04 王の純情
サイアス王は足取りも軽く王妃の居室へと向かっていた。
手には王妃の好む焼き菓子の箱を持っている。
今日は王妃と会う約束はしていないのだが、見舞いのお礼という立派すぎる理由があるのだ!
頑張れ自分、攻めるのだ自分、王は意気揚々と王妃の元へと向かった。
しかし、王妃の居室から見知った顔が出てくるのを見て、浮き立っていた気持ちは一気に萎んでしまった。
あれは……タキス・バッケンレー大尉。
王の脳内でタキスの情報が素早く取り出される。
王は、こちらに気づき伸びやかな動作で膝を折る男を冷ややかに見つめた。
タキスは、王妃の愛人と噂される男のひとりだ。
見上げるような長身に、鍛え上げられた厚い胸板。太い首の上に乗った顔は無骨さが目立つが、柔らかく弧を描く目や口元が人好きする印象を与えている。
貴族出身の武勲華やかな功績を持つこの男は、女性人気も高かったはずだ。
おそらく北方領から帰還したその足で王妃に会いに来たのだろう。そういえば、奇跡的に天候が回復し一日早く帰還したと報告が上がっていた。
敵の動向は抜かりなく把握している王である。
ちっ。いっそそのまま雨に流されてしまえば良かったものを。
誰が声などかけるものか。
王はタキスを無視し、素早く王妃の居室へと滑りこんだ。
扉を閉め、気を落ち着けるために大きく息を吸う。
「タキス、何か忘れ物でもしまし……まぁ陛下?」
扉に背を向けていた王妃が慌てて立ち上がった。
「驚きました。もうお加減はよろしいのですか?」
王妃は結婚後、ベールは被らず常に素顔をさらしている。
公の場以外では生国の習慣で生活しても良いと考えていたいた王は、「私ももうジグジア国民ですから」の一言で完全にベールを取り去ってしまった王妃に驚嘆したものだ。
褐色の肌と髪が普通のユパーナの民には珍しい黄金色の肌と亜麻色の髪は、母君が西方人のためらしい。
やや緊張している王の正面に腰かける王妃は、相変わらず麗しかった。
「一日休んだら楽になった。心配をかけたな」
はぁ。なぜ俺はもっと気のきいたことが言えないのか。他に言うべきことが、伝えたいことがあるだろう。ままならぬ己の口が不甲斐ない。
「よろしいのですよ、そのようなこと。陛下が健やかでなくては国は立ち行きません」
ふふふ、と愛らしい口の端が上がる。
その艶やかな唇を凝視していた王は、慌てて視線をそらし、手に持ったままだった焼き菓子の箱を思い出した。
「昨日の茶が効いたようだ。これはジグジアの伝統的な焼き菓子で、今では作れる者もいなくなり、レシピも失われつつあるらしい」
途端に王妃の目が輝き、目尻がへにゃっと下がる。
「まぁ! 文献では読んだことがあります。数少ない作り手も皆ご高齢のはず。そのような伝説の焼き菓子をいただいてよろしいのですか?!」
王妃の甘党ぶりは凄まじいものだ。宝飾品や流行の衣装などには欠片も興味がないらしい。
結婚当初、若い女性なら当然喜ぶだろうと用意した贈り物はことごこく撃沈し、悪戦苦闘の末やけっぱちで贈った異国の菓子に手を叩いて喜んでみせた。
その時は、「一緒にいただいてくれませんか?」とお茶の誘いがあったほどだ。
それ以来、王妃への贈り物は必ず甘い菓子と決めている。
「王妃のために用意した物だ」
この笑顔を見るためならば、影の諜報機関を総動員し、たかが老人を探すことぐらい何でもない。
「本当にありがとうございます。本当に嬉しいです。でも……」
輝く笑顔のまま、王妃はこう続けた。
「でも私ひとりで独占してしまうのはもったいないですので、リッツとタキスと大切にいただきますね。きっと二人とも喜びます」
王のほのかな期待は、ガラガラと大きな音を立て、崩れ去った。
泣きたい。
「ぶっ、くくくっ」
思わず吹き出してしまった王妃の侍女は、慌てて無表情を装った。
『夫婦はお互いの私生活に干渉することを禁ずる』
この条項のせいで、王は王妃の私生活に干渉することが出来ない。
リッツ・ハルマンとタキス・バッケンレーとはどういう関係なのだ?!まさか、噂通り愛人などと言うのではあるまいな?!
王妃の華奢な肩を押さえつけ、問いただしたい。しかし、口が裂けてもそんなことは出来ない。
ああ、なぜ俺はこんな条項を契約に入れたのだ!!
こうして、今日も見事な黒星を飾った王は、なぜか必死に笑いをこらえている侍女に見送られ、憔悴した様子で自室へと帰って行ったのだった。
いかんな、また胃の調子が……
伝説の焼き菓子……
おそらく、後継者不足で技が失われて行く
伝統工芸みたいなものかと~……