10.夜に響くは暴の咆吼
真敵登場
「ただいま……」
自分の出した声の元気のなさに一番驚いたのは自分自身だった。
「た〜だいま〜」
芳乃は慌てて明るい声に作り直す。
「お帰り〜芳乃ちゃん!」
嬉しそうな母の声に驚きとこわばりが溶けていく。
「うに〜お母さんは寂しかったよぅ?」
「うぐ、苦しいって。苦しい」
蕩けるような笑顔でおきまりのお帰りの抱擁を受けながら肩を叩きギブアップの合図。
誕生日にプレゼントした藍色のエプロンからは今日の夕飯であろう魚のにおいがした。
「う? 芳乃ちゃんもしかして……元気ない?」
不意に、すっと身体を離された。
「え?」
どきり、とする。
「違うなら違うって言ってもいいけど……なんかドキドキしてないから。いつもは本当に恥ずかしがってるけど、今日はなんていうか芳乃ちゃん……」
真剣な顔をした母の顔が視界に広がる。
「甘えたがってるみたいだから」
ストレートな言い方。
遠慮なく、深層心理を打つ。
ああ、うらやましいな。と不意に思った。
自分が母のようになれたらどんなにいいだろうかと思う。
自分だったら子供に気を遣って何も言えないだろう。けどそれは結局のところ逃げているだけなのだ。
向き合う強さは、何よりも尊い。
「うん、ちょっと……頭の中ぐちゃぐちゃかな」
思い出されるのは食堂のこと。
自分の発言の意味が今思い返してもさっぱりわからないのだ。
あの瞬間、何かに突き動かされるように言葉を自分は紡いでいた。
まるで決められていた脚本を読むかのように以前から考え、その瞬間を待っていたような――
「……男の子のこと? それとも女の子のこと?」
そんな自分に母は優しく語りかけてくれる。
「……男の子のこと、だと思う」
だからはなせる。
自分をあかすと言うことは最大の信頼の証だった。
「そっか……」
母はもう一度私を抱きしめた。
けど今度はそっと、まるで包み込むように抱きしめてきてくれた。
「それは辛いね。何をはなしていいかわからないでしょう」
「そういうことは……ないと思う。昔から知ってるような……懐かしい感じなの」
「そう……」
「それで、気がついたら隣にいて、気がついたら笑顔でお話ししてた」
「そう……」
「それでね、学校では話さない方がいいって言うことになったの」
「それで?」
「でも、ちょっとしたことがあって……約束破っちゃった」
「そっか……」
母は少し抱きしめる力を強めた後、耳元にささやくようにこう言った。
「その子のこと、好きなの?」
どくん、と胸が高鳴る。
「わからない。……好きってどういう気持ちなのかわからない。漫画や小説みたいにドキドキとかしたりは……しない」
「じゃあ、その子といるときはどんな感じ?」
「……」
言葉に詰まった。何と言っていいかわからないのだ。
『夜』にたつ少年を思い浮かべる。学校で立ちすくむ少年を思い浮かべる。
「懐かしい。凄く、懐かしい。昔忘れてたおもちゃを見つけた時みたいな――」
「ずっと、一緒にいたみたいに?」
母の相づちに顔が紅くなっていくのがわかる。
「う、ん……」
感情がよくわからない。
「でも、やっぱり好きとは違う。何か、凄く時々『悪いことしたな』って思うの。よくわからないんだけど……」
「好きっていうのを理想にしすぎだよ。芳乃ちゃん」
「え?」
「好きっていうのはね、楽しいことばかりじゃないよ。凄く不安になることもある。『自分で本当にいいのか』『自分を本当に好きでいてくれるのか』――」
「う、ん……」
「だからそれが普通なの。好きってね、いろんな形があるけど――最初に決めるのは自分だから。どんな決定の仕方でもいいの。ただ、その人を与えてくれるだけの人だって思っちゃいけない。自分が何かをもらったら、自然に返してあげられる。笑顔をくれたら笑顔を。思いをくれたら思いを。そんな関係が本当に好きでいるってことだから」
とくん、とくん、とくん、とくん。
心臓の音がやけに大きく聞こえる。
すっ、と母の暖かさが離れていった。
視界に広がるのはいつもの幼い母の笑顔ではなくて、年相応の強くて、優しい顔だった。
追うように抱きついた。
「あらあら……芳乃ちゃんのほうからなんて嬉しいなあ」
ちゃかす声も優しい。
ぬくもりに包まれて考えていた。
あの笑顔を。
故烏雄平の笑顔を――
「なんだ!?」
『夜』に降り立つなり、雄平が感じたのは違和感だった。魂を凍らせるような寒さの中に、戦闘の熱がある。
灼けるようなぴりぴりとした物が空気に混ざっていた。
目をこらす。闇の中に、何かが積もったような跡が見えた。
「これは……」
駆け寄って確かめようとしてかがみ込み、人差し指の先でその積もったものにふれようとした。
「ッ!?」
じゅっ、という肉を焼くような音とともに黒煙がたちのぼった。鮮烈な痛みが神経に打ち込まれる。
「なんだよ、これ……芳乃!」
顔をしかめながら、気がつく。
もう一人ここに取り込まれた少女、芳乃の姿がない。
以前のように入ってくる時間に差があるのか、それとも――
「何かに巻き込まれたんじゃあ……」
視線を落とし、黒い雪のような飛沫を見る。透明感のない濁ったような色。不安を駆り立てるような色だった。
「くそっ!」
ともかくとどまっているわけにはいかなかった。どちらにせよ状況を把握しなければ対策は立てられない。
闘志がみなぎる。その闘志に呼応するかのように左右に重みが握られた。
白い双剣が現れる。逆手に握り込み、いつでも戦闘できるように構えた。
瞬間、轟音。
「なっ!?」
驚くまもなく、大砲の弾のように、何かが飛んできた。
「ぐぅぅぅぅっ!?」
悶絶する時のうめき声のようなようにくぐもった声が聞こえた。
声は高い。子供か女性の声だ。長い髪が見えた。
(人ッ!?)
背筋が凍る。
「危ないッ!!!!」
雄平は咄嗟にかけだしていた。双剣を手放し、手を広げる。
足に力を込める。
「あぁっ!!」
受け止めた瞬間、凄まじい衝撃が体中を駆けめぐった。手が折れそうなほどの衝撃。足を地に縫いつけるように力を込める。
受け止めた体は暖かかった。
「う、っ……」
受け止めた主は黒髪の少女だった。うめき声を上げ、ぐったりとしている。その右手には黒光りする手甲がはめられている。
その体は無惨なものだった。血が全身から吹き出ており、そのドレスのような服を染め上げている。
すっきりとした目鼻立ちの顔には目立たぬ傷はないが、ススを浴びたように黒ずんでいて、まるで戦火の中をくぐってきたかのように薄汚れていた。
見知らぬ顔だ。記憶には少なくともない。
だが――
その顔に衝撃を受けていた。何かはわからない。だがその衝撃は少女を受け止めた時の衝撃よりも強く、雄平を打ち据えた。
「逃、げ、て……」
はっ、と我に返る。
少女は声も絶え絶えに言葉を発していた。
意識がある。
「何から? どうやって?」
途方に暮れたように聞き返すことしかできなかった。
ここから出る方法を知らない。方法があるかどうかもわからない。
「あの、化け物から……ぐ、ぁ……」
少女は何かを言いかけ、激しく咳き込んだ。
血が噴き出る。
「君は一体誰なんだ? 化け物って一体……」
「答えられないよ……」
真剣な問いかけに少女は目をそらし、つらそうにうつむく。
なぜ、と問おうとしたその時だった。
『夜』が割れた。
「ォォォォオォォォオォォォォォォオォォォォォオォォォッ!!!!」
大地を揺るがすほどの吠え声。びきり、びきりと『夜』が軋みをあげる。今までの化け物とは桁が違う声量だった。
「何、これ!?」
聞き慣れた声が耳朶を打つ。
「芳乃か!」
布が夜に舞い踊る。
「雄平!? これは……それにその子は?」
「わからない。本当に何もかも突然なんだ……」
焦ったように問いかける芳乃に、いらついたように受け答えするしかなかった。本当に何もかも唐突で、訳がわからない。
「割れたね……」
二人の間にある険悪な空気を断ち切るかのように、少女は雄平の手を払い立ち上がった。
「割れた?」
わからない単語だった。
「君たちは、このまままっすぐいって。そこなら安全だから」
先ほど芳乃が走ってきた場所を指さしながら少女は強い眼で二人を見据えた。
「君も一緒に!」
訳がわからないが、ともかく声と様子から察するに危険な化け物がいるらしい。安全な場所があるならそこに逃げるのが上策だろう。
少女に手を伸ばす。だが少女は力なく首を振った。
「安全の意味は、私があれを殺すから安全ってこと」
「なっ――」
絶句する。
「君は、一体」
「私が諸悪の権化よ。何もかもすべて私のせいなの」
少女は力なく首を振りながらそう言った。
「それはどういうことだよ!」
「どうということはない。私が二人を『夜』に取り込んだ。それがすべてよ」
冷静な声だった。それ故に真実みがある。だがにわかには信じがたいことだった。
「なんで、そんな――」
頭の中は混乱しきっていた。思考がぐちゃぐちゃで、何も考えられない。
この少女は自分たちを『夜』に取り込んで一体何をするつもりだったのか。それで何を少女は得ようとしていたのか。
横に立つ芳乃も同じように混乱しているようだった。
「ごめんね、もう時間がない」
少女はふらつく足を押さえながら薄く笑った。
それは凄絶な笑みだった。
覚悟を決めた人間の顔。ありありとわく闘志がその顔にある。
「あなたたちが来る前に殺しておきたかった。あなたたちが殺すのは、私だけでいいのに――」
「訳がわからない!!」
心にわく疑問をそのままぶつける。
「ごめんね、本当にごめんね……」
ごう、と闇が蠢いた。
「あれは、絶対に殺すから――」
少女の表情がぎっ、と細められる。抜き身の刃のような鋭さが少女のまわりに充満していく。
満身創痍の体のはずなのに、少女の体には精気があふれて見えた。
少女が見据えるのは、ほの暗い闇。化け物が歩いてくる。
暗闇の向こうから風景の漆黒とは違う黒をまとった物が現れた。
それは、闇そのものが歩いてくる――そんなイメージを持っていた。足がある、手がある、体がある、頭がある。顔には目と鼻と口の位置に、空洞があいている。
それは人型をしていた。
炎のように揺らめく身体のそれは間違いなく人を模していた。
「つぁっ!」
少女の身体がたわむ。次の瞬間、少女は弾丸のように飛び出していた。
右手の籠手を腰だめに構える。
対する人型は立ちすくむだけだった。
防御も何もない。
少女の拳が見事にみぞおちに吸い込まれていく。衝撃波を伴うほどの拳は寸分違わず運動エネルギーを打突に換え、高い音を立て、人型にめり込んだ。
一瞬の静寂。
雄平はその場に立ちすくんでいた。
何かが頭の奥から激しく外へ出たがっている。
封じられたドアを忌々しげに叩いている。
なんだ? と問う。
これはなんなんだ? と問う。
「るぉっ!」
少女の拳を受けた人型はまったくたじろぐ様子を見せなかった。それでも少女はひるまない。
一拍の呼吸を置き、二撃、三撃と恐るべき勢いで連打に移る。右の手甲を締めとした高スピードのコンビネーションブロウ。アッパー、ストレート、ブロー。様々な拳が恐るべき威力で吸い込まれていく。
記憶が揺らいだ。
「雄平……」
芳乃の声ももう聞こえなかった。
何かが思い出せそうな――否、思い出さなければならないような――
幼い頃だ。そう、幼い頃だ。
あの字、夜の果てを示した字だ。
そう、あれは、あれは――
「俺が書いたんだ」
黒い人型は形がなくなるほどまでに散れぢれにされていた。氷像が削り取られるように形が歪になっていく。
だが、それまでだった。
「くっ……」
塵のように散った黒い化け物の身体。それが時計を巻き戻したかのように戻っていく。それを見て、少女はさらに連撃の速度を上げた。
削岩機のような拳の連打。だが、それでも追いつかない。
化け物は動かない。
まるでそれは哀れみをかけているかのようで――
少女の顔に焦燥が浮かぶ。
「くっ……」
なぜかその顔を見るのが耐えられなかった。
「こいつっ!」
気がつけば走り出していた。
「くるな!」
がん、と大気がふるえるほどの一喝。
「貴方達はこんな下らない化け物で傷つくな!」
刹那、少女の身体に異変が起こった。ぼこり、と手が泡立つようにふくれあがる。
「なっ!?」
そこから現れたのは――間違いなく化け物の姿だった。
「『花火』『線香』『本』ッ!」
瞬間、右手がふくれあがった。それはどんどん大きくなり、やがて球体を形作る。
それは三つの球体に分かれた。
禍々しく、強い不快感を及ぼす色。周りを包む『夜』の、濃紺な闇の色だった。
その球体は目の前でたたずむ化け物の生まれてきた球体にそっくりなのだが、雄平達は知るよしもない。
次の瞬間、まるで花びら開くようにその球体はすべて爆ぜ割れた。
音はない。
中から生まれたのは赤、青、黄、緑の色を編みあわせたような物体。その隣には緑色の細長い棒が鎮座する。その後ろに紙束が合わさり、表紙ができ、一冊の本となった。
どれもでかい。人間の身体の三倍はあるだろう。
唖然とすることしかできなかった。状況の整理が追いつかない。
「ちょうどいい……ここで終わらせよう。全部!」
少女は笑いながら手を突き出した。
まるで『突撃』の号令を出す指揮官のように。
それに呼応するように三体の化け物が動いた。
爆ぜ割れるように花火が動く。先端から七色の光を放出しながら一直線に化け物に突撃していった。その大きさから放たれる光たるや半端ではない。
ぶれるように化け物は後方に吹っ飛ばされる。
それに追従するように、後ろに回り込んだ線香が先端の燃えさかる部分を押し当てた。
独特のにおいが充満し始める。
最後は本だった。まるでかみ砕くかのようにページが開き、牙が生えているかのような勢いで両面をたたきつけた。ぐしゃぐしゃ、と租借しているかのような音が響く。
そして、不意に本の動きがぴたりと止まる。
「終わった、か……」
少女はつぶやくように安堵の声を上げる。本が両の手を広げるようにページを広げる。そこには化け物の陰も形もなかった。
それを見届けた瞬間、少女の華奢な膝ががくりと折れた。
「っ!?」
驚きよりも先に身体が反応していた。
「大丈夫……」
駆け寄ろうと身体が動く。
それを少女の目がまっすぐ捕らえ――
「来るな!」
「なっ!?」
一喝され足が竦んだ。
「何を……そんな怪我をして。危ないじゃないか!」
一瞬ひるむが、気を取り直し、また近寄ろうとする。
「危ない!」
踏み出す一歩を遮る声がした。
「芳乃!?」
布が舞う。
布はいつもと同じように弾丸の速度をもって疾走し、いつの間にか後ろに立っていた線香を吹き飛ばした。
「〜〜〜っ!?」
わけがわからない。
呆然と少女を見る。
少女は笑っていた。何のてらいもなしに、本当に無垢に、純粋に。
「さあ、始めましょう」」
少女は楽団を指揮するように手を蠢かせる。三つの『化け物』がまるでその手の一部のようにふわりと動いた。
「君の目的は何なんだ!」
怒りともつかぬ感情が胸に渦巻く。
少女は自分たちをあの強大な化け物から守ってくれた。なのに今度は自分たちに攻撃を仕掛けようとする。
目的が見えない。
『すべての元凶』とも言っていた。『夜』に自分たちを取り込んだのがこの少女なら、一体何を望んでいるのか。
疑問と焦燥にゆがむ顔を、本当にまっすぐに少女は凝視して、はっきりと澄んだ声でこういった。
「君たちに私を殺させること」
なぜ、と問おうとした。
だが、それは前の三匹の化け物達の咆哮にかき消される。
ぎちぎちぎちぎち、と本が牙をならし。
ぢぢぢぢぢぢぢぢ、と線香が静かに燃えさかり。
ばばばばばばばば、と花火が激しく光を放つ。
それは恐らく恫喝する意味を込めた戦意の現れだった。気圧されるように落ちている短剣に手を伸ばす。本能的な恐怖が脳裏を掠めた。
「そう、それでいい――」
つぶやくように少女は邪悪に笑った。
――けど、その笑みは必死に取り繕ったようにもろくて――
「貴女は、違う」
芳乃の声が聞こえる。
「その笑顔は私と同じ。嘘をついて、何かを隠すときの顔」
悲しそうな声音で。
「貴女が元凶じゃないことを私は知っているよ。貴女の名前も思い出せないけど」
その芳乃の言葉に胸が跳ね上がるように鼓動を刻む。
ちりちりと脳が訴えかけてくる。
――あれは、確かに、知っている人だ。
「誰だ……」
うめくように問うた。
「貴女は誰だ?」
その返答は、手の一降りだった。
「いけ」
その動きに導かれるように化け物達が進行を開始する。
「今日でもう、決着をつけよう。必要のないものは消えてしまわないといけないのだから」
そう言って少女は悲しげに笑った。
化け物達は縦横無尽に蠢いた。早さは板と同じ車の動きほどの早さである。
少女は動かない。じっと彫像のように立ちすくんでいる。時折起こる瞬きがかろうじて少女が生きていることの証明となっていた。
両手に持つ双剣を逆手に持ち変える。
迎撃の構えをとった。
同時に白い布がきらめく。
至近距離に飛び込もうとした線香をもう一度はたき落とした。勢いを殺された線香へ右から斬りつける。それと同時に足を踏みきり跳んでいた。
右からの斬撃にあわせるように身体も回っていく。一回転しながら、斬撃の勢いそのままに踵が思いっきり線香へブチ当たった。
音もなく線香は後ずさる。
それを深追いせずに雄平は今度、右を跳んでいる花火へと斬撃を放つ。牽制の斬撃だが刃物の一撃はふれただけで桁違いのダメージを誇る。
空ぶる。だが、そのおかげで距離を把握し、後ろへと一歩跳んだ。
間合いが一足一刀へと変化する。踏み込めば当たる位置。じりじりと荒ぶる花火の火花が手や鼻を掠める。
だが、まだ致命的ではない。じり、と間合いを詰めようとする。だが相手のリーチが広く、降着する。
「避けて!」
その降着を打ち破るかのように雷鳴が瞬いた。
布が翻るように夜天を舞う。だが、今度は花火も黙って当てられるわけではなかった。
布の先端に自らの火花を押し当てた。
高速で飛来する布の軌跡を見切る――明らかにこれまでの化け物とは比較にならなかった。
「くっ!」
芳乃が慌てて後ずさる。それを追うようにして花火が疾走する。
「俺は、無視かよっ!」
止めようと花火と芳乃の前に立ちはだかろうとしたとき、凄まじい勢いで本が口を広げた。
なんと本は勢いをつけ、自らを地面にたたきつけた。
がん、という凄まじい揺れが『夜』を満たす。立っていられないほど激しい揺れ。あっけなくバランスを崩し、雄平は倒れ込む。
だが花火はひるまない。宙に浮いているからだ。
「くっ!」
芳乃もまた転んでいた。つんのめるようにして身体が揺らぐ。手を何とかつきこらえるものの、手から布が離れてしまう。
「芳乃ッ!」
身体をすぐさま起こすが揺れが強く、思うように走れない。ぐんぐんと差が開いていく。
「なんでこんなことを――ッ!」
後ろにたたずむ少女へとたたきつけるように罵声を浴びせる。
身体はまっすぐに芳乃のほうへと向いていて、少女のその視線ををたどるように花火は不気味な速度で芳乃に迫っていく。
「あ、ああっ!!!」
火花が芳乃の身体に触れ――ようとする。
その時、信じられないことが起こった。
「駄目だよ」
拳が翻る。
空気を切り裂く音が凄まじい早さで少女が花火へと肉薄していた。
「傷つけるな」
花火が横へ吹き飛んだ。
「なっ!?」
驚愕で思わず足が止まる。芳乃もまた呆然としていた。
「傷つけさせない」
ゆらり、と少女は元の位置へ戻っていた。目にもとまらぬ早さとはこのことなのだろうか。
「なんなんだ……仲間だろ?」
少女が三匹を呼び出した瞬間を思い出す。あまりの展開に、呆然とうめくことしかできない。
「私だってこいつらを完全に動かせる訳じゃない。こいつらは自分に害のあるやつから襲っていく」
その問いに少女は静かにつぶやいた。
「俺たちは別に戦いたい訳じゃない! そっちが退いてくれるなら――」
ようやく会話することができる人間が現れたのだ。
ならば無益に争うことは無いはずなのに――
「言ったでしょう。私はこいつらを操ることなんかできないって。出してしまった以上は戦うしかないんだ」
その表情は無表情で、声にはまったく抑揚が無く、欠片ほどの真意も読み取れない。
「わけが、わからない……」
「いいんだ、わからなくても。じゃあ、戦う理由をあげる」
「何?」
いぶかしげな声を出してしまう。
「――こいつらを倒せば、もう『夜』に入らなくてもいい」
「なっ!?」
「そういうルールなんだ」
ルール……一体どういうことなのか。
「なんで、助けたの?」
芳乃がおびえるような声音で問う。
「女の子の綺麗な顔に傷をつけるわけにはいけないでしょう? ――それに、傷は消えないといけないから。消えない傷は、いらない」
「君は……なんなんだ?」
「知る必要は無いよ。意味のないことはしなくてもいい」
そう少女は言葉を発し、
「だから、終わろう?」
歪に笑った。
化け物達が動き出す。
動きだそうとした。
「え――?」
次の瞬間、少女の顔が蒼白に転じた。
ばりばりばり、と何かを破るような音が響き渡る。
大気が震えた。
「何故?」
瞬間、本の化け物が中身から吹き飛んだ。まるで風船がはじけるように、一瞬の出来事だった。
どこか間抜けな破裂音が響き渡った。
それは異質な恐怖となり、駆け抜ける。
白い雪のように本の残骸が降り注いだ。
「まだ、生きて――っ!!」
少女の顔が焦燥にゆがむ。
はらはらと白い雪の上に――黒い雪が降り注ぐ。
呆然とする少女を尻目に雄平は芳乃の元へと走り出した。
「大丈夫か!」
花火の放つ火花を至近距離で受けそうになったのだ。火傷は消えない。その白い肌に何か傷が――
「大丈夫……雄平は?」
心底心配そうな表情でこちらの心配をしてくれる芳乃に心が熱くなる。
「ああ、俺は大丈夫だ」
だからそんな優しい心配に答えるべく強く答えた。
「そう……よかった……」
すとん、と声のトーンが落ちる。
どこか嬉しげに芳乃は笑顔を見せてくれた。
けどその顔は――
「……」
どこか、震えている子供が強がっているような顔だった。無言でそっと、芳乃の手を取った。
「あ……」
ぴくりと芳乃の手が震える。芳乃の手はすべすべとしてほんのりと熱がある。柔らかくみずみずしい肌触りだった。
少し強く握る。すっ、と目を閉じると、やはり芳乃の身体は小刻みに震えていた。
その震えが密かに手に伝わってきて、いつもこんな風に震えていたのだろうか。
「大丈夫……大丈夫だから」
「逃げなさい!」
少女の鋭い叱責に我に返る。
そっと芳乃のてを包み込むように握りながら、視線を後ろへと鋭く巡らせる。
――闇が、舞っていた。
「あいつ……消えたんじゃなかったのか」
それは、先ほど死んだはずの、あの黒い人型の化け物だった。ゆらゆらと漆黒の身体が揺らめいている。
それは微塵も消えたことの片鱗を感じさせず、完全に復活していた。その身体から薄く鬼気が揺らめいている。
むしろあの攻勢を受けて何事もなく復活したということが、より恐ろしさを強めていた。
「行け!」
少女の号令とともに、寸分違わず、花火と線香が動く。
「何で君は! 助けて、襲って、また助けて……何がしたい!」
雄平は絶叫した。
怒りともしれない感情が雄平を突き動かす。歯ぎしりをこらえるのに善良を要するほど怒りが雄平の頭の中にあった。
「この『夜』で生まれた化け物を倒すこと……それだけが貴方達の役割。けどこいつはこの『夜』で生まれたわけじゃない別の『夜』で生まれたから――」
目の前で花火と線香と激しく戦う人型を指さしながら少女は語る。
「ここの? 別の『夜』?」
違和感。
「……『夜』は個人のもの。一人一人違うものなの」
「それじゃあ……何で」
隣の芳乃を見る。
個人の物ならば何故ここで自分たちは出会ったというのか。
「繋がってしまったから。貴方達の『夜』には穴が開いているの」
「どういう……ことだよ?」
声が震える。
「昔……昔の話だから。もういいじゃない。知らなくてもいいんだよ……思い出しちゃいけないこと」
ふわり、と微笑を浮かべながら少女は言葉を紡ぐ。
「知らなくていいだと! ふざけるな! いきなり巻き込まれて、死にそうな目にあって……それで説明もなしだと!」
「死なないよ」
「……っ」
澄んだ目。あまりにもそれは強い眼光だった。
「死なない。君たちは死なない。危険もない。本当にね、これは予定調和だったんだよ。おかしいと思わなかった? いきなり武器を持って戦えるとか、戦闘経験もないのにあんな動きができるなんて――」
「それ、は……」
確かに感じていた違和感。
「そういうことだよ。ここでの君たちは強い。本当に強いんだ。なぜならずっとここで戦っていたから。昔、ずっと。ずっとね……」
ずくん、と胸の奥がざわめいた。
「何、を……」
「説明がほしいなら与えるよ。雄平、芳乃ちゃん」
「名前を……」
「っ!?」
芳乃が息をのむのがわかる。
「貴女……お父さんとお母さんのお墓で……」
「これらの化け物は君たちの悪夢なんだ。そして私は悪夢の化身。宿主である君たちを自分たち以外に殺されたら困るから、今こうして君たちを守ってる。――簡単でしょう」
くすくす、と少女は笑う。
「それは……」
つじつまが合わないことはない。
だが――
「何故、死なないと言い切った……」
その問いに少女の顔が曇る。
「そうだね……その質問にはこう答えよう。『所詮悪夢程度じゃ人はつぶせない』。それでも悪夢は戦い続けなきゃいけない……それが宿命だから……ということでどうかな」
表情が読めない。透き通った無情動の声からは何も伝わってこない。けど、その目の奥に宿る狂おしいほどの感情は隠しきれていなかった。
何かを悔いているような痛切な悔恨がその表情にはあった。
「悪夢は自分だから、やっぱり自分が好きなの。だからね、君を守る」
「君は……」
思わず少女にのばしかけた手は、断末魔の咆哮によって遮られた。
「っ!?」
「なっ!?」
痛烈な叫び声が大気を裂くように響き渡る。鉄が軋むような大きな音だった。
「なんだ!?」
視線の先には信じられない光景が巡っていた。
線香がぼろぼろになっていた。
花火が千々にちぎれていた。
狂おしいほどに苦悶を伝える叫びが重なって先ほどの金属音になっている。
二匹の化け物はもう瀕死だった。
「くっ……」
少女の表情に焦りが浮かんだ。
「何故こんなにも強い……」
黒い人型が歩き出す。
一歩。一歩と。
「逃げなさい!」
少女が叫んだ。
「花火と線香が消えたら貴方達はもうここにくる必要はなくなる! 幸いあいつが殺してくれた!」
「幸いって……」
自分の仲間ではないのか。
「君たちが殺すことがベストだったんだけど……人の手で葬られた魔はよみがえりやすいんだ。けど……この分なら大丈夫そうだね」
ぐっ、と少女は拳を握った。
「逃げて! 雄平の『夜』のここから、後ろを向いて走ったら芳乃ちゃんの『夜』に付く!」
「君も!」
理由はわからないが、何故か少女を見捨てるという選択肢が完璧に頭の中から欠落していた。
「私はいいんだよ」
くすり、と少女は苦笑した。
「いいわけない! 誰かが傷つくなんていいわけないよぉ!」
芳乃もまた少女も手を伸ばす。
何故、こんなにも懐かしく、一祖起こったことをもう一度感じたことをまた感じているような気分なのだろうか。
「相変わらずだね、雄平、芳乃ちゃん――」
何故そんな顔をするのだろうか。何かを成し遂げたような満足げな顔。その顔は誰かに似ていて、
「これで、いいんだよ」
それは明確な拒絶だった。
がつん、とい音とともに線香の身体がはねる。根本から折れ曲がり、先端の火ももう消えかけている。くぐもった悲鳴のような音を立て、線香は蠢いた。
花火は必死に線香を助けようとしていた。だが黒い人型は容赦しない。花火の最後の抵抗として放たれたシャワーのような火花を真っ向から受け止める。
『夜』が明るく瞬く。
それはあまりにも幻想的な光景だった。
それは『夜』の全景を照らし出した。
どこまでも平面だと思っていた『夜』はその実立体的だった。まるで影絵のような図形が立ち並び、ドーム状の広がりを見せている。
黒い黒い地平線が広がっていた。
どこまでも深くどこまでも遠く、何もかもを飲み込むように続いている、黒の地平線。またたく光はすべての物を照らし出す。
地面にはたくさんの文字が刻まれていた。
『ここは夜』
『みんないっしょ』
『ばか』
『あいあいがさ』
『じゃんけんかちまけ』
子供の文字だった。
「あ――」
ごんごん、と頭が揺れる。
「これ――」
芳乃が呆然とした声を上げる。
「くっ……! 止まれ! 花火!」
少女が焦ったように走り出した。
拳が夜気を切り裂く。
敵であるはずの黒い影すら通り越し、拳で一撃を見舞う。ごぉぉぉぉぉぉっ! という怪奇な音とともに、花火は砕け散った。
瞬間。脳内をノックしていた物がぴたりと止んだ。
「なっ……」
まるで最初からそんなものは無かったというように、幻だったというように――
胸に手を当てて呆然とする。最初に感じていた懐かしさはもう無い。文字があったということは知っているのだが、それが何であったのかは思い出せない。
「これは……」
そして気がつく。
「化け物が倒されていくたびに……失って行ってるのか?」
それが何であるかはわからない。だが――
「それが、目的だったのか?」
線香が人型にのしかかられる。それを少女はただじっと見つめていた。
その時、
「やめてぇっ!」
芳乃の声が響き渡った。
「それは……それは駄目!」
同時に閃光が走る。白い布が吸い込まれるような軌跡をたどり、黒い影に向かっていく。
「芳乃!?」
驚く。
「なんで逃げないの! 二人ともお願いだから……」
少女が悲痛に訴える。黒い人型が笑うように震えた。
「っ!?」
芳乃の顔に驚愕が走る。黒い人型の手に、布がブチ当たった。だが、人型は動かない。
「捕まれた!?」
弾丸のような一撃。それを受け止めたのだ。
「駄目!」
少女の声に感情が表れる。焦ったような声。
その声に突き動かされるように双剣を構え、黒い人型のほうへ走り始める。こちらを一瞥し、人型は無造作に布を引っ張った。
ぐん、と芳乃の身体が揺らぐ。
「くっ……」
なんとか踏みとどまった。
「これで……っ!」
布が光を放つ。雷撃が宵闇にほとばしった。
一瞬、びくりと人型が揺れる。だが、それだけだった。
ぐいぐい、と子供が綱引きをするように無造作に人型は布を引く。それだけで芳乃の身体が揺れる。
顔を真っ赤にして芳乃は耐えていた。ずずずずずという摩擦音とともに、靴の裏が焦げるにおいがしてきそうな力比べが展開されていた。
二、三度連続して雷光が瞬く。だが、黒い人型になんの影響も与えてないようだった。
だからこそ急ぐ。
だん、という音とともに目の前に影が走る。少女が凄まじい早さで黒い人型に攻撃を開始したのだ。
手甲が唸る。
全体重を乗せたハードパンチが側頭部に突き刺さった。
だがそんな一撃でさえ、人型は胃にも返さなかった。人型はぶん、と布をつかんでいる腕を片方はなし、無造作に一降りした。
それがまるで居合いの技のごとく、目にもとまらぬ早さで飛ぶ。
少女はなんとか手甲でガードする。
「く、あっ!?」
だが衝撃は殺しきれなかったようだった。軽々と、信じられない早さで少女がはじき飛ばされる。
だが、その瞬間、人型は手を振り切って完全に無防備になっていた。その気を逃さず双剣に力を込め、さらに肉薄する。一拍おいて相手の攻撃が帰ってきた。重い一撃。空気を切る音が聞こえてくる。
早い。側頭部に打撃を食らっても、なおスピードにはいささかの衰えも感じられない。
――否、そもそもこれは化け物なのだ。人と同じようにダメージという概念があるかどうかも微妙だ。
よけきれないと脳が冷酷に答えをはじき出す。
だからこそ――最適に動け!
飛来する、岩のようなその拳を、思いっきり、頭突きで受け止めた。岩と岩を同時にたたきつけたような音が響き渡る。
それと同時に凄まじい衝撃が走った。痛いと言うよりはまず揺れているという感覚。
それと同時に突き抜けるような痛みが走った。
だが、まだだ!
頭が凄まじい勢いで後方に跳んでいくのがわかる。身体が頭に引っ張られるように落ちていく。それに逆らわず、身体をひねるように一回転させ、逆手に持った短剣を思いっきり振り抜いた。
鮮烈な手応えが腕を捕らえる。感覚的には同時に、地面に倒れ込んだ。
今度は鈍い痛み。
(やった、だろ……)
痛みでもうろうとする意識のままになんとか身体を起こそうとする。
「……げ……て」
耳がきーんという音で支配されていた。
ノイズ。不快なノイズ。
その中でどこか聞いたことのある音がする。意識が揺らいでいる。誰かが何かを言ってるはずなのに聞こえない。
「逃げて! 芳乃ちゃん!」
「!?」
その声に、我に返った。
まだ黒い人型は平然と立っていた。布が引きずられ、芳乃の足が徐々に引き寄せられていく。なおも芳乃は雷撃で反撃するが、効果は見られない。
「くそっ……」
双剣をも一度構え直す。ぐらぐらと揺らぐ意識をつなぎ止めるように双剣の冷たさを強くイメージに焼き付ける。だが、足が震えて動かなかった。まだ脳の異常は去らない。身体と頭が切り離されたかのようだ。
「やめて二人とも! 勝てない!」
少女が悲痛に叫ぶ。
彼女もまた賢明に立ち上がろうとして、足の震えで立ち上がれない。恐怖ではない。ダメージのせいだった。
「あ、あああああああっ!?」
芳乃が叫ぶ。
徐々に人型と芳乃の距離が縮まっている。もう一歩飛び込めば、斬撃を当てられる――その位置まで芳乃と人型は肉薄していた。
ごっ、という音がした。
「芳乃ぉぉぉっ!」
人型の手が吸い込まれるように芳乃にめり込んでいく。
「あ――」
惚けたような声が芳乃の口からこぼれ落ちた。
いよいよ後3話ほどです。