11.朝に決意は凜と響いた
何かが入ってくる。
芳乃はその感触に吐き気がこみ上げるほど嫌悪感を持った。
人の心の負の部分。じゅくじゅくと腐っているかのような感情がどろり、と心に流し込まれていく。
「――――ッッッ!?」
芳乃は叫び声をあげた。少なくとも自分はそうしたつもりだった。
だがその声は言葉には成らなかった。
手が身体にめり込んでいく。
心が入り込んできた。狂おしいほどまでの思い。笑顔を見たいというまっすぐな気持ち。
そして、自分が雄平に向けた笑顔が、心の均衡を崩した。
これが心の闇なのか。あまりにもまっすぐな心が生んだ化け物。それはあまりにも腐臭の漂う悪夢のような化け物だった。
ゆがんでいる。
気持ち、悪い――
そう思ったその時、がん、という衝撃が走った。線香が、捻れた身体で人型に体当たりを仕掛けていた。
人型の注意がそれる。その瞬間を、閃光がきらめいた。
二閃の斬撃。
宙に投げ出されるような錯覚が走る。一瞬の浮遊感の後、身体の中にある不快感が抜け跳んだ。
「げ、ほっ……」
激しく咳き込む。喉が痛かった。
雄平の姿が見える。
双剣が振り抜かれるように天へ掲げられていた。ぐしゃり、といやな音に視線がそれる。香の身体に、人型の切れ跳んだはずの手が、付いていた。
手だけで動いている。その手が震えるように線香の身体を握っている。
めきめき、と音がした。
「やめ……て」
線香が傷つけられていくのと同時に胸を占拠していた言いようのない感情が砕かれていくのがわかる。
「やめて!」
喉が切れそうなほど痛い。それでも大きな声で叫んだ。だが、当然のように言葉では何も変わら無かった。
「が、っ……」
雄平の苦悶の声。
人型は残った左手だけで、軽々と雄平を持ち上げていた。ぎりぎりと首が絞まっていく。
ばきり、という音がした。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!?」
雄平の方からではない。線香の身がまっぷたつに裂けていた。
瞬間、意識が揺らいだ。
「駄目!」
何に対して駄目なことなのかわからないままに芳乃は叫んでいた。いつの間にか視線は少女の方へ向いていた。
少女は芳乃をまっすぐに見つめ返し――
笑った。
その顔が最後となる。
闇に沈むように意識が墜ちる。
「さ、よ、う、な、ら」
脳裏に刻まれた最後の言葉はあまりにも残酷だった。
「っ!?」
身体が跳ね起きる。
何かを求めるかのように手が伸ばされていた。
芳乃は頭をふるって周囲を見渡す。自分の部屋だった。背中に冷たい汗がにじんでいる。
「あ……」
喉を触って確かめてみるが、もう痛みの余韻さえなかった。
時計を見る。
午前7時――
いつもの通りの時間だった。それがさらに焦燥を呼ぶ。
「どう、しよう……」
心にわだかまっている情報を呼び起こす。あの化け物に襲われたときに見た映像。
今更ながらに身体が震えだした。
緊張の糸がほどけたのか、もう立っても居られない。それでも、と芳乃は思う。
「いかなきゃ……」
学校に行かなければならない。雄平の安否も気がかりだったし、何より金城洋平をこのままにはしておけなかった。震える足に力を込める。
ぐらり、と視界が揺らいだ。それは錯覚だが――少なくとも芳乃には生々しく感じられたのだ。
腕で貫かれた箇所を襲う違和感。それらを振り切って芳乃は立ち上がった。
――誰だってそう強くはあれない。
人間は弱い物なのだ。
それを自覚して、その弱さを認識して、その弱さを隠すよりさらけ出すことによって人は立っている。
それなのに、その弱さを隠そうとしている人がいる。
それが自分だと芳乃は思う。
弱さを含めた自分すべてを人の目の届く位置から遠ざけようとした人がいる。
故烏雄平はそういう人間だった。
そして、その弱さを捨てようとしている人がいる。
清廉潔白な雰囲気をまとい、誰かのために自分を扱う。
美しい生き方ではある。尊敬される生き方ではある
それは歪んでいない。
けど、歪んでいることの方がいいことだってある。
理想だけじゃ何も生まれない。。
芳乃は弱さを自覚していた。
だから芳乃は他人を拒絶することができた。母に頼って、寄りかかって話をすることによってなんとかやりくりしていた。弱さを今の母に見せて、それで弱さを含めた自分を認めて貰った。
「――そう、だよね。お母さん、お父さん」
問いかけたのは無機質な石で、そこに何もないと知っているのに、それでも問うてしまう。
目の前にある墓石に芳乃はつぶやいた。
毎朝の習慣はいつもの日常が始まっていることを思い知らせてくれた。
これは紛れもない日常だと。
いつもと何も変わらない朝なのだと。
自分のなす行動が違ったとしてもそれでも朝は変わらない。
芳乃は手を合わせる。
そして――ある、『覚悟』を決めた。
「いってきます」
そして、きびすを返し、歩き出した。
山を下りる。やがて見慣れた通学路に出る。
まだ朝が早いこともあってか、人ごみは少なく、学生服の姿もあまり見かけなかった。
住宅街の中心から少し遠い場所に通っている学校はある。
交差点を左に曲がり、その先の遊歩道を通り、少し狭い道に入る。
学校に着いた。
校門には生活指導の先生が立っていた。そうか、今日は服装指導の日か――おぼろげにそんなことを思い出しながら、きちんと挨拶をする。笑顔で「今日は早いな」と言いながら生活指導の教員はこちらを見送ってきた。それに会釈をして歩く。
何も変わらない校舎が見えてくる。けど毎日通っているはずの校舎なのに、今日は違って見えた。
「芳乃……」
聞き慣れた声がした。
「雄平……」
寝癖だろうか、髪の毛がはねている故烏雄平が立っていた。
「大丈夫だったか。よかった……」
彼も同じ理由で早く登校したのだろう。
「うん、大丈夫だった。けど――」
「ああ、わかってる。あの化け物のことだろう?」
「ええ、あれ、ね。誰のかわかってるの」
胸が高鳴る。
「なっ……」
愕然とした表情を雄平は浮かべた。
「身体を、あの化け物に貫かれたとき、想いが入ってきた」
「誰なんだ……」
脳裏に思い描かれるあの圧倒的な強さ。恐らく雄平も同じことを思っているのだろう。
「それは、言えない」
きっぱりと、拒絶した。
「なんで!?」
雄平は驚愕して詰め寄ってくる。
彼らしくない。校庭の真ん中で二人で立っているだけでも彼にとっては失敗の筈なのに。けどそうやって狼狽して、誰かのことを本気で心配する彼の方が本当の彼のように見えた。
「悪いけど理由は言えない」
これから起こることに責任を感じさせてはいけないから。
どくん、と胸が痛む。
「どうして……」
泣きそうな顔で雄平は問うた。
「故烏くん、いいの? ここ、人が見てるかもしれないよ?」
「そんなこと……行ってる場合じゃないだろう?」
「それにあの子が言ってたじゃない。『もう夜に入らなくていい』って」
「そんなことわからない! ……いや、そうじゃない。そうじゃない。もう一度俺は……たぶん、俺だけ『夜』に行くことになる」
なんとなくわかっていたことだった。彼なら行くだろうと思っていた。
「あの化け物は何かの思い出だったんだ。頭がそれを忘れようとして、それを『忘れてしまうことに対する恐怖』が――」
雄平はそこで視線を落とし、言葉を句切る。
「化け物に成った」
そして、忌々しげに吐き捨てた。
「何か大切なことがあって、それが忘れたくないと足掻いていたのを、俺はのうのうと斬り捨てたんだ……何を忘れたのか、それが本当に『探していた物』だってのに……」
「そっか……」
「そうなんだ。俺にもあったんだよ『探していた物』が、さ」
「……」
「気がついてるんだろう? 俺達がこんな性格になったのは――人を必要以上に気遣うような性格になったのは、全部ああいう化け物が俺たちの『夜』に進入してこないためだって」
「そうだね……」
「だから教えてくれ! 頼む! あいつを倒さないと、取り返しの付かないことになってしまうかもしれない」
そういって深々と雄平は頭を下げた。
心が揺れる。
決意がくじけそうになる。
けど。ああ、けど――
同じ気持ちなのだろう。彼と。
巻き込みたくないと思っているから。お互いを。だから、自分で背負い込もうとするのだろう。
私は『夜』にいけない。わかっているのだ。あの場所にもう執着を無くしている。私の『捜し物』は化け物と一緒に完全に消えてしまった。
「大丈夫。化け物は消える」
「え?」
雄平の顔がいぶかしげに歪む。
「大丈夫だから」
その言葉を言った後、もう身体は彼から逆の方向へ向いていた。
決意を込めて一歩を踏み出す。
彼は――追ってこない。
校門を見ると早めに登校する人が来ているところだった。
彼は呆然と、立ちすくむだけだった。