神様、仏様、アリサ様
気絶したんだか眠ったんだか、とにかく意識を失ってしまったがために抱えて釣れて帰らざるおえなかったアナスタシアを警備の隊に渡して、少し話をした後に先輩の後を追おうと司令部に向かった。
全身にあの女のネクタリンのような甘酸っぱい香水の匂いが気がして、どうにも不快だ。思わず無意識のうちにぱんぱんと服を叩いているが、一向に落ちそうに無い。
昔からこういう女性が女性だとアピールしてくるような匂いは嫌いだ。エレノアも家の用事で帰省するという時に会うと、こういった匂いを纏っていて少し苦手だなと思う。友人ですらそうなのだ。知らないどころか、先輩に暴言を吐くような女の匂いなど嫌悪しないはずが無い。
(みんな、先輩みたいだったらいいのに)
けっして毎日パンを焼いているわけでは無いだろうが、服や小物についているのだろうか。先輩からはパンを焼く時のような、香ばしくて甘くてまぁるくて優しい匂いが微かにする。その香りを覚えてしまった俺は、近寄る度に自然と胸が高まってしまう。
いつぞやか、マックと二人でパンの匂いがするという話をした時に、色んな意味で美味しそうだよねと言ったらドン引きされたが、事実だから仕方ない。
「あれ、アリサ」
ようやく司令部に着いた時思った時、扉の前でアリサが壁に持たれて立っていた。
「あぁ、ウィル、おかえり」
何時もよりもかなり小さい声で言ったアリサに俺は違和感を感じ、ドアの前ではなく彼女の隣に立った。勿論、もう一人が間に入れるぐらいの間は開けて。先輩は勿論、カイリーやエレノア、何より彼女に思いを寄せてるガルデンさんに見つかったら面倒臭そうだ。
「どうした?」
俯く彼女の顔を覗き込むように聞く。彼女は手を後ろに組んだまま、右足を少しぶらぶらとさせた。
「……アナスタシア、どうだった?」
アリサは気まずそうに口を開く。ちらりとだけこちらを見ると、また俯いた。
「あぁ……とりあえず生きてるって。ただ、ざっと医者や研究室の人に確認してもらった感じ……もう起きない可能性もあるんだそうだ」
彼女が飲み干したハーブティーが入っていたカップも回収し、先に帰ったエレノアに研究室へ持って行ってもらったが、アムネムさん曰く『箱庭』の砂によく似た成分が検出されたそうだ。それを飲み込むことによってどういう効果が得られるのかは不明だが、もし箱庭と同じ状態に陥るとして、アナスタシアが先輩に言っていたように、出たいと思うことが箱庭を自発的に出る唯一の手段であれば、この世界に見切りをつけてしまったであろう彼女はもう戻ってこないのではないだろうか。
「治療方法は考えるけど、何分、実験や検証ができることでもないし、ごくごく慎重にあたりたいって言ってた」
「そっか」
納得したようにも諦めたようにも聞こえるトーンでアリサは言う。そういえば、手紙の件の時も、アリサはアナスタシアの事を気の置けない友人だと言っていた。
改めて、アリサの様子を見る。無表情とも沈んでるとも見え、彼女の感情は読めない。カナ先輩やカイリーは表情豊かですぐ顔に出るタイプだし、エレノアは隠そうともせず口で言う。自分の周りでは彼女が一番大人で、それ故に一番謎だ。ずけずけとわが道を行くために物を言っているように見えて、その実、周りを良く見て一番みんなにとって良い手段を取っている。彼女のそういった頭良く事を運ぶところは尊敬するが、一方で本質から相容れるかと言うと自分とタイプが似ているから難しいと思う。
「……辛いか?」
「うーん……」
口を尖らした後、下唇を少し噛んでから彼女はこちらを見た。
「ちょっと、そうかもね」
彼女はまだ思案顔のままだ。それは、言葉を選んでいるように見えて、彼女の感情を隠すためのポーカーフェイスなのかもしれない。
「まさかさ、生きてて友達が犯罪者で、しかも親友を恨んで殺そうなんて事になるとは思わなかったよ」
わざとらしく肩を竦めた彼女は、相変わらず感情が読めない。俺は疑問に思っていたことを聞くことにした。
「先輩がアナスタシアさんに会えるように調整したのはなんでだ?」
「……カナってさ、自分のことはうじうじうじうじしてて見ててうざったい時あるけど、他人のことに関しては底抜けにまっすぐにポジティブじゃない?」
確かに、俺が親の出生で本部を抜け出すという時も「大丈夫だよ」と信じてくれた。先輩は自分を過小評価する代わりに、他人を評価する。それがけして過大評価や嫌味ではなく、自分でも気づかなかったようないいところをきちんと説得力を持って感じさせてくれるから、彼女とちゃんと親しくなるとみんなそこに惹かれるのだ。もちろん、俺も。
「他の人に相談しちゃうとさ、アナスタシアも犯人だってそれを信じて調査に行くでしょ。でもカナは一番疑ってしかるべき立場なのに、アナスタシアさんが犯人じゃないって信じたいって感じだったから。状況証拠だけ並べられたら、あたしだってカナ以上にアナスタシアを確保すべきだと思ったんだけどさ」
アナスタシア確保の前日、アリサにボッツの共犯者でカナ先輩を行方不明にした犯人かもしれない人物をカナ先輩と調査に行ってほしいと言われた時には、なぜもっと早く調査しないんだというのと、なぜカナ先輩に行かせるんだと腹が立った。もちろん箱庭に閉じ込められている人の人命優先なのは分かるが、その間に容疑者が逃げて、カナ先輩が逆恨みで危ない目にでもあったらどうするんだ、と実際にアリサに詰め寄ったほどだ。
「どうにも友人だって気持ちが勝っちゃった。カナだって代わりのない親友なのに」
彼女はそこで一息吸うと長くウェーブした金髪を片側に寄せた。
「ウィル、ごめんね。色々、全部。カナを危ない目に合わせて」
今まで見たことも無いほど深々と頭を下げるアリサに、俺はため息をついた。
「いいよ、というか謝るのは俺じゃない。確かに、あいつがカナ先輩を危ない目に合わせるそのきっかけを作ったのはお前かも知れないけど、その原因を作ったのは俺だし。お前だって傷ついてるだろ。親友だと思っているやつ殺されかけて、友達が悪い男に惚れて、自分のせいで追い詰められちゃう原因を作っちゃって」
なんとか頭を上げさせようと自分で自分を揶揄するしたら、彼女は頭を上げてじっと俺の顔を見た後、ふっと噴出した。
「……悪い男。そうね。なんてったって王子様は昔からお色気セクシーボンバーだもんね」
「生まれつきだ。っていうか、たぶん血のせいだ」
ビジュアルなのか体質なのか、男女問わず厄介ごとが起きるレベルでモテる自分を、昔はなんで自分ばかりこんな目にと不思議だったが、自分の出自がわかってからはそれも納得した。母親のサキュバスの血とか王家のカリスマ性とかそんなものが混じり混じってしまっているらしい。
「ま、あんまり気にするなよ、貸しイチってことで」
俺がそういうと、彼女は「そうそう」とポケットを漁りだす。これ、と渡されたのは俺らがイーリアス治安部隊に入ったばかりの頃に使っていた訓練用のインカムだった。見た目は普通のものとそっくりだが、内面……顔にあたる側に書いてある魔方陣が違う。本部の機材には繋がっておらず、もともとグルーピングされた数台でしかやり取りができない。彼女はポケットからもう一台取り出すと自分の耳に装着した。
「それ付けといて。言っとくけどしゃべんないでね、気が散るから」
そう言うと彼女は俺にこの場を離れるようにしっしっと手を振られる。本部に戻って早く先輩に会いたい俺としては不服だが、彼女に何か考えがあるのだろう。俺は言われるがままそれをつけると、その場を後にし、仕方が無いので食堂に向かう。
食堂でちょうどコーヒーを買ったところで、アリサが通信のスイッチを入れたのか、ジジッと音がした後、音が徐々にクリアになり、俺の耳にアリサの声が聞こえた。
『……どう……るの?前に……てた釣り合わないってやつ』
釣り合わないって何の話だろうと首を傾げて、俺はインカムから聞こえる音に耳を澄ます。
『えーっとね、本部に戻ってきてからずっと考えてるんだけどね……』
続いて、先輩の声が聞こえて俺は口に含んでいた、コーヒーを少し噴出した。白い制服にはついていない事を確認すると、机にあったペーパーナプキンで机を拭く。遅い時間だからか、誰も食堂にいなくて良かった。
俺はインカムに手をやり強く耳に押し当て、先輩が言っている声を少しでも取り逃さないように耳を立てた。先輩の声をインカムから聞くのなんて初めてで、その近さになんだかドキドキする。アリサやカイリーやエレノアの声だったらいつも聞いていてなんともないのに、やっぱり先輩の声がこんなに近くで聞こえるというのは落ち着かない。
アリサは俺に貸しを返したかったのだろう。確かに、十分過ぎる。ああ、耳が幸せだ。
『今日、アナスタシアさんが倒れる前にウィルと何か話して微笑んだのを見て、なんか何を言ったんだろうってちょっともやもやするし、例えば二人が付き合ったらって想像すると嫌だなって思うの』
(そんなの、アナスタシアに対しては、迷惑だとはっきり言っただけです。はっきり過ぎて暴言だったぐらいなので、先輩に聞かせたくなかったんです!)
誰に言うでもなく、心の中で思いながら、俺は先輩の可愛い声に、一人口角が上がるのを必死に抑えて耳を澄ましていた。
『だからね、あたしウィルのことたぶん……その……今までみたいに見てるだけじゃなくて……好き、で。でも、ずっと見てたからこそ、釣り合わない自分が許せないんだと思うんだよね……。それこそ、アナスタシアさんの言うとおり』
少し自虐的に笑いながら言った先輩の声は、驚くほどに切なく甘くて俺はとうとう我慢できず、その我慢できない顔を隠すために机に突っ伏した。アリサがいつものおどけた様子で何か言ったが耳に入ってこない。
『……もっと釣り合う自分になりたい。すごい時間がかかりそうだけど、せめて近くで支えられるくらいの人に』
腕にあたる顔の暑さで、自分でも今真っ赤であろうことが分かる。耳だけではなく、気持ちまで幸せ過ぎて、逆に居心地が悪い。誰か録音してないかな。いや、アリサを除いて、俺以外の誰かに先輩のこんな可愛い声聞かせたくないけど。
『ふーん、で、釣り合うまでは王子様の告白は保留?』
『うーん、でもそれって結局吸血鬼事件の時の二の舞って言うか……そんなに待たせるのも良くないと思うし。具体的にどーとか、まだ考えてないけど、近いうちに一回伝えてみる。それで、めんどくさいって引かれたらそれまでだけど』
引くはずなんて無いじゃないですか!とまたもや誰に言うでもなく心の中で叫びながら、俺は髪の毛を掻き毟る。どうしよう、嬉しすぎて叫びだしたい。いや、暴れたい。心臓が爆ぜそうだ。
そうやって悶えているとすぐに音声は途切れた。最後に先輩はマックを見舞うと行ってた気がする。俺も早く司令部によって後処理を済ませて追わなければと思うのだけど、幸せすぎて動けない。いや、どのみち、今は真っ赤すぎて、こんな顔で司令部に戻ったら、アリサやマルサンになんやかんやいじられるに違いない。
少し熱を冷まそうと、まだ熱いコーヒーに口をつけた。先ほどの先輩の声を思い出すと、口角があがるのを抑えられない。自分の出生とか体質の事とか、色々神様を恨んだけど、俺は今後一生感謝こそすれ、神様を恨むことはないとはないと思う。
そんなことを考えながらゆっくりしていると、急に後ろから先ほどまで聞いていた声が聞こえて、俺は思わずびくりと肩を揺らした。
「よ、赤面王子。何ニヤニヤしてるのよ」
アリサがにんまりと底意地悪く笑う。その様子は先ほどまでのしおらしい様子は無く、いつも通りのアリサだった。彼女は俺の向かいに来ると、愛らしい様子で両手で頬杖をつく。
「どう、借りは返せかしら。足りなかったら困るんだけど」
にっこりと笑う彼女に俺は机に額をつける勢いで頭を下げた。
「アリサ様、ありがとうございます。むしろ、借りができたほどです」
俺がそう言うと、彼女は今度こそ本心から楽しそうに笑った。
ウィルがヘンタイくさくなってしまった。愛が深いとこんなもんと言う事で……。
本編で書き書けましたが、カナ視点だった!と消した部分です。




