ステルス~黄色とピンクの誘惑
はぁ、はぁ…もう大分階段を上り続けている。船というのは概観の華やかさとは想像がつかない構造をしている。船底で働くエンジンの人なんか“海モグラ”とか呼ばれてる。暗いし、窓はないし、揺れは少ないけれど日の光を浴びないせいかみんな色白…性格も少し変わった人が多い気がする。この通路を通って見回りをしているワッチだって、この暗い通路を夜中一人で巡回しているのかと思うと可哀そうで仕方がない。わたしのチームママやシェフは比較的この船の中では人間らしい生活が出来ているからまだ恵まれている方なのかも…。
「はぁ、着いた。このドアだ。沙希、大丈夫か?」
「はぁ、はぁ・・・大丈夫です。」
ふぅ、と息をつく。
「このドアを開けたら、お前はもうこの船のクルーの顔をしてはいけない。1人の乗客として堂々と遊ぶんだ。わかったな?」
「わかりました・・・。」
確かにそうだ。今はチームママの沙希ではいられない。たくさんの乗客の中の一人として今夜を楽しむんだ…!
ガチャ…扉が開く。まっ、まぶしい!
サッと隠し通路から出てフロアに出た。床には赤いじゅうたん、向こうで楽器を演奏している人々、それを聞きながらお酒を飲む人、テラスに出てどこまでも続く青い景色と潮風を感じている人…皆、着飾っていて優雅だ。
「すっ・・・素敵。」
感動した。わたしが汗水垂らして働くこの船は、こんなに素敵な時間をお客様に提供しているんだ。そして、わたしのような人間が陰でどんな辛い仕事をしているのか、どれほどの数の人がこの船の空間と優雅な時間を守っているのか、そんな“現実”を感じさせない夢の世界。ここは豪華客船の上層フロアー。
「おい、固まってるぞ。いこうか」
「あっ、はい!」
スタスタ慣れた足取りのヒデさん。わたしのドレス姿は明らかに着飾った不自然な感じなのに対して、ヒデさんの正装は着慣れてる感がある。明るいところに来て一層胸元のピンクのハンカチが目立つ。やっぱり、そこチャラい感が溢れだしてる気がする。
「とりあえずなんか飲み物もらってくるから、適当に待ってろよ」
「あ、お願いします・・・」
気が利くようで、気が利いてませんよ。適当に、待ってろって言われても…この雰囲気この空間の中でどう適当にしたらいいの?おのぼりさん丸出しで立ち尽くしてるしかないわたし、トホホ…。
「いかがですか?」
あ、チームシェフのフロア係の人だ!真ん丸い優しい目をした、幼顔の男の人。トレイの上にバターレーズンが。
「戦士の休息、ですね。今夜は楽しんでください」
あ、クルーだってこと、バレてる。
「ありがとうございます。」
「どうぞ」
キラキラ輝くかわいい器に盛られたバターレーズン。
「おぉ、相武じゃん。お疲れ~」
ヒデさんお酒を手に無事帰還。ん?相武って?
「あ!ヒデさんじゃないっすか!お疲れさまです!」
「こいつ、シェフの相武ってやつ。乗ったばっかのピチピチだよな」
「何言ってんすか、こんばんわ、相武って言います。あなたは・・・?」
うっ、森田さんと同じチームの人とこんなところで話してしまうとは。とりあえず自己紹介でもしましょうか…
「沙希です。チームママでまかない作ってます」
「自分、知ってます!沙希さんかわいいっすよね!」
…ん?今この子はなんていった?
「いつもママの料理おいしくいただいてます、ありがとうございます!」
この子…めっちゃいい子じゃん!優しいのは顔だけじゃなかった!
「いえいえ、こちらこそ食べてもらって嬉しいです・・・」
「あ、お前ら仲良くなろうとしてるな。俺の紹介だってこと忘れんなよ相武。」
ヒデさんが割り込んで話す。
「今夜は俺とのデートなの。相武は仕事に戻れよ。」
「いやいや、邪魔する気はないっすよ・・・でも沙希さんに手出すの、やめてくださいねマジで。」
うぉ~こんなところに優しい素敵な新人がいたなんて!
「大丈夫です、ヒデさんとはなんの関係でもないので!」
笑顔で相武くんにそう言った。
「じゃ、失礼します。素敵な夜を!沙希さん、今度お話しましょう。」
「は~い、ありがとう。お仕事頑張ってね相武くん。」
華麗にお辞儀をしてにこやかに去って行った突然現れた若き貴公子相武くん。見えなくなるまで手をふった。
「おい、お前アイツにも色目使うのか?」
「あいつに“も”って・・・わたし誰にも色目なんてつかってませんけど。」
はい、ヒデさんお得意のこのケンカ売ってくる口調。何とかしてほしいんですけど、せっかくの楽しい夜が…
「森田には不自然に使ってると思う。まぁ森田美形だから仕方ないか。ほら、レディにガッチガチのビールじゃ失礼だろ。これ」
黄色とピンク色がグラスの中で綺麗に2層に分かれている。
「これは・・・?」
「ビアカクテルだよ。ビールとカシスのリキュール入ってる。甘くて飲みやすいから」
おお!気が利く!なんかおしゃれなお酒~おいしそう。近くのテーブル席に座り、生演奏を聴きながらこの空間に溶け込む。
「それじゃ~・・・乾杯っ!」
「おいおい、体調崩してたやつに見えないな。」
「あっ、確かに・・・」
「でもまぁ、元気になって良かったな。頑張りすぎなんだよ、最近のお前」
私が沙希になってから、必死に毎日過ごしてきた。私が失った仕事がここにはあるし、努力を認めてくれる仲間や上司がここにはいる。限られた中だけど自由があるし、沙希に好意をもってくれる人だっている。沙希はいいね。私はもう、誰かに特別に愛されることもなければ社会の歯車になることもない。家庭という小さな小さな世界で、育児と家事に追われて寂しく死んでいくの。
「おい、沙希」
呼ばれてふと我に返る。
「あ・・・今、なんて?」
「人の話聞いとけよ・・・。お前最近頑張りすぎだって言ったんだよ」
「いや、そのあと」
「・・・沙希って、言った。」
「・・・ですよね。ヒデさんいつもわたしのこと“お前”って言ってませんでした?」
「あ~、確かにな。だってボーっとしてんだもん。なんか悩んでんのか?」
普段名前で呼んでこない人から名前で呼ばれるとドキッとするのは私だけでしょうか。彬人から初めて下の名前で呼ばれたときはもう胸がバクバクして、痛いくらい緊張したっけ。
「色々考えること、あって。今夜は、飲みます!」
「飲むのいいけど、お前酒飲めるの?」
「大丈夫です。強いですから!」
「じゃ、遠慮なく飲めよ」
かなり飲んでしまった。独身の頃みたく、明日のことなんて考えずにとことん飲んだ。なにかに追われている気持ちを消したくて…。自分がしていることは最低のことだってわかっている。大好きなはずの彬人を捨て、心音を捨て、今わたしの精神はここにいる。そしてわたしは沙希の人生を満喫している。だって、楽しいの。自分のやりたいようにやって、話して笑って…家にいたら、自分がしたいことなんて全然出来ないんだもの。家事をしたって育児をしたってお給料がでるわけじゃないし、自分で望んで出産したけど子供はかわいいばかりじゃない。大変なことも頭にくることもある。それをわかってくれる人がわたしにはいなかった。いや、同じ境遇のママさん達に会って話しても所詮お互いの傷の舐めあいになるだけ。私の心の中の空虚感は存在し続けるんだ。そして、ブラックホールみたいに私を飲み込んでいく。
「おい、沙希!」
「う~・・・ん。」
「う~んじゃねぇよ・・・酒強いって言ってのどの口だよ」
ああ~!頭が痛い!なにこれ…クラクラする。
「タコみたいな顔しやがって。」
ヒデさんの嫌味も全然響かない。頭に来ない。思考回路停止中みたい。沙希って、お酒弱いの?そんな記録なかったよ…
「まだ3杯しか飲んでないのにそれかよ」
「う~。外の風、あたりに行ってきていいですか?」
「おう、行くか。行けるか?テラス、向こうだ」
「・・・はいっ」
フラフラになりながらも歩く。歩ける。ヒデさんなんかの肩、借りてたまるか。
「ウェイター!水くれ、テラスだ!」
憎いヒデさんの心遣いでテラスで水を口に含んだ。
「ふぃ~・・・」
「お前は・・・本当心配な奴だな。」
「ヒデさんに心配されたくないれふ・・・」
「もっと、俺と遊んでみたくなったら言えよ。」
「もう今日充分遊んでもらいまひたよ~だ」
「冗談抜きにだよ。俺は今夜程度じゃ全然遊んだ気になってないね」
なんか真剣な顔してこっち見てる。でもあんまし真面目に聞けない。頭痛いんだもん。
「俺はいつでも歓迎だよ。お前にその気が出来たら言えよ」
「はい?はい、わっかりましたよ。今日は、そろそろ帰りますね、わたしちょっと酔ってしまった気がしまふ」
「ちょっとじゃねえよ」
席を立とうとした途端、誰かの手が肩を支えてくれた。
「居室まで、送ります。」
優しい瞳。相武さんだ。
「いいよ相武。俺送るから」
「いいんです。お酒はいったヒデさん、危ないから」
「何言ってんだよ、じゃ頼むわ。俺もう少し飲んでから帰る。」
「どうぞ、ごゆっくり」
ひょいっと持ち上げられ、おんぶしてもらったみたい。わたし、恥ずかしい。でももう眠くて仕方がない。ごめんなさい、社会人失格だ、私…。




