脈打つ。瞬間、身体を暖かさが包んだ。
「あ――?」
抱きしめられた、と理解したときはもう身体が動かなかった。
その映像を見たとき、不意に自分のやっていることがばかばかしくなった。
よく考えてみれば、今ここで金城を糾弾してみても、むしろ化け物が強くなるだけだし、嫉妬があの化け物のエネルギーなのだとしたら芳乃に関わることすらも致命的なのだ。
目の前で抱き合う金城洋平と白眉芳乃を見て、雄平は立ちすくんでいた。
「まあ、そーだよなあ……」
これまで培われてきた生き方の中でこの状況に口を出すなどという選択肢は存在しない。
本人同士の自由に介入する――挙げ句、芳乃の覚悟を土足で踏みにじるような行動をどうして止められよう。
金城とつきあうことにしたのは確かに芳乃の意志で、恋愛なんて物はお互いに好きあっている状況が必至なわけでもなくて。
自分が口を出せる権利など一つもない。
だから雄平はため息をつきながら、歩き出した。
「自由だもんなあ、個人の」
二人の方へ。
「はいよ、っとこんにちわ」
金城の肩に手を置く。
「なっ!?」
驚いたように金城の声が引きつった。
「よっ、金城。デート中に悪いんだがな。明日の文化委員の会合何時だっけ?」
金城の顔がこちらを向く。声と同様、その顔は驚きで引きつっていた。
「故烏……先輩」
その向こうにいる芳乃も驚いたような表情を浮かべている。
「いっや〜悪い悪い。本当におじゃまだったかもしれねえけどさ」
「……明日、2:30からです」
あらかさまに敵視するような声で最小限の情報を伝え、金城は芳乃の手を取ろうとした。
びくり、と芳乃の身体が一瞬震える。それを見て、心がささくれだった。
「いやいや、んでさ、なんか持って行く物あったっけ? 筆箱はまあ持って行こうと想うんだけどさ、なんかルーズリーフみたいなものを――」
「先輩」
こちらの口舌をぴしゃり、と金城は断ち切った。眼にたたえられているのは明らかな敵意。
「すみませんが大切な話の真っ最中です。話なら明日会ったときに」
「いや、そりゃあ駄目だろ」
その敵意をひょうひょうと受け流してやった。
「……先輩はもっと空気の読める方だと思ってました」
「あ〜そうだな、空気を読むのは俺の数少ない特技の一つでね」
「……じゃあ解るでしょう。先輩……すみませんが邪魔です」
「ああ、理解してるなあ――芳乃」
「っ!?」
「俺達の化け物を消えた。全部。じゃあ『夜』も元通りになる筈なんだ。元々あれは求めたから開いた物だ。俺と君の『夜』が繋がったのは互いが会話できる相手を求めて、『夜』に穴が開いてしまったからだ。その記憶がないなら自動的に『夜』は閉じられる。――他の『夜』から化け物が来ることがなくなる」
「何を言ってるんですか――!」
「もう自分を偽る必要は無いってことさ金城」
真っ向からその目を見返した。
「正直に言おう、金城。俺はおまえのことが好きだ。妙な意味じゃなく人間として。友人になれると思った。たとえおまえが俺を心の底で馬鹿にしていたとしても俺はおまえと友達になりたいとおもった」
「それは――僕だって貴方のことが嫌いなわけじゃありません」
「だがな、金城――譲れないものがある」
「……っ」
「芳乃はいやがっていた。俺にはそう見えた。だからそれを見過ごすわけにはいかんかった」
「そんな、こと――」
「聡いお前なら気がついているだろう。欺瞞に逃げるな」
「……っ!」
「だからな、金城。待ってる。全力で来い。お前を受け止めてやる。『夜』で」
呆然とたたずむ金城を尻目に芳乃の手を引いた。
「あ……」
芳乃の身体は震えなかった。
紅い夕日に照らされて、足下の影法師がどんどんと大きくなっていく。
小さく、つぶやいた。
――『夜』でまた会おう。
お互い、無言だった。言葉を話せる雰囲気じゃなかった。自分が行ったのは確かに重大なルール違反だ。それを自覚している。けど、それでも守りたい物があった。
ルールは安全な手段で、自分の選択で他人が傷つけないように設けた物。だから――自分の選択で他人が傷つく結末は用意されていない。
見えない場所で誰が傷つこうともそれを無視し、黙殺する。それがルールだった。
この行動で白眉芳乃の決意を叩き折った。
それは正しいことだと思っているが、それでもやりきれない。
金城も芳乃も大切で、数少ない友達を二人天秤にかけたことになる。
選択すれば確実に誰かが傷ついただろう。芳乃をあのまま連れ戻さなければ関係が自然消滅したかもしれないし、本当に愛情が生まれたかもしれない。
けど、それでもあの瞬間に芳乃は深く傷ついていた。それを助けたかったのは紛れもない事実で、だから後悔はしていない。
しちゃいけないと思った。
「……なあ」
口を開かなければならないのは自分の方からだと思った。
「……何?」
「まず、言っとく。ごめん」
「……」
「もう言わない。俺は、金城と戦ってどういう結果になろうともあいつが悪いような結末にはもっていかないようにする。あいつが勝てば、嫉妬の相手に勝ったって自尊心が手に入る。
負ければ負の感情だけが消滅して終わる……人の心の一部を、それがなんであれ消すのは悪いことだって解ってる。けど――」
「ありがとう」
「え?」
「凄く、怖かった」
「あ……」
「あの瞬間本当に何も考えられなくなって、ただ逃げ出したいって……ずっと……」
「……」
「だから、絶対に後悔しないで。凄く――嬉しかった」
そう言って芳乃は微笑んだ。
それはあの少年がほしがっていた、最高の笑顔。
その笑顔に不意に気持ちがこみ上げてきた。いとおしいと思う。抱きしめたいと思った。
彼もこんな気持ちだったのだろうか。ふとそんな考えが頭を掠める。
それでも、雄平は耐えた。手が、でない。ぎりぎりと奥歯をかみしめ、口の中で深呼吸をする。
それはたぶん答えを聞いてからだ。
「じゃあ、行くよ。朝、また会おう」
そういって、雄平は走り出した。
心が、突き動かされるように走ることを求めていた。目の前の夕日はもう沈みかけていて――もう夜の空気を運んできていた。
次でラストです。