第2話:そわそわ
そんなことがあったから、今日はとてもではないが本などに気が向かないのだ。
まさか、だってまさかだよ。信じらんない。
桃香は読んでいた本をあきらめ、観念してえいやっと閉じた。白い机にほおづえをつき、窓の外を見やると、葉っぱたちが気持ちよさそうにささやき合っている。
これを開けたら、きっと涼しい風が入ってきて、多少は気分転換になるのだろう。でも、今のくずぶっている興奮は決して嫌なものではなく、むしろずっと浸っていてもよかった。
昨日家から帰ったあとのことを思い出すたびに、皮膚の温度が1,2度上がる気がする。『ヨロシク』ときたメールは、ごくごくシンプルで、互いに自己紹介程度しかできなかった。
それでも、何を送ればいいのか分からず、どこを血迷ったか好きな食べ物などの話題を振ってしまった。今どきのコウコウセイなら、そんなのないよな、小学生かよと自分でもつっこみたくなるほど恥ずかしい。けれど、その話題からおいしいラーメン屋さんの話になったのはよかった。勝手に汽車を動かしてしまって困っていたら、どこぞの優しい誰かさんが、線路を正しい方向に直してくれたみたいだった。ラーメン屋さんならコウコウセイにふさわしい内容ではないか。
ふふふっと笑って、桃香はその名の通り、桃色の世界に浸った。
何より甘酸っぱいのは、桃香のことを「モモカちゃん」と呼んでくれることだった。男子に名前で呼ばれるなんて、小学校低学年以来だ。あのころは親同士の仲がよかったりするだけで、こちらが欲しかろうがどうだろうが、下の名前を呼ぶ権利を得ていた。もっとも無邪気な子供のことである。何のためらいもなく呼び合っていた。
ところが、16歳にもなっていざ口にされると、こうまで舞い上がってしまうものなのだ。
16歳―もう少しで17歳、という響きは胸にとくんとしずくを与える。
それだけで恋が始まる予感がする。
くすっ。
突然自分のものではない笑い声が聞こえ、桃香ははっとして現実の世界に戻った。今気が付いたのだが、向かいの席に同年代の男子が座っている。
「ええっ」
桃香は目を真ん丸にして、その男子を観察した。ずっと彼のことを考えていたので、本人が現れたかと思ってしまったが、どうやら違ったようだ。
しかし、年や背格好まで似ているので、本当に彼かと思った。息が止まるかと思った。
くすくす。
なおも見続けていると、男子はまた笑った。右手でソフトカバーの古そうな本を支え、左手は口元に寄せてこちらを眺めている。両者とも視線をずらさないので、変なにらめっこの形になってしまった。もちろん桃香は「ずらさない」と言うよりは、「ずらせなかった」だけなのだが。
あ、あたしのことを笑ってるんだ!
一瞬の間をおいてそのことが分かると、さっきまでのそわそわなんて生ぬるいものではなく、一気に顔の温度が沸点まで達した。
恥ずかしい!
桃香は机に放り出してあった本を鷲掴みにすると、すっくと立ち上がり、逃げるようにしてその場を去った。桃色にうずもれた桃香は、たしかに傍目で見ていて面白かった。面白いほど、可愛かったのだ。
それを知るよしもない桃香は、ひたすら恥に感じ、眉の間に力を入れて、ずんこずんこと大股で歩いていった。
そしてそのまま、その日は図書館も出てしまった。