2
眠っているのだが、恐ろしい早さで様々なことを考えており、私は早朝に覚醒した。
今、4:00だ。気を失っているうちに、治療室から自宅のベッドへと運ばれていた
ようだ。服を着せて抱きかかえて車に乗せたんだな。近所の住民に見られなかった
だろうか。顔が熱くなる。
さらに私は、きちんとパジャマに着替えさせられていた。昴が傍らで眠っている。
左を下にして、滑らかな肩の曲線が布団からはみ出して見える。彼の方は裸で
眠っていた。私は意味が無いのをわかっていながら、布団をかけなおす。
眠る、と表現するしかないが、これは夜間に行われる充電作業だ。踵にある
ソケットにコードを繋ぐか、リビングにおいてある充電ブースに入って自らのボディ
を充電器にセットして、意識をシャットダウンするのだ。充電時間は5時間。
この間は、携帯用コントローラーのエマージェンシーボタンか、昴のボディにある
それを押さない限り、再起動しない。携帯用コントローラーは常に身に付けることが
フォルモの持ち主に義務づけられている。フォルモは充電中どんなに大きな音がして
も、地震があっても、たとえボディを傷つけられたとしても、起きない。ただし、
昴によれば夢は見ているとのことだ。でも、フォルモが夢を見るって。だいたい、
ハードディスクの回転は止まってしまっているはずなのに、どこで見てるんだろ。
昴の睡眠時間は、あと1時間ほど残っている。目は冴えてしまった。起きようか。の
ろのろとベッドから降りる。キッチンでお湯を沸かし、紅茶を淹れる。治療室には数
種類の紅茶を備えてあるが、自宅ではアールグレイばかりだ。私は、ガラスポットの
中でジャンピングするリーフをリビングのテーブルでぼんやりと眺めていた。まだ、
夜は明けない。発作的に切なくなった。こういう感情がわきあがってくるなんて、何
年ぶりだろうか。 まだ、こんな感覚残ってたのね。
こういう時って昔はどうしていたんだっけ、忘れてしまったな。わからないや。
ため息をひとつ。ゆっくりとアールグレイをカップに注いで、ミルクを加える。
ふわりと香りがたって、私は不意に涙が零れ落ちるのを感じた。ああ、そうだった。
切ないときは、泣くものだっけね。声を押し殺し、正面を向いたまま、肩を震わせて、
私は涙の暖かさに身を任せた。ぽろぽろと転がり落ちるように頬を伝う感触は、
もう何年も味わったことが無かった。あったかいなぁ。心がゆっくりと溶け出した。
気づくと私は泣きながら微笑んでいた。空が、白み始めた。もうすぐ日の出だ。
涙が止まり、微笑みだけが残ると、私はやっとアールグレイを口に運ぶことが出来た。
少し、冷めてしまったな。
切なさの原因については既に理解していた。昴のベッドでの行為が、私が大切に
想っているある人物のやり方そのものだったからだ。もう、間違いない。昴は、
あの晩の彼との出来事を、一部始終記憶している。あれが、昴のプログラムを
進化させ、人工感情を自律的に動作させるきっかけになっているのだ、おそらく。
昴は、泣きそうになるほど人を好きになった瞬間の、私を目撃したのだ。
このことを報告したら、あの若槻は発狂するほど喜ぶに違いないが、とてもではない
がありのままの報告などできない。そんなことをしたら、彼に多大な迷惑がかかるこ
とは判りきっているのだから。どうしたらいい? でも、どちらにせよ若槻に報告は
しなければならないだろう。昨日の一部始終はデータが取られているのだし、
何があったのかはおそらく筒抜けだ。
今日、おそらく連絡が入るだろうし、情報を引き出すまで延々ねばられるに
決まっている。誤魔化したら、自宅まで押しかけられるだろう。それまでの間に、
どのような言葉にするか考えなくては。 大丈夫、私の思考は正常に作動している。
適切な態度と言葉を選び出して、いつものように白衣を着て、演じるんだ。
少し勢いを付けて椅子から立ち上がり、私はオーディオセットに気に入りのCDを
セットした。慣れ親しんだ音が流れ出して、それから私は書斎からノートパソコンを
リビングへ。ネットに接続し、昨日の晩に読めなかったメールをチェックし、特に
すぐに返信すべきものがないことを確認し、若槻から渡された電子ペーパーの
中身を読み始めた。
--------------------------------------------------------------
ぼくは、朱璃が抜け出したベッドで夢見ていた。あの日からずっと繰り返し見る
夢なんだけど。だから、ぼくは、この夢の中で次に何が起こるかはわかっている。
それでも見るたびに毎回思うのは、どうしてあの晩、一緒に起きていないで、
充電ブースに先に入ってしまったのだろうということ。
そうだ、あの日ぼくはリビングの充電ブースで眠ったんだった。朱璃と一緒にじゃ
なくて。でも、何でだったかな・・・。今のぼくだったら、あんなことにはならな
かったし、させなかったのにって思うんだけど…。
でも、なんでそんなこと思うんだっけ…。
あの日は、3人で家まで帰ってきたんだ。朱璃より少し年上の男の人。名前は、
カネシロ カイ…金城海さん。朱璃もカイも結構酔っぱらってたくせに、家でまた
飲むっていって、とっておきのワインはあけるわカルヴァドスは飲むわで。すごく
楽しそうだった。カイが海外赴任から帰ってきたばっかりで、会うのは5年ぶり
だとかって朱璃が教えてくれた。行ってたところはスペインの研究施設だってさ。
宇宙食の開発してるんだって、カイは。おみやげに一個貰った。
ラベルに「スパニッシュ・オムレット」って書いてあった。made in Spainの、
本物のスパニッシュ・オムレット、ただし宇宙仕様、ってことになるのかな。
カップラーメンみたいにお湯を入れて10秒間振って、それから3分待てば、
すごくおいしいオムレツが出来上がり、だって。
日本に帰ってきたのは、この技術で普通のスーパーの店頭に並ぶレトルト食品を
日本市場に出すから。日本のインスタント食品の市場は、世界一のレベルで、
ここで売れるならそのノウハウ、ぼくのベーシックプログラムみたいに
どの世代にも応用できるデータになるんだって、言っていた。でも、お湯を
入れて3分、地球上でも地球を眺めながらでも、あの料亭のおいしい鮎の塩焼きが、
って、なんだか冗談みたい。ぼくはちょっと食べてみたい気はするけどもさ。
「昴も飲みなさいよぉ。」
「朱璃はぼくが飲めないの知ってるでしょ。」
かなり酔っぱらってる。目の回りも頬も耳たぶも桜色してる。体温もあがってる。
脈拍も。ぼくの持っている感覚器連動型の計測器がアラートを鳴らしてる。
大丈夫かな、朱璃。カイも酔っぱらってるけど、こっちは大丈夫そう。
あの身長・体重の成人男性が飲める許容範囲のアルコール量だもの。
「昴くんはお酒、ダメなの?」
「うん、おなかの中の皮膚が化学変化起こしちゃうんだ。…ね朱璃、お水かお茶か
持ってこようか。」
ぼくが朱璃と一緒にいるようになってからこんな風にしたことがない朱璃で、
「大丈夫よ。あーもう、久しぶりだなあ、こんなに楽しいの。」
って言った。なんかぼくはぼくの肩甲骨の間ををがりがり爪でかかれたみたいな
変な感じがした。とってもイヤな感じ。こういうのって、感情プログラムを導入
さてれから。朱璃が考えていることがよくわかるようになった気がするのはいいん
だけど、それよりも問題点の方が多いんだ。うまく処理が処理が出来ないデータが
弾き出されてきて、処理速度を落とさなきゃならない事がたくさん起こる。困る。
カイは楽しいって聞いて、花がほころびるみたいに笑った。大人の男の人って
こんな風に笑うんだ。ぼくもデータをとっておいて、いつか使おう。いろいろ
面白いデータがとれるな、今日は。でももう、随分遅い時間になってる。
ぼくの電力がそろそろマズイかも知れない。
「ねえ、朱璃。そろそろ電池切れちゃうみたい。予備に切り替わりそう。」
朱璃の顔がちょっとこわばった。「心配」ってこういう顔。
「昴、あたしたちまだ飲むから、今日はブースで寝てよ。何かあったら起こすから。」
朱璃は、非常用再起動ボタンが内蔵されている指輪を触りながらそう言った。
これ、所有者の強制コマンドだっていう合図。
これは、『男の人と二人きりにさせるな』って事。確かに危険って言えば危険。
二人とも酔っぱらってるし、朱璃は可愛いし、カイはカッコイイし。さっき外でごは
んを食べたところで話してたけど、二人とも今のところパートナーも配偶者もいない
し。誰か決まった相手がいなければ、「恋愛」って「自由」なんだよね? たしか。
ぼくが持ってるカイのデータは、身長178cm体重65キロ、肌の色は健康的に日
焼けしてる。手は大きめ、でも指は細い。黒目がちの目で、シャープな眉。かなり意
思が強そうな顔立ち。髪の色は黒に近いブラウン。短く刈り込んで、ハリネズミ
みたいに整えてあって、二人で並ぶとなんか兄弟みたいでおかしい。声はホルン
みたいに丸い音がするんだ。服装は立体裁断の、わざとダメージを与えてある
ジーンズに、淡いクリーム色の洗いざらしのシャツだった。
ぼくはしっかりコマンドを受け取った。「自由」で、「恋愛」したくないなら、
何かあったら呼ばれたときに起きて、必要なことをするのが、ぼく。
「ん、わかった。じゃ、そろそろ寝るね。おやすみなさい。」
「はい、おやすみ。」
朱璃がにっこり笑って腕を広げるから、いつものようにそっちへ行ってキスした。
カイが見てるしちょっと恥ずかしい。
「うわ、いつもそうするの?」
「そうよぉ、いいでしょ。昴、かわいいでしょ?」
「そうだなぁ、男の俺から見てもかわいいなあ。」
自分の顔が赤くなる気がした。これは、感情プログラムの成果。なんなんだよ二人と
も。
「じゃ、おやすみなさい。」
ぼくはそういって、ブースへ入った。踵の端子を充電器に接続して、それから自分で
意識をシャットダウンしたんだ。ついでに、久しぶりだからセントラルホストへの
接続もして、データの整理もしたんだ。ネットワークに繋がるのは一ヶ月ぶりくらい。
フォルモである僕らはたまにネットに接続して、ホストコンピュータにデータを預け
て重複しているファイルとか断片化した記憶なんかを整理してもらう。これをさぼる
と、日常動作がなんかすごくゆっくりになっちゃう。すごく困るんだ。
でも、その日はいつもと違っていた。シャットダウンしてから丁度82分したとき。
なぜか、音が聞こえてきた。ボディが「眠っている」ときは意識もないし、
もちろん感覚機器も電源が落ちている。けれど、聞こえた。おかしい。
これ、ぼくの耳じゃない。この音、どこからだ?
カイは、新しく開けたワインを注ぎながら、
「春になったって言うけど、結構寒いね。」
「あら、そうかしらね。ま、あっちに比べれば寒いかな。」
「まあそりゃそうだな。スペインと東京じゃぁな。」
朱璃が立ち上がって、歩いた音がした。空調を入れに行ったみたい。足音が戻ってき
た。
「ね、手、かして。」
音がしない。何をしたのかな。って思った瞬間、自分の視界が開けた。
モノクロ画面の映像。これ、セキュリティ会社とネット防犯システム契約を
しているインターホンのCCDカメラだ。それでわかったのは、 耳の代わりをして
いるのはネット接続してあるオーディオのスピーカーだってこと。
朱璃はカイの手を両手のひらで、大事なもののようにそっと包んでいた。
「うわ、冷たい。」
ほんの数秒そのままでいて、すぐに手を離そうとしたんだ。その直後、カイが
手に力を込めて、朱璃の手を離さずに無言で立ち上がった。
あの時の黒く鋭く光る目は、いつかテレビで見た、動物が獲物を捕食する時の目。
その動作は、ものすごい速さに見えた。カイは、自分の椅子に戻ろうとした
朱璃を捕らえて、腕をウエストに回して、 逃げられない様に力を込めて。
朱璃の体が驚きで一瞬硬直したのが判った。朱璃が何とかして逃げようともがき始める。
カイは更に力を込めて、 絶対に逃がさない意思を示している。朱璃は、この間
ぼくにしたみたいに、 彼の胸を押し返そうとする。けれど、どうやっても逃げられ
そうにないみたい。押し返すために真正面を向いてしまった朱璃の顔をカイは見据えて、
とうとう唇を捕らえた。朱璃の目がこれ以上ないくらい見開かれた。顔を背けようと
するけど、背中に回ったカイの両手が首筋と後頭部を支えているので逃げられない。
右下の方向に何とか顔を逃がした朱璃の、くぐもった小さな声が聞こえた。
「やめて。」
カイは答えない。もう一度朱璃の頭に両手を添え、正面を向かせる。
「はじめたのは朱璃の方でしょう。」
カイの、声のトーンが変わった。含まれているのは、ずるさ、かな。わかんないけど。
それからまた唇を捉えた。見開いた朱璃の目が、表情をめまぐるしく変えるのが見え
る。
驚き…後悔…諦め…。朱璃の手はまだカイの胸に置かれていたけど、諦めの表情を
目に浮かべた直後、腕がカイの背中へと昇っていった。痛み…甘さ…陶酔…、
そして朱璃が目を閉じた。朱璃が回した腕に力がこもったのが見えた。
ぼくはぼくで、朱璃とカイがしていることから、今まで採ったことのないデータ
が採れるので面白くて仕方がなかったんだ。
そして、しばらくしてから朱璃とカイは唇をゆっくりと離した。それから、
お互い目を開いて。目を合わす、見つめ合う、唇を捉える。目を瞑る。
一度唇を離す、もう一度寄せる。それから、舌で探り当てる。ゆっくりと、終える。
ため息を吐く。また最初から、何度でも繰り返す。
ふいに朱璃の手がまた、カイの胸へ下っていった。何回か、力無く胸を押し返す。
けど、カイはさっきと違ってちゃんと朱璃の唇を解放してあげた。
朱璃は、まだ目を瞑っている。
「だめ。だめ…だめ…。」
カイは何か面白いものを見たみたいに、茶化して言った。
「別に、我慢しなくてもいいのに。」
今度は本当にカイを押し戻した。カイは、しばらく抵抗していたけど、最後には
朱璃の背中に回していた腕の力をゆるめた。まだ、背中に回したままだけど。
ぼくが聞いたことない、朱璃の低い声。
「どうしてこんな事したの。」
カイは困った表情を作った。でも、本当は別に困ってない。
「キミがはじめたことでしょう。そうでしょう。」
「そうだけど…このまま、放っておいてくれると思った。」
「そんなに都合よく行くわけないでしょ。」
朱璃が目を開けた。手はまだ、カイの胸に当ててある。でも、押し返して
自分の身体の自由を取り戻す気は今はないみたいだった。
「でも、他の選び様はあったでしょう。そうしようとは思わなかったんだ。」
「あったけど、これを選んだ。」
「どうして。何もしないでおけば何も変わらなかったのに。」
「朱璃が変えようと思ってくれたから。多分同時に俺も変えようと思ったから。」
朱璃の表情が、きっぱりと変わった。力を込めて、カイの胸を押し戻した。
カイは、さっきまであんなに力強く抱きしめていたするりと腕をほどいた。
朱璃の、カイを まっすぐ見つめる強い眼差しが、ぼくのボディの中の何かを
引っかいた。 胸が、痛いのかな、これ。でも、ボディの胸部って予備の
ハードディスクだから、痛いわけないんだけど。
「あなたが好き。」
朱璃は、よく通るいつもの声ではっきりと、決心したようにそういった。
その言葉を耳にしたぼくの中で、圧縮されていた何かのプログラムが展開した。
ボディ全体が締め付けられるような感じがして、ぼくの予備ハードディスクに
音声ファイルがひとつ浮かんだ。 ・・・朱璃が好き。その言葉をぼくは、
何度も何度も繰り返し再生したんだ。
・・・朱璃が好き。・・・朱璃が好き。・・・朱璃が好き。 ・・・朱璃が好き。
ボディが締め付けられる感じは消えない。さらにそこへ、胸の中が舞い上がるような
感覚が加わって。寂しくて嬉しくて悲しくて幸せな感じがした。
「おれも、キミの事が好きだよ。」
カイは、またあの花がほころぶような笑顔を見せた。声は少し低くなって丸みを増し
た。朱璃が、笑い出しそうな泣き出しそうな顔をした。声を絞り出す様にして話し出
す。
「じゃあ、どうしたらいいの、わたしは。」
「どうしようか。いや、キミがどうしたいかの問題でしょう。」
「カイは、どうしたいの。」
「朱璃を抱きしめてキスして触れて味わって中に入ってみたい。」
朱璃はカイをまっすぐ見つめた目を、まだ逸らしていない。挑みかかるような、
歓喜に震えているような、悲嘆にくれるような、そんな様々な色をいちどきに
目に浮かべた。
「わたしもそうしたいけど、今すぐに?」
「今すぐに。」
数十秒の沈黙。朱璃はカイから目を逸らした。それから、朱璃は、自分を抱きしめる
ようにした。そして、うつむいたまま低く、有無を言わさぬ様な声で言った。
「今晩、一度きりで、二度としない。そして、決して今晩の出来事をお互いに
口にしない。けれど、忘れない。これを守るなら。」
「…どうして一度きりなの。」
朱璃はカイを睨みつけた。
「あなたとあたしが、ここでこうやって逢っている事自体、犯罪でしょうよ。
わかってるのよ、あなたがスペインに行ったホントの理由。あなた、フォルモの
感情プログラムの開発者じゃない?」
カイは、瞳から今まで見せていた熱を消した。朱璃の言葉を肯定もしないし、
否定もしなかった。ただ、二つ開いている黒い穴みたいな目で朱璃をまっすぐ
見つめていた。耐えきれなくなったみたいに、助け船を出すみたいに、朱璃は
言葉を継いだ。
「…で、どうする?」
カイは、黙って頷いた。朱璃は、そっとカイの右手をとった。それから、黙って
寝室へ導いて行った。リビングのドアを、カイがそっと閉めた。