第9話:たじたじ
おはよう。
おはよう。
おはよう。
朝の教室は気持ちがいい。校舎が一気に目覚め、だんだん賑やかになっていく。来た人から順に競うようにして、ベランダに出ておしゃべりを始めている。5月と言っても、朝はまだ涼しくて、寒いくらいだ。その中に、桃香たち3人の姿もあった。
「昨日、見たよ。」
ゴメンと両手を合わせて、かなこが言った。
「何が。」
「昨日、課題がとかいって部活休んだじゃん。あれ、一人でモリエール描いてた?」
「ああ、ううん。他の人も来てなかったから、そのまま帰っちゃった。」
「そっか…。もっと集まりいいといいのにね。」
「うん。」
二人はため息をついた。
「あ、それで、見たって何を。」
「ああそうそう。あのねえ〜。」かなこは口を横に広げてにいっとし、
「誰でしょうー。」と引きつって笑った。
「え、さあ。誰。」
「知りたい〜?」
「早坂蒼。」横から、いたって冷静に亜矢が答えた。するとかなこはもうっと怒りながら、
「何で言っちゃうの?」と言った。
「もったいぶるようなことじゃないでしょ。」
「え、え、何で?会ったの?」
桃香はかなこの肩をばしばしたたいた。
「桃香を狙うなんてどんなやつかと思ったから、確かめに行った訳よ。」
「狙うって訳じゃ。」
「まぁ、そこはいいから。でもさすがに本人連れてくのはまずいでしょ。だから亜矢と二人で、あのあとグラウンドまで出て行って、サッカー部が部活してるの見てきたんだよ。そしたらね、あたしも顔とかよく知らないからどうしようかって思ってたんだけど、サッカー部って亜矢の彼氏いるじゃん。で、教えてもらったの。もう、亜矢ってばその人の前では女の子でかわいかったよ〜。」
亜矢がつっこみをいれたので、かなこは先を続けた。
「それで、早坂蒼。そいつ、めちゃくちゃサッカー強かった。うん、確かにかっこいいかもしれない。チコたちが騒いでたの分かったわ。もてそうだよ。」
桃香はかなこのバラ色モードに気圧されながら、「へ、へぇ…。」と相づちだけ打った。
「そんなにいうなら、かなこが狙えば?かなこだって、前からかっこいい人探してたじゃん。」
心からそう思って言うと、かなこは目をつり上げて怒った。
「何言ってんの。あたしは、桃香に早くいい相手が現れないかなってずっと楽しみにしてたから、こうやって喜んでるの。そりゃあかっこいいとは思うし、いい人そうって感じたけど、自分が好きになるとかじゃない。第一、早坂蒼は桃香のことが好きなんだよ。」
「ごめん。」
「もう、分かったならそれでいいの。桃香は自分のことを考えればいいから。」
激しい剣幕でまくし立てられて、桃香は小さくなってしまった。
ちょうどその頃、二年七組の上の階のベランダにも、おしゃべりをしている集団がいた。A組の男子たちである。
「へぇ、そうなんだ…。」
そのひとりは、ベランダにもたれて、顎を指でちょんちょんとつつくと、唇の端を持ち上げた。
「早坂蒼。」覚えた、と声に出さずにつぶやいて、教室に入っていった。
その日一日、かなこは機嫌が悪かった。亜矢に尋ねると、あいつもいろいろあるんでしょうよと返された。
その通り、かなこには誰にも言っていなかったが好きな人がいたのだ。ずっと一途に想い続けている人が。これを二人に打ち明けるのは、もっとずっと後のこと。