3
男やもめにウジがわくっつーけども、いいかげんにしないとなあ、こりゃ。
若槻は、自分の部屋に一歩入ってそう思った。帰宅時にはいつも思うこと
なのだが、ほんの数分すると慣れが起こって、すぐに忘れてしまう。
スーツの上着を脱いでハンガーではなくソファの背もたれに置き、
パンツを脱いで同じ場所へ乱雑に投げる。こういう行為が部屋の
エントロピーを増大させているのだと若槻はわかっているが、
やめられない。その辺に落ちている部屋着を探して身につけた。
冷蔵庫からビールを出し、モニタの前へどっかりと座って、山田美沙に
焼いて貰ったディスクを挿入した。
家でデータを読み込む訳は、違法ソフトでの解析が目的なのだ。
波形を、実際の映像や音へ変換するアプリケーションは、地下流通している。
これは、研究者の間では当たり前に使用されているものなのだが、
さすがに研究室のコンピューターではおおっぴらには使えない。
よって、データは家にこっそり持ち帰り、変換して見るのが常識なのだ。
本当は、ボディスーツ型モニタがあれば、味覚・触覚・嗅覚も変換して
感じることが可能なのだが、一介のサラリーマン研究者が個人で所有するには
高価すぎる。普通のコンピューターでは音声と映像だけだ。それでも、
研究者には喉から手が出るほど必要なデータになるのだ。
自分の声からそのデータは始まっていた。…こうしておかないと、
夜間の充電時にデータが取れないんです。昴が目を見開いて、待合室の
壁を見つめている映像。
「えーと…もっと先だ。」
若槻はデータを早送りする。
…朱璃、そっちへ行ってもいい?
視線の先には、ぼんやりとソファにカラダを投げ出している花元先生。
彼女は、膝をぽんぽんっと叩いて…おいで。若槻が、もう少し早送りする。
昴が花元先生を至近距離で見つめている。それから、近づく。唇を合わせる。
映像が遮断される。二人分の呼吸音。これが、数回繰り返された。
「キスしてるな…。」
映像が復活する。上気した花元先生の顔。
花元先生の声…これ以上はダメ。いけない。昴の声…どうして?
…ちょっと我慢できそうになくなって来ちゃったの。
昴が、彼女を抱きしめた。彼女の肩越しにソファの向かいの壁に
置いてある、待合室の本棚が見える。
…別に、我慢しなければいいのに。
…だって、あなた機能的に無理じゃないの。
…別に、それだけが必要な事じゃないでしょ?ぼくは知ってるよ、もう、全部。
なめらかに映像の視点が高くなる。花元先生は昴の腕の中に、いわゆるお姫様だっこ
の状態で抱きかかえられている。そのまま、待合いの続きにある施術室へ向かう。
昴は、彼女をそっとベッドへ座らせるように置いた。昴の手が、花元先生の着ている
白衣のボタンへ伸びる。ゆっくりと、一枚ずつ、衣服を剥いでいく。彼女も、
昴の衣服を少しずつ脱がせている。花元先生は、あと一枚を残してすべて脱い
だ状態になった。花元先生を至近距離から見つめる映像、それから、近づく。
映像が遮断される。呼吸音。
若槻はビール片手に、食い入るようにモニタを見つめる。
「んー、正しい手順だねぇ、昴くん。素晴らしいね、見習わないとな。」
視点が降りる。花本先生に手を添え、それからゆっくりと映像は倒れこむ。
目をつぶった花本先生の顔。最後の一枚に手をかけ、すべて脱がせた。
それから昴は自分の衣服を手早く脱ぐ。内部から発光するような花本先生の白い肌。
洋裁用のボディそっくりのカタチ。昴の手が、それをいつくしむようにゆっくりと撫でる。
顔が近づく。映像が遮断される。映像が復旧。目をつぶったままの花本先生の、
うわごとのような声がする。答える昴の声。
ゆっくりね・・・その代わり、できるだけ、長く。
うん。
目を開く、花本先生。きらきらとぬれて光る、黒い瞳。
やっぱこの人、ものすげえ美人だ。オレとあのフォルモ、昴君くらいしか気づいて
ないんだろうけどな。若槻は、大きくため息をついた。
「…何やってんだ、俺。」
違法解析ソフトを強制終了し、波形データとグラフのみの、通常版解析ソフトのみの
モニタに切り替えた。個人的な興味と研究者の矜持がせめぎ合い、研究者の若槻が
勝利したのだ。思考回路を切り替え、若槻が研究者の目で波形を見つめる。
翌朝。まあいつものことだがギリギリまで寝ていたいので朝飯は抜き、
コーヒーだけ、それも昨日淹れた豆に再度お湯を通した二番煎じのもの。
独り暮らしは独り言が増える。
「意外と飲めるんだよな、これ。ホテルのコーヒーよりは濃いしな。」
そういう自分を合理的且つ非常識だと積極的に評価しつつも、
貧乏性だとも思いつつ。昨日ソファに置いたままのスーツにもう一度袖を
通す。シャツだけは新しく代えた。そして、部屋着はまた床に適当に放り出し、
パソコンから例のディスクを取り出して鞄に突っ込み、あわただしく家を出た。
満員電車に揺られ、若槻は金城海の事を考えていた。若槻と彼は、
同じJFA…japan formo associationに所属はしているが、研究室が違う。
よって一面識もない。様々な部署に別れているJFAは、セクションが
異なれば一生顔を合わさないのが普通なのだ。それより何より、研究員
としての格が違いすぎる。若槻の脳裏に浮かんでいるのは、一枚の写真だ。
フォルモ・プロトタイプ初号機を腕に抱いた、ハナモクレンがほころぶような
笑顔をたたえた、金城海。初号機が完成した際の、プレス発表用写真。
また、男前なんだよな、金城先生。花元先生もすごい美人だし、
天は二物を与えないなんてのは絶対ウソだね。たった一人で数億人の
波形データを採取して、それの五感ごとの標準偏差を探り出し、
焼き付けの感情を含んだベーシックプログラムを作り出したなんて、な。
有り得ない作業だぞ。それのおかげで、あの膨大な波形データベースが
出来たわけだし。俺たち研究員はアレがなけりゃなんの作業も出来ないしな。
若槻は、自分が研究所に志願して、何とか潜り込む程度の才能しかない
事を、金城海との対比で実感していた。金城先生は高校で二つ飛び級、
俺はストレートで大学には入ったけどさ、地元のだし、普通に4年かけて卒業だし。
修士論文は書いたけど、博士論文は今書いてるし。花元先生も確か、高校で飛び級
してたよな。あの二人、出身大学も同じだったはずだよな、確かこの日本の最高峰、
日本州立大学—Japan provinco universitat。しかも医学部医学科。金城先生が先輩で、
花元先生が後輩だな。しかし、専門分野が違うよな。花元先生は精神医学専攻で、
金城先生は人工生物有機工学専攻だったな、確か。接点はなさそうな気がするが…。
列車が、停止して、押し出されるように駅へ降り立つ。
人波に流されつつ、改札を抜け、ぼんやりとさっきの続きを考えながらJFAまで
歩く。自動操縦のように、習慣化された動作で、研究室の自分の机に到着。
「おはよぅ。何ぼんやりしてんだよ。」
若槻は上司、この研究室の責任者である浅間に声をかけられて正気に返った。
「あ、おはようございます、浅間さん。」
「どうかしたの? スーツのよれ具合、昨日より進行してんじゃない?」
「ああ、これ…昨日ちょっと無精しまして。」
あやふやな笑みを浮かべている若槻。ハンガーくらいつかえよ、俺。
「社会人なんだからさぁ、少しは気ぃ使った方がいいよー。」
浅間は派手に笑顔を浮かべながらも、目があんまり笑っていない。
「はい、済みません。あの、浅間さん、ちょっと聞きたいことが。花元先生と
金城先生の事なんですが。」
浅間の目が、鋭く尖った。声のトーンを落とした。
「なに、あの二人がどうかしたの。」
「実は…。」
若槻は、違法解析ソフトの事以外でモニタリングした結果と、自分の仮説を
浅間に伝えた。
-------------------
浅間は、若槻の話す昨晩の出来事を聞き、こりゃあマズい事になったなと感じていた。
花元と金城の関係については、JFAの上層部では公然の秘密だ。フォルモの
ベーシックプログラムの影の立て役者は花元朱璃で、この二人が恋人に似た関係性を
持っていた事は、おおっぴらには出来ないが事実だ。まさか若槻がここに気づくとはな…。
あまり洞察力はないが、直感でつかみ取るタイプなんだよな。だから、花元朱璃の
とこの案件を任せたっつったら、そうなんだがなぁ。波形データのベーシックな部分が、
この二人の波形の合成に酷似していることは、以前から指摘はあったが、フォルモ
のプロトタイプを早く発表するために黙殺されていた。というよりも、あの波形データ
に関して解析を加えることが、タブー視されていたのだ。
「で、俺、個人情報データベース使いたいんですけど。」
「はいよ、許可証だすわ。ちっとまってて。」
浅間は、自席に戻ると、メモリースティックを持ってきた。
「ほれ、許可パスワード入り。なんかみっけたら逐一報告。あ、山田美沙さまが
探してたぞ。先にそっち行け、若槻」
「ありがとうございまっす!」
若槻がメインデータルームへ足早に向かうのを見送る。あいつ、美沙様が好きなのな。
浅間はバレバレだぞ、若槻、と思った。研究所内恋愛厳禁、だ。
若槻がどこまでたどり着くかわからんが、こっちも独自に調査しないとならんな。
浅間は、個人情報データベースにアクセスした。データベースを構築した当時の
個人情報が展開される。まずは、花元先生だな。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<花元朱璃:人間、女性。>
身長164cm 体重53kg±2 年齢28歳
国籍:日本。職業、フォルモ=プロトタイプ研究員、出身:関東エリア(北)。
両親とは海難事故で死別している。
生年月日20××.7.15
血液型Rh+A
趣味:創作活動一般。好きなスポーツ:水泳。好きな異性のタイプ:中性的な男性。
音楽:ポリリズム・変拍子を含むジャズ・プロッグレッシブロック。
地元の小学校→私立中学→家を出て東京→私立高校・飛び級→両親を海難事故で亡く
す→医科大学→大学院→精神科医。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
しっかし、この人美人だなぁ。浅間はデータに添付されている、若い花元朱璃の
写真に見惚れた。メガネかけなきゃいいのにな、視力回復手術なんざ、いくらでも
可能だってのに。で、金城先生のは、と。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<金城海:人間、男性>
身長178cm体重65kg±1、年齢30歳
国籍:日本、職業:フォルモ=プロトタイプ研究員、出身:琉球エリア
父親とは死別、母親は統合失調症ケア施設にて健在。
生年月日200××.9.14
血液型Rh+AB
趣味:食べること、料理すること、現代美術。
好きなスポーツ:水泳、特にシュノーケリング。好きな異性のタイプ:花元みたいなヤツ。
音楽:クラシック・ないし現代音楽。
地元小学校→私立中学→父死亡・母親発症→私立高校(一貫)・飛び級→上京・大学
→大学院・研究室→JFA→スペイン
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「好きな異性のタイプ:花元みたいなヤツ。」って。ここ、書き換えとこうか。
上層部にだけ許されている複雑なコマンドを入力し、「花元」を「頭脳明晰・美人」
と換える。このままにしておいたら、すぐにでも金城先生を隔絶されたあの研究施設へ
送致しなきゃならんからな。プロトタイプ研究員同士の恋愛は、法律で禁止されている。
研究室から外れた花元先生と、未だ研究員の金城先生は、ただ直接逢うことすら
禁止条項の一つだ。メール・通常電話・FAX・手紙・はがきはOK、しかし
映像を伴った通信、例えばテレビ電話や立体映像通信は禁止だ。
これには根拠がある。フォルモ=プロトタイプ研究員、しかもベーシックプログラム
開発者であり、更に現在凍結中の感情プログラムプロジェクトリーダーである
金城先生が、個人的に恋愛感情を抱いている花元先生に直接接触することは、
フォルモのプログラムに大きな偏差をもたらす。まあ、平たく言えば、世間の
フォルモ全員が、花元先生ないし金城先生に出会ったら、自動的に薄い恋愛感情を
持つって事だ。こんな危険なことはない。さらに、感情プログラムを導入していれば、
間違いなく熱烈な恋に落ちる。こうなったら最悪だ。オーナーのコマンドが入らなく
なる。この場合、強制的な初期化とベーシックプログラムの再インストールしか
方法はない。
実際のところ、花元先生の所有する阿南型フォルモ「昴」は、恋愛感情を発現させて
いると上層部では仮説が立てられている。街中で花元先生を偶然見かけてしまった、
感情プログラム入りフォルモが暴走して、この研究室で初期化を実施した例が存在する
のだ。男性型・女性型一例ずつである。発表されていないが、これが、感情プログラム
プロジェクト凍結の直接的原因だ。もちろん、若槻にはそのことは知らせていない。
さぁて、とりあえずオレの方でも、二人の合成波形の解析ぐらいはやっとかないとな。