アイの戯れ①
三回の人生全て合わせても今まで座ったことも無い、高そうなのソファーに浅く腰掛け、あたしは隊服のスカートの裾をぎゅっと握り締めた。腕時計を見ると、まだ五分しかここにいないが、もうすでに十分も二十分もいたように感じられる。
なぜなら今、あたしはエレノアの実家、つまりシャウムブルク伯爵家にいるからだ。
ことの始まりは昨日。いつもどおりラースと二人で勤務を終え、第四研究室を出ようとしていた時だった。
「カナ、今回も実家に帰るんっすか?」
「うん、特に予定もないし、そうするつもりです。シフト調整してくださってありがとうございます」
明日は休日で、明後日は二週間ぶりに学園に行く日だ。ラースが勤務を交代してくれて、休みと学園に行く日が続くようにしてくれた。ちなみに学園へは研究協力でイーリス治安部隊の隊員として行くため、きちんと勤務日扱いにしてくれている。
「とんでもねぇっす。土産のパンうまかったっすから」
「うん。またお土産に持って帰ってきますね」
「うす」
実家から持たされたパンを二つほどお土産にしたところ、ラースはいたく気に入ったようで、帰ってきてから今日まで毎日、なんの脈絡もない会話の中であっても実家のパンうまいっすねと言ってくれていた。彼なりにうまい事催促しているつもりなのだろうと思っていたから、今回は多めに渡そうと決めている。
ざっとデスクの片づけを終え、まだいる第四研究室の人たちに挨拶をして、扉を開けると、ドアの脇には見覚えのある人がいた。
「エレノアのメイドさん……?」
「あら、カナ様。お会い出来てよかった」
ほっと息をつく彼女は何か手紙のようなものを持っている。
「あ、郵便出されますか?お預かりしましょうか」
そう言うと彼女はにっこりと笑って首をふった。
「これはカナ様宛ですの」
そう差し出されて受け取った上質な白い封筒には、確かに綺麗な文字であたしの名前が書いてあった。聞けば、任務にまでついて行くわけにはいかないメイドさんは、今はエレノアの実家のシャウムブルク家に戻っており、三日に一度は本部にあるエレノアの部屋を掃除をしに来ているそうだ。そうして今日、こちらに来る時にこの手紙を預かったらしい。
「あたし宛に預かったって、誰から……?」
「イザベル様ですわ」
……誰だろう、まったく聞いたことの無い名前だ。と首を傾げると、メイドさんは少し苦笑して「エレノア様の妹です」と言った。
「あ、あの!」
「はい、件の際にはイザベル様がお世話になりました」
「あ、いえ。私は一緒に捕まってただけなので……」
頭を下げられて、こちらも慌てて下げる。
「それで、催促するようで申し訳ないんですけれども、お返事を預かってくるように言われておりまして……良ろしければ今確認していただけませんか」
困ったような顔をして言う彼女に促されて、手紙の封を切ると、ラースが横から覗いてきた。あまり行儀が良いとは思えないが、特別困るようなことが書いてあるとも思えないし、まあ良いかと思って、あたしも手紙の文面に目を通す。
内容は、吸血鬼事件でお世話になったことへのお礼と、一度会ってちゃんとお礼をしたいから、できるだけ早く近いうちに、なんだったら明日でも、いや今日でもいいからとかなり強い調子で、申し訳ないけどシャウムブルク家まで来てくれないか、と書かれていた。最後はイザベルの署名で締めてある。…一応、お礼や申し訳ないなどの気遣いの言葉は書いてあるのだけれど、文章からも有無を言わさない感じが伝わってくるのは何故だろう。
「イザベル様がお帰りになってからずっとカナ様に会いたいとおっしゃっておりまして。私ったらうっかりして、先日お集まりになった時にカナ様も会いたいとおっしゃってましたよと申し上げてしまって……そうしたら是非是非すぐに今にでもうちまで来ていただきたいと駄々をこねられまして……」
またお嬢様の我侭だと使用人全員一致でなったため、彼女が「聞いておきますね」と濁して返したら、本人にも、話を流された様子が分かったのか、翌日家を発つ時に「返事をもらうまでは帰ってくるな」と無理やり手紙を渡されたそうだ。
「お忙しいと思いますし、御礼をするのにご足労頂くのもどうかと思いますし、なによりあのイザベル様ですし……。お断りしづらいと思いますので、エレノア様を通じて諌めていただきくように、私、お願いして参りますわ……」
「あ、いえいえ、そんな。エレノアの方が今任務で忙しいですし、あたしもお会いしたいと思ってましたので、むしろお邪魔させて頂けると嬉しいです」
ほとほと困り果てたという顔をしてため息を吐くメイドさんに、断って当たり前という風に言われたけれど、個人的には彼女に一度会ってみたかったので行きたいという気持ちを伝えると、彼女は目を見開いて驚く。え、そんなに驚くところかな。
「本当ですか!?」
「え、あ、はい」
「本当に?いえ、私どもとしては大変助かりますけれど、いいのかしら……。いえ、でも大変助かりますわ。ありがとうございます。ありがとうございます」
彼女の頭につけてるひらひらがついてるカチューシャが落ちる勢いで、大げさに何度も頭を下げられて、なんだか恐縮してしまう。魔方陣を使えば、エレノアの家まで歩く時間を考えたって片道30分くらいだろう。ちょっと会いに行くだけでこんなに感謝されていいものなのだろうか。
「では、日程はいつにしましょう!」
「カナ、明日休みだから実家帰る前によればいいじゃないっすか。予定ないんっすよね」
これまで大人で物静かなイメージのメイドさんにじりじりとすごい勢いでメイドさんに迫られ、驚いて声も出ないあたしに、ラースが横から助け舟を出す。
「あ、うん。でも急すぎるんじゃないかな。たしかに手紙には明日でも良いって書いてありますけれど……」
「いえ!もちろん、間違いなく明日で大丈夫です!」
本人の予定を確認しないでも大丈夫なのか疑問だが、自信を持って言いきるメイドさんに、では明日の13時頃に、と伝えると彼女はあたしの手を掴んで両手でぎゅっと握った。
「本当にありがとうございます。助かりましたわ。では、私はお返事を伝えに帰らなければいけませんので!」
「あ、はい。よろしくお願いします」
最後に大きく頭を下げると、彼女は小走りで住居棟の方に向かう。その背中が完全に見えなくなると、ラースがポツリと呟いた。
「でもカナ、すげぇっすね。俺、尊敬するっす」
「え?尊敬?なにがですか?」
先ほどのメイドさんの態度といい、ラースの今の言葉といい、意味がわからないと怪訝な顔あたしに、ラースは最近たまにあたしに向ける、呆れたような顔をした。
「イザベル=シャウムブルクっつったら、俺ですら知ってるくらい、傾国の美女かつ、男も女もみーんなすぐに喰っちまう世紀の悪女として有名じゃないっすか。そいつに気に入られて会いに行くなんて、並大抵の勇気と覚悟じゃできないっすよ」
「え、ちょ、待って……来て欲しいってそっち!?」
「え、そうじゃなきゃあんなに熱心に呼ばねぇっしょ」
単純に同じ事件に巻き込まれた身として苦労話とか慰めあうために呼ばれているかと思いきや、自分の身に訪れた貞操の危機に青くなるあたしに、ラースはご愁傷様と手を合わせる。というか、そんなこと知っているんだったら、横から明日予定がないとか言わないでほしい。言葉が出ないあたしへの助け舟だと思ったのに。
「なんだ、俺、てっきりカナがそういう世界に興味があるのかと思ったっす」
何を想像しているのか、にやにやとするラースの背中に一発軽くパンチをお見舞いしたが、もちろん彼にとっては痛くも痒くも無く、珍しく大きく破顔してこう言った。
「もし、なんかあったら事細かに教えてくださいね」
「何かあっても言えますか!っていうか、ぜっったい何もありませんから!!」
そうして、あたしは休みの日に単身シャウムブルク家を訪れることになってしまったのでした……。