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病床にて

 あの日わたしは急にあの人から知らせを聞いた。

「沙希の1年、売れたって報告がきたから。心の準備、いいか?」

本当に売れるんだ…って、ビックリした。わたし生まれ変われるんだなぁって。というか、本当は生まれ変わってもそうでなくても、とにかくもうわたしの人生なんてどうなってもいいと思ってた。


 死んでしまおう。だって毎日つまらない。同じことの繰り返し、同じ人に囲まれて、鏡に映るわたしはいつもいつも冴えない顔。心から楽しいと思えることも、やりがいを感じて充実することも、なにもない。みんなはわたしを空気のように思っているのか目には見えていないよう…挨拶をするでもない、なにかの話で盛り上がることもなく、聞いてくると言ったら「今日のご飯なに?」の一言。そんな質問、この時代ロボットだって答えられる。そんな毎日に疲れてわたしは船の上、真夜中の施錠された扉の鍵を開け、こっそりデッキに出て潮風に当たっていた。このまま、飛び降りてしまおう。探したって、きっと見つからない。海の底に沈んで、誰とも関わらず傷つかない世界に行くんだ。この世は、わたしみたいな弱者には残酷すぎる。そう思って、手すりに手をかけたその時だった。

「そこから飛び降りて死ぬ前に、1度生まれ変わるチャンスに賭けてみないか?」

あの人の声だった。

「こ・・・こんな夜に、あっ、あの、これは・・・」

「言い訳はいいよ。この状況見りゃなにをしようとしてたのか、わかる。」

「・・・すみません。」

「ついてこいよ、沙希。お前に聞いてほしいことがあるんだ。もしかしたら、お前の人生を変えられるかもしれない。」

なんの話だろう。職場で自殺未遂したことがこの人にバレてしまった時点でもうわたしの人生おしまいだよ…早く飛び降りてしまえば良かった。


 「もう・・・沙希。驚かせるなよ・・・。口数は少ないけど、真面目にしっかり仕事して、今の生活に満足してるのかと思ってたよ・・・」

「・・・すみません。」

「謝らなくていいから、もう一人で考え込んで勝手に死のうとするなよ。相談相手がいないなら、俺にまず話せ。いいか?」

「・・・はい。」

「とりあえず今夜のことは、もう忘れよう。さっきの話、詳しく聞きたいか?」

「・・・チャンス、ですか?」

「そうだ、これは選ばれた人間しか得ることのできないチャンスだ。」


 あの日、あの人に自分休業の話を聞いていなければ、わたしは今もうこの世にはいなかった。わたしは説明を聞いてすぐに自分休業希望者に名乗り出た。もしそれで自分の人生を託した他人でさえ、楽しめない人生だったなら、休業明けに今度こそ死んでやる。そう思って…迷いはなかった。でも、ここに来て毎日同じ白い天井を見ていたら、なんだか不思議な気持ちになった。だってここには、わたしに変わってわたしの世界で生きている人を待っている家族がいる。ここへ来ては泣いて帰る人もいる。なぜわたしなんかの人生を1年も引き受けたりしたんだろう。あなたを大切に思い、必要として、目覚めるのを今か今かと待ちわびている人がこんなにいるっていうのに…


 「あゆみ~、どうだ、調子は。」

「まーま。」

また、今日も来た。この人は、たぶん旦那さんなんだろう。そしてこの赤ちゃんの声は娘さんの声だろう。旦那さんは毎日病室に来ては今日1日あったことを話して帰っていく。この人のお陰でわたしは病床での退屈で膨大な時間のいい暇つぶしをさせてもらっている。

「今日は、なにもない1日だったよ。」

わたしは一瞬ハッとした。この人の言う“なにもない1日”って、いったいどんな1日なのだろう。なにもない毎日に疲れて死のうとしていたわたしには、それが興味深い。

心音ここねを保育園に送って、出勤して、これといった事件や事故もなく、上司になんか言われるわけでもなく・・・心音ここねはいい子で保育園で過ごしたって保育園の先生も言ってたしな」

「ここ、いいこ。いいこ。」

「こんな毎日が一番平和だな。あゆみ、安心してくれ。ちゃんと、あゆみが目覚ること楽しみに、俺たち毎日頑張ってるから・・・な。ここ。」

「ここ、がんばぶ~いいこ」

「うん、ここはいい子だ。」

なにもない1日が一番の平和?そんなこと考えたことなかった。わたしはなにか変ったことが起きないか、毎日考えてた。ある日突然運命が変わるような事件に巻き込まれるとか…そんなことを夢見たりなんかしてた。でもこの人たちは、ある日突然奥さんを、お母さんを失ったんだ。まさにドラマのような事件に巻き込まれたんだ。わたしがずっと望んでいた展開は、この家族の運命を劇的に変えてしまった。自分休業、他人就業でみんなが幸せになれるんじゃなかったの?説明では、そう聞いていたのに…今になって、自分のしたことを、後悔してる。



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