残るもの
足の裏は、どこにもつかない。
これでいい。
苦しさの中に安堵すら覚える。
お咲は、目を開けているつもりだった。けれど、部屋の隅は暗く、いつも寝起きする長屋の一間が知らない場所のように遠かった。
ついさっきまで、そこで父が息をしていた。薄い夜具から片手を出して、娘が声をかけると指を僅かに動かしていた。だが、その手は、もう動かない。
父の名を呼ぼうとした。喉からは、声とも息ともつかぬ音しか漏れなかった。
ぽーん
足元で音がした。
妙に響く音だった。
どうやら、父の亡骸の横に小さな童女が立っているようだ。十には至っていないだろう。月明かりもないのに、胸に抱えた鞠だけが、濡れたような深紅の色をしていた。先ほどの音は、その鞠の音のようだ。
(綺麗……)
お咲は、その顔を見た覚えがあった。長屋の井戸端だったか、朝の往来だったか。いつか目にした気がする。
「……恨み、晴らしてやろうか?」
童女の口調は、静かだった。幼さにそぐわぬ響き。儚い響き。
お咲の目から、自然と涙が零れ落ちる。その言葉に必死で頷こうとしたが、足先が小さく揺れるばかりだった。
恨む相手の顔なら、ひとつではない。笑顔で杯を差し出した内田屋甚八。痛いほど肩を押さえつけた権蔵。脚を縛り上げた二人の男。そして、お天道様を真面に拝めないようにした男。
あいつらは、明日も飯を食う。酒を飲み、笑い、知らぬ顔で人の家の戸を叩く。
父は、もう二度と、声を出さないのに。
「……あい、つ……ら……」
言い終えることはできなかった。それでも、その童女を見つめた。
「あい、わかったよ」
この世で聞く最後の言葉。
お咲の視界が閉じていく。最期に見えたのは、その娘の背後に立つ深編笠の浪人だった。薄暗い部屋の中で、刀の柄だけが鈍く光っていた。
「……行こ」
童女の声だけが残る。
二人の足音は、無かった。
*
お咲が大野屋へ通っていたころ、朝は家の前の井戸の水を汲むことから始まった。
夏が近づくにつれて、長屋の井戸端は、夜明け前から賑やかになる。洗い物を抱えた女たちが場所を譲り合い、どこかの赤子が泣く。誰かが欠伸をすれば、別の誰かがつられていた。
その日の朝は、いつもより多く水を汲んだ。
父の仁平は、昨日の夕方から少し熱が下がっていた。濡らした手拭いを何度も替えるほどではなくなったから、余った水で手足を拭いてやれる。
「お父っつぁん。今日は、いい天気になりそうだよ」
仁平は目を開け、お咲を見た。
病に伏して四年になる。働き盛りには威勢のよかった男も、今では身体を起こすことさえ難しい。話そうとすれば、喉の奥で音が絡まり、娘にしか何を言っているのか分からなかった。
「まだ欲しいの? じゃあ、もうひと口」
椀を傾けると、重湯が少しばかり仁平の口の端を伝った。
「あら。お父っつぁん、子供みたい」
手拭いで拭うと、仁平の目尻に細かな皺が寄った。笑ったのだと、お咲は思った。
母が死んでから、二人で暮らしてきた。仁平が倒れるまでは、お咲の方の世話を焼かれたものだった。雨の日には濡れた足袋を火のそばへ寄せてくれた。冬には、自分の飯から一口娘の椀に足してくれていた。
だから、いま自分がすることは特別なことではない。そう、お咲は思っている。
薬代がかさみ、僅かばかりの蓄えは尽きた。縁談を勧めに来た差配も、いつしか、ぱったりと来なくなった。それでも、父が朝に目を開けてさえくれれば、その日も働こうと思えた。
「店から帰ったら、また拭いてあげるからね」
父の枕元に隣人頼みの水を置き、戸口で振り返ると、仁平が指を動かした。
いつもどおりの朝だった。
呉服問屋の大野屋では、お咲は通いの下女として働いていた。奉公を始めて六年、初めは掃き掃除と水仕事ばかりだったが、最近では反物の出し入れも任される。店の者が忙しいときには、得意先へ届ける包みの紐を結ぶこともあった。
この店を失えば、父に薬を買うことはできない。
お咲は、この奉公にしがみついていた。
そんな昼過ぎ、番頭が勢い込んで土蔵までお咲を呼びに来た。
「お前、内田屋から金を借りたのか?」
反物を抱えたまま、お咲は動けなくなった。
「……はい」
番頭が頭を抱えた。
「表に男が三人ほど立っている。客の前で騒がれてはかなわんから、帰ってもらうように話をつけてきなさい」
反物を置いて急いでいくと、店先には権蔵がいた。左右に男を従え、反物を広げていた客の顔を次々に覗き込んでいる。
「お咲。しっかり働いてるか?」
「あの……お話は外で」
「外じゃ聞こえねえだろ。お前が借りた銭の話をしに来たんだ。隠すこたぁねえ」
権蔵は、店の中へ声を響かせた。
「返せねえなら、誰かに立て替えてもらいな。それとも、この店じゃ働き者の下女ひとり救ってやれねえのかね」
お咲は頭を下げた。
番頭も他の店の者も、お咲から目を逸らしていた。
「もう少しだけ、お待ちください」
「もう少しってのは、あと何日だ」
答えられなかった。
権蔵は、鼻を鳴らし「今日は顔を見に来ただけだ」と言って引き揚げていった。
日暮れ時、出先から戻った主人の喜兵衛に呼ばれる。
胃の腑がきりりと痛むなか、借金の始まりを話した。父の薬代が足りなくなったこと。最初の借り入れは少額だったこと。返すためにさらに借り、利息が膨らんだこと。
喜兵衛は、腕組みで庭の青桐を見ながら聞いていた。
「お前が父親を大事にしているのは知っているよ」
「……はい」
「だが、うちは商いだ。ああいう者が来るようでは、お前に暇を出すことを考えなければならない」
お咲は、畳に額を擦りつけた。
「どうか、それだけは……」
喜兵衛は、しばらく口を開かなかった。
「よりによって、内田屋とはね……」
その名を口にした主人の声が、お咲の耳に深く残る。
内田屋は照降町の酒屋だった。先代の頃は、商人仲間へ金を融通する程度だったが、甚八の代になってからというもの、貸金の方が幅を利かせていると聞く。
お咲が内田屋から借りたのは、ほかの金貸しが返せなければ身柄を取り上げるという条件を示したからだった。そんななか、内田屋の証文には、それをしないと書いてあった。初めて訪ねたとき、甚八は愛想よく茶まで勧めてくれていた。
この方なら、と思った。
そう思った自分が間違っていたのだろうか。
*
仕事を終えて長屋へ戻ると、戸口の前には、権蔵と見慣れた手下二人が立っていた。
家々からは気配がするものの、静まり返っている。
お咲は、挨拶もそこそこに家へ入る。下卑た笑い声が背中に張り付いて首元が冷たくなる。
「おや、お帰り」
見れば、仁平の枕元に甚八が座っていた。
膝の上で指を組み、まるで親しい見舞客のような顔をしている。
「お父っつぁんの具合は、悪くなさそうだね」
お咲は、すぐさま土間に膝をついた。
「お金のことでしたら、どうか、もう少しだけ」
「いやいや。金はしばらくよろしいよ」
甚八は、手招きする。
「その代わり、どうだろう。明晩、酒の相手をしてもらえないかね」
「……ですが、父の世話が」
「そのお父っつぁんも、今日は顔色がいいじゃないか」
甚八は、仁平に視線をやった。
仁平が何か言おうとした。喉の奥で、ひどく乾いた音がした。
「権蔵らには、よく言ってあるんだよ。少し仕事が荒っぽいとね」
甚八は、穏やかな口調を崩さない。
「また店へ迷惑をかけちゃあ、気の毒だろう」
お咲は、膝の上で手を握り締めた。爪が掌に食い込んだ。
断れば、あの男達は、また大野屋に来る。店を追われれば、薬は買えない。父の笑い皺を見られなくなるかもしれない。
一晩だけ辛抱すれば、しばらくは借金の返済を待ってもらえる。店にも、迷惑をかけずに済むかもしれない。
「……承知いたしました」
返事を聞いた甚八は、満足げに頷いた。
「では、明日な」
帰り際、甚八の厚い手がお咲の肩に置かれた。ほんの一瞬だったが、その重みは甚八が去っても消えてはくれなかった。
その夜、父に重湯を飲ませながら、お咲は何度か口を開きかけた。行きたくない、と素直に言いたかった。だが、言うことはできない。
「明日は、少し遅くなるよ」
仁平は、お咲の顔を見ていた。
「大丈夫。なんも心配することはないんだから……」
溜息を堪えて言った。
*
翌晩。迎えの駕籠は、通りから奥まった茶屋で止まった。
権蔵に促され、店の中へ入り履物を脱ぐと、伏し目がちな女中が二階へ案内する。一段上がるたびに踏み板が軋んで、耳障りな音がした。そうして一間の前に着くと「お着きです」と女中が中へ声をかけて障子を開いた。
「おぉ、待っていたよ。さぁ、こちらへお座り」
部屋の中に座っていた甚八が手招きをする。
「はい……」
酒の相手だけでは済まないかもしれない。それは、お咲にも分かっていた。今夜だけ辛抱すれば、借金の取り立てを待ってもらえる。大野屋にも迷惑をかけずに済む。そう自分に何度も言い聞かせていたが、酒器が二つ置かれ、少し開いた襖の向こうには、布団が敷かれているのが見えると簡単に決意が揺らぐ。
「あの、父が待っておりますので、早めに帰していただけますと……」
「解っている」
お咲は、勧められるまま、厚みのある座布団に膝を揃えて座った。
*
「いい飲みっぷりじゃないか」
差し出された杯を受け取り、酒を飲み干した。
「ありがとうございます……」
酒というのは、こんなにも頭が働かなくなるのか。一杯目でぼんやりとし、二杯目には甚八の言葉が遠くに聞こえ、三杯目からは体を崩さずにいるだけで精一杯だった。
灯明の火が二つ、いや三つに見えた。
「お父っつぁんが……」
そう言いかけて、お咲の上半身は畳に崩れ落ちた――
その後のことは、途切れ途切れにしか思い出せなかった。
知らない男の声。道具箱の留め金の音。誰かが自分の腕と足を持ち上げる気配。皮膚に走る熱さ。喉が乾いて、水を欲しがったこと。
目を開けたと思うと、また意識が遠退いていった。
「んん……」
やがて正気に戻ったとき、昼なのか夜なのかさえ分からなかった。お咲は布団に寝かされていたのだが、それは襖の隙間から見えた、あの布団だった。
身体が痛む。
ことに、顔が……熱を持って脈打つ。
「目が覚めたかい」
甚八は壁に凭れ、酒を飲んでいた。
「ずいぶん寝ていたね。まる一日だ」
まる一日。
父は、どうしているだろう。長屋の誰かが水を飲ませてくれただろうか。下の世話まで面倒をかけるわけにはいかない。急いで家路に着かなければと身体を起こす。顔の痛みが強くなる。ほとんど酒を飲んだことのないお咲は、自分には合わないのだと思った。昨夜、何をされたのだろう。自然と半衿に手が伸びた。
「……お役に立てず、申し訳ございません」
お咲は痛む身体を起こし、布団の端に膝を揃えて額を下げた。
「そんなことはないよ。それにしても、よく似合うじゃないか」
「……え?」
うっとりとした眼で甚八は言った。
「お前に貸した金だが、もう払わんでいいよ」
「……本当でございますか?」
「ああ、本当だ」
お咲の胸が躍る。
借金が消えれば、明日も父の薬が買える。昨夜、何をされたのかは分からない。顔も身体も痛んでいる。それでも、また父と暮らしていける。熱いものが込み上げる。
「ありがとうございます。あの、お暇してもよろしいでしょうか?」
「ああ。だが、その前に自分でも見ておくといい」
そう言って、甚八が手鏡を放り寄越した。
「……え?」
お咲は、顔に手を当てた。
目尻から頬へ、黒い筋が幾重にも走っている。
まるで、芝居で描かれる隈のようだった。肌は赤く腫れあがり熱を持っていた。
映っているものを擦り落とそうと指の腹を動かす。
取れない。
強く擦った。
それでも、取れない。
「これは……」
化粧ではない。肌に刻み込まれた墨だった。
「どういうことで、ございますか……?」
鏡を持つお咲の手が震える。
「どうもこうも、貸した金が、それになったというだけさ」
「そんな……」
明日も大野屋で働く。店先に立つ自分を想像した。
反物を買いに来た客が振り向く。
番頭が血相を変える。主人の喜兵衛から暇を出される。
そう考えた途端、頭が真っ白になった。
「……どうして」
「どうして?」
「どうして、こんなことをなさったんです……」
甚八は、不思議そうに首を傾げた。
「何を言ってるんだ?せっかく綺麗にしてやったのに」
お咲は、返す言葉を失った。
甚八は杯を手に取り、酒を口へ運ぶ。
「心配することはないよ。働くところがなくなっても、店で使ってやる」
言い終えると、甚八は満足そうに頷いた。
「……」
お咲は、その言葉の意味を理解した。
借金は返さなくていいと、甚八は言った。だが、証文を返すと言ったわけではない。この男が本当に許すのだろうか。権蔵を使い、大野屋まで押しかけたり、父の枕元に座っているような男だ。甚八は、自分を手放すつもりなど毛頭ないはずだ。
その答えに辿り着くと、お咲は、血の気が引いていくのを感じた。
「どうか、どうかお許しを……」
はらはらと涙を流しながら、三つ指をついて懇願する。
そのとき、廊下から笑い声がしてきた。
権蔵たちが部屋へ入ってくる。
その後、彼らが何をしたのか、お咲は後になっても順序を思い出せなかった。ただ、手首や肩、足を掴まれて逃げられなかったこと、戸の向こうで誰かが素通りしたことだけは覚えていた。
*
夜の町を、お咲は裸足で歩いていた。
頭から手拭いを被っても、顔に刻まれた墨は隠しきれない。月のものとは違う下腹部の痛みにも悔しさが込み上がる。
彷徨うように川端まで来ると、お咲は膝を折って水面に映る月を眺めた。
揺れている。
このまま、吸い寄せられるように飛び込んでしまえば、甚八に人生を縛られることも、この顔で人前に立つ必要もない。それに、遅れて気づいた女としての幸せも夢見ずに済む。
父は、どうしているだろう。
水を欲しがってはいないか。寝返りも打てず、娘が帰るのを待っているのではないか。
涙が溢れてくる。
お咲は、立ち上がった。
帰らなくてはならない。
まだ、帰らなくてはいけない。
*
長屋へ戻ると、部屋は暗かった。
父の傍へ這うように寄り、その顔を見つめた。
「お父っつぁん、ただいま……ただいま」
仁平は息をしていた。
お咲の膝から力が抜けていく。
「ごめんね。遅くなって」
お咲は水を汲み、少しずつ父の口へ含ませた。仁平は何度か喉を動かし、夜具から手を出そうとする。
「大丈夫。ちょっと、転んだだけだから」
父が信じたかどうかは分からない。夜具を直し、濡らした手拭いで父の額を拭いた。熱がまた少し上がっていた。
「明日は、もっと早く帰ってくるからね」
言ってしまってから、お咲は唇を噛んだ。そうして、枕元に座ったまま、お咲は夜が明けるのを待った。
*
朝になっても、顔の腫れは引かない。
お咲は手拭いを深く被り、大野屋へ向かった。
身体が痛む。息も詰まる。それでも、休むわけにはいかない。店先へ出られなくても構わない。土蔵の中で反物を運ぶ仕事だけでもいい。掃き掃除でも、水仕事でも、何でもする。六年も働いた店なのだから、きっと分かってもらえるはず。そう思い裏口へ回った。
「……お咲か」
「はい」
「どうした、その顔は……」
お咲の顔を見た番頭は、最初、誰か分からなかったようだった。お咲は手拭いの端を握ったまま、頭を下げた。
「お願いでございます。どうか、これまで通り働かせてくださいまし」
「取れないのかい?」
「……はい」
「内田屋か?」
お咲は頷いた。
「店先には出ません。土蔵でも、台所でも構いません。どうか、これまでどおり」
「……少し、待っていなさい」
番頭は、奥へ入っていった。
お咲は、裏口の土間に立ち尽くす。店の中から、反物を広げる音が聞こえてきた。誰かがそろばんを弾いている。帳場では、若い者が主人に叱れていた。
しばらくして、喜兵衛がやってきた。その顔を見ると、眉を寄せて長い息を吐いた。
「お前には気の毒なことだと思う。だがな……」
「お願いでございます、働かせてくださいまし。どうしても、お金が要るんです」
お咲は目一杯に頭を下げて続ける。
「店先には出ません。お客には、顔を見せませんから」
続きの言葉を聞く前に、指先が冷たくなっていく。
喜兵衛は、お咲を見据えて言った。
「それだけではない」
声を落とす。
「内田屋の者が、また来るだろう。何があったのかと、客にも聞かれる。店の者たちも、落ち着いて仕事ができん」
「でも、私は……」
「お前が悪いと言っているんじゃない」
喜兵衛は首を振った。
「だが、もう置いてやることはできない」
お咲は、何か言わなければと思った。
六年間、休まず働いてきたこと。父がまだ生きていること。銭さえあれば、薬を買えること。けれど、どれも主人は知っていた。知っていて、その返事だった。番頭が奥から小さな包みを持ってきた。喜兵衛は、それをお咲に渡した。
「これで、しばらくは凌げるだろう」
包みの中には、幾らかの銭が入っているようだった。お咲は受け取ろうとして、手を止めた。働いて受け取る銭ではない。それでも、断れば父の薬が買えなくなる。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げた。店を出るとき、番頭が声を掛けてきた。
「身体を大事にな」
お咲は振り返らなかった。裏口の戸が閉まる音がした。六年間、何度も開け閉めしてきた戸だった。
*
帰り道、お咲は包みを握り締めていた。
薬を買おうと思った。まず、それを買わなくてはならない。けれど、この銭を使い切ったら、どうするのだろう。
別の奉公先を探さなければ。顔を隠して、洗い物だけでもさせてくれるところはないだろうか。だが、使ってもらえたとしても、喜兵衛の言う通り内田屋の者が来ないとは限らない。借金はなくなったと告げても、権蔵たちが素直に引き下がるとは思えない。甚八の声が蘇る。
――働くところがなくなっても、店で使ってやる。
お咲は立ち止まった。
これまでも苦しいことはあった。父が倒れた日。初めて借金を申し込んだ日。返すはずの金が足りず、内田屋へ頭を下げた日々。
そのたびに、どうにかしてきた。
昨日より早く起きた。仕事を多く引き受けた。自分の飯を減らした。それでも足りなければ、また何かを考えた。考えて、働いて、明日を迎えてきた。
それなのに、これからは。
どれほど働いても、あの男に見つかれば連れ戻されるだろう。
どれほど頭を下げても、自分の顔は元には戻らないだろう。
どれほど拒んでも、権蔵たちから乱暴されるだろう。
どこへ逃げても、あの男の言葉がついてくるだろう。
お咲は、包みを懐へしまった。
薬屋の前まで来たが、暖簾をくぐることができなかった。薬を買えば、少しだけ父は楽になるはず。明日も、その次の日も、細くても息をしていてくれるはず。
では、その次は。
お咲は、立ち尽くした。
道の向こうでは、若い女が二人、笑いながら歩いていた。片方がもう一人の袖を引き、何か囁いている。
お咲は目を伏せた。
自分も、ついこの間までは、ああして笑うことがあった。
それが、なぜ、こんなにも遠いことになってしまったのだろう。
*
長屋へ戻るころには、日が暮れかけていた。
「お父っつぁん。ただいま」
いつもどおりに言えたと思った。お咲は手を洗い、父の枕元に座った。
仁平は目を開けている。娘の顔を見ようとして、僅かに首を動かした。
「今日はね、少し早く帰れたんだよ」
そう言って笑おうとした。口元が上手く動かない。父の手を取り、掌をさすった。
「お父っつぁん。覚えてる? 私が小さいころ、熱を出したことがあったでしょう」
仁平の指が動いた。
「あのとき、お父っつぁん、仕事を休んでずっとそばにいてくれたね」
父は娘を見ている。
「私、何度も水を欲しがって。お父っつぁん、何度も汲みに行ってくれた」
お咲は笑った。
「今度は私の番だと思ったのにね」
指先に力が入った。仁平が何か言った。
いつものお咲なら、分かったかもしれない。けれど、そのときは聞き取れなかった。
もう一度、と頼もうとして、やめた。
父が何を言おうとしたのか、聞くのが怖かった。病に伏した四年の間、お咲は父が死んでしまうことを何より恐れてきた。
けれど、今は。
明日も父が目を覚ますことを考えると、胸が苦しくなった。薬は、いる。食べるものもいる。清潔な手拭いも、冬になれば、火を焚く炭もいる。そのすべてを、自分が用意しなければならない。今までは、それが嫌だと思ったことなどなかった。今も、嫌なわけではない。
ただ、もう、どうすればいいのか分からなかった。
お咲は父の手を握ったまま、長い間、黙っていた。いつしか外の物音が絶え、行灯の火が小さくなっていた。
「お父っつぁん」
仁平が目を動かした。
「もう、苦しまなくていいところへ行こうか」
父の指が、かすかに動く。
「向こうには、おっ母さんもいるよ」
仁平が喉を鳴らした。肯いたのか、否んだのか、お咲には分からなかった。
分からないまま、お咲は父の顔を見つめた。
父を置いて自分だけいなくなれば、この人はどうなるのだろう。
水を欲しがっても、誰が汲んでくれるのだろう。
熱が出たら、誰が額を拭いてくれるのだろう。
甚八の元へ戻れば、父を養い続けられるかもしれない。
そう考えた瞬間、茶屋での光景が蘇った。
お咲は身を縮めた。また、あそこへ行くのか。明日も、その次も。
お咲は父の手を握り締めて言った。
「ごめんね」
仁平の目は変わらず娘を見ていた。
父の手を離す。
その枯れ枝のような喉に両の手を当てた。そのとき、仁平の目尻に細かな皺が寄った。お咲は、笑ってくれたのだと思った。
「お父っつぁん、ありがとう……」
娘の手に力がこもる。
「ごめんね。ごめんね……」
あのころ大きかった父が小さく痙攣を起こす。
お咲は目を逸らすまいとした。けれど、とうとう見ていられなくなり、目を閉じた。
目を閉じたまま、更に力を込めていった。ひたすら謝り、その手を緩めなかった。
そうして、再び目を開けたとき、仁平はぴくりとも動かなかった。
お咲には、その顔が不思議なほど穏やかに見えた。
「あたしも、すぐ逝くからね」
父の手を夜具の上へ戻し、髪を撫でた。
これで、薬代の心配をしなくていい。
明日の飯を、どうするか考えなくていい。
それだけを思おうとした。
けれど、そんなことよりも、父がもう二度と指先すら動かさなくなったことが、悲しくて仕方なかった。
自分が、そうしたのだ。
お咲は、父の手をもう一度握った。
まだ、温かい。
お咲は天井の梁を見上げた。
*
数日後、甚八は同じ茶屋で酒を飲んでいた。
座敷には、権蔵と、お咲に彫物を施した男がいた。障子の外には、権蔵の手下二人が控えている。彫師は、甚八から受け取った銭の包みを「確かに」と言って懐へしまった。
「まったく、惜しいことをしたね」
甚八が杯を置く。
「あれほど美しく仕上げたというのに、死んじまうとは」
「噂じゃあ、親父まで道連れにしたそうですぜ」
権蔵は手酌で言った。
「働くところがなければ、こっちへ来ると思ったんだがね」
甚八は、杯の縁を指でなぞる。
「それより、次の件ですがね」
「ああ、どうなった?」
「とうとう、返しが滞ったようで」
「それは難儀なことだね。まずは、話を聞いておいで」
「へい」
甚八は、彫師へ顔を向ける。
「今度は、少し趣向を変えたいんだがね」
甚八は、自分の頬を指でなぞりながら、思いつくままに話し始めた。彫師は紙を広げて、ときどき相槌を打ちながら黙々と書き留めていく。そうして、ひとしきり話し終えると、甚八は権蔵へ話を振る。
「ところで、沼田様への利は済んでいるかい?」
「へい、抜かりなく」
「あのお方のご機嫌を損ねるわけにはいかないからね」
「そういや……」
権蔵が何か言いかけたとき、灯明が細く揺れた。
窓の障子は開けてあったが、風はない。
「油が切れそうだ。足してもらえ」
甚八が言うと、軽く頭を下げて権蔵は立ち上がった。
ぽーん
ぽーん
ぽーん
どこからともなく、音が聞こえてきた。
背筋が、ぞくりとするような奇怪な響き。
どうやら、鞠の音のようだった。
鳥肌が立つ。
権蔵は、思わず辺りを見回した。
すると、座敷の隅に童女の姿があった。
深紅の鞠を胸に抱えて、こちらを見ている。
「……お前ぇ、どっから入った」
童女は答えない。
「店の者か。早く出て行け」
甚八が手を振った。
童女の目が、三人の顔をゆっくりと辿り、次いで廊下で何かが倒れる音がした。権蔵が障子を開けると、手下のひとりが廊下に倒れていた。もうひとりは、柱にもたれて首を垂らしている。
「おい、どうした?」
返事がない。倒れた男は、目を見開き歯を食いしばったまま顔を歪めている。権蔵は、柱にもたれた男の肩を揺すった。ぐにゃりと身体が傾き、そのまま崩れ落ちた。
「何だ、こりゃ……」
同じような苦悶の表情。二人とも息をしていない。権蔵が振り返ると、童女の背後に深編笠を被った男が立っていた。
浪人のようだ。みすぼらしい身なり。
つい先ほどまで、そこには童女しかいなかった。誰かが座敷へ入れば、気づかないはずがない。だが、その男の足音ひとつ聞いてはいない。
深く被った編笠の下は暗く、顔も見えない。
「……誰だ、てめえ」
彫師が腰を浮かせ、そのまま後ずさる。甚八も杯を置き、座ったまま身を引いた。
「……」
権蔵が声をかけても、男は答えなかった。廊下に倒れた二人を思い出す。傷ひとつなかった。ただ、苦しみに顔を歪めて死んでいた。無関係とは思えない。背筋に冷たいものが網羅するように這い上がってくる。
そうして権蔵の生つばを飲み込む音と同時に、浪人の手が刀の柄にゆっくりと伸びた。鞘走りの音すらなく、抜かれた刀には白刃が見えず、暗い紅紫の光だけが揺れていた。
彫師が小さな悲鳴を上げながら後ずさる。
刹那、滑るように踏み込み浪人は下から上へ切り上げた。
陽炎のように、暗い紅紫の光が煌めいた。
彫師は胸を押さえて倒れた。着物に裂け目はなく、血も出ていない。にもかかわらず、喉の奥から潰れたような呻き声が漏れた。
その体を弓なりに反らせ、彫師は目を剥く。
畳を掻く指が震え、何度も息を吸おうと口を開いていたが、苦しげな音が漏れるばかりだった。
「ひ、人殺し!?」
指先が動かなくなったのを見た甚八が声を上擦らせた。
権蔵が短刀を抜き、敷居を越えて浪人へ突きかかる。
「くたばりやがれ!」
胸を狙った刃が届く寸前、わずかに浪人は身を躱した。短刀は空を突き、権蔵の身体が前へ流れる。
「……っ!」
浪人は、その脇腹めがけて横一文字に刀を振う。暗い紅紫の光が走り揺らめく。
権蔵は、振り向きざまに短刀を振り上げようとした。だが、腕が動かない。体が僅かに痙攣を起こす。
「うぐっ!?……」
短刀が手から滑り落ちた。権蔵は胸を押さえる。切られた痕はない。それなのに、身体の奥を何かが焼いているようだった。
「ぐあっ……!」
苦痛のあまり膝から崩れ落ちる。
権蔵は畳に両手をつき、激しく身を震わせた。目を見開き、歯を剥き出して呻く。
逃れようと這い出したが、力が入らない。
「た、助け……」
言葉にならなかった。やがて身体が大きく痙攣し、そのまま動かなくなる。
甚八は、立ち上がろうとして尻餅をついた。
「銭か? 銭だろう!? 銭が欲しいんだろう?!」
浪人は、ゆっくりと甚八に歩み寄った。
「ま、待ってくれ……」
甚八は畳を幾重にも這う。
「妻と娘がいるんだ。娘は、もうじき嫁に行く。わしが死んだら――」
ふと、浪人の足が止まった。
いつの間の間にか、甚八の目の前に童女がいた。
「ひっ!?」
童女は身を屈め、甚八の顔をじっと覗き込んでいる。
「頼む。助けておくれ……」
童女は、鞠を抱き直した。小さな指が、紅い糸に埋もれる。
「……おとっつぁん」
童女の言葉に浪人が躊躇いなく刀を振り下ろした。
甚八は直後に大きく痙攣し、悶え、のたうち回った。そうして、この世の苦を一身に背負ったとでもいうべき亡骸だけが残った。
「……」
童女の姿は消え、刀の紅紫の光だけが、残像のように暫く残っていた。
*
「五人とも、外傷は見当たりやせん」
岡っ引きの孫八が言った。
曲がった背中が年季を感じさせる。先代の頃から務めてきた孫八も、この場の異様さには眉を顰めていた。
「ふん……」
町廻同心の片岡源三郎は、茶屋の二階でしゃがみ込み、甚八の死体を見ていた。
この役職に就いてから、それなりに月日は経つが、孫八から見ればひよっ子だろう。なにせ、おしめが取れる以前から世話になっている。
権蔵と彫師、それに二階の廊下で見つかった二人。いずれも苦悶の表情を浮かべていた。
「毒でしょうかね」
酒の匂い。倒れた杯。廊下の向こうで震えている茶屋の女。畳には、刀傷ひとつない。
片岡は、もう一度甚八の死体を見た。
「さあな」
おもむろに甚八の手を取り、爪の先に畳のい草が挟まっているのを眺める。
「医者には、見せたのか」
「これからで」
「じゃあ、先に見立てを聞こう」
立ち上がり、片岡は再び座敷を見渡した。
何かが、記憶の隅に引っ掛かっている。直接見たわけではない。
だが……
「旦那?」
孫八に呼ばれ、片岡は振り返った。
「なんでもない」
そう言って階段を降りた。
外には、朝の光が満ちていた。通りを行く者たちは、茶屋で死人が出たことなど知らない。豆腐売りが声を張り、童が駆け抜けていく。
片岡は、その光景を何とはなしに見ていた。
*
内田屋には、真っ先に知らせが届いた。
来客用の一間で膝を折って話を聞いていた甚八の妻おりくは、使いの男が言っていることを呆けたように何度か聞き直していた。
「そんな……」
夫が外で何をしているのか、まったく知らぬ訳ではなかった。金を借りに来た者が裏口で長いこと頭を下げているのを見ることがある。権蔵のような男が家に出入りすることもある。なにより、異様な面の女達が、蔵や離れで仕事をしていることが気持ちのいいものではなかった。
おりくは、女達をどうにかして欲しいと甚八に頼んだことがあった。けれど「可哀想じゃないか」という一言で口を噤まされていた。
夫は何に巻き込まれたのだろう。あるいは、なにを仕出かしたのだろう。収めようのない胸中に全身の力が抜けていく。
「おっ母さん」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、娘のいとが奥からやってきた。
手には、仕立てかけの着物を持っていた。嫁ぎ先で着るために、母と二人で少しずつ針を進めてきたものだった。
「どうかしたの?」
おりくは、答えられなかった。
「おっ母さん?」
いとは、着物を畳の上に置き、母の膝へ手を伸ばした。すぐさま、その手を母は握った。その強さから、父の身に何かあったのだと娘は悟った。
庭の隅には、まだ咲ききらぬ朝顔があった。
ふと、いとは庭に目をやった。
見れば、小さな童女が露を含んだ朝顔の横に立っていた。
「……」
どこから入ったのだろう。この状況には、まるで似つかわしくないことを考えるものだと眼にしていた。いとは、薄藍と見比べるように、童女を眺めた。
童女は、じっと、こちらを見ている。
母が娘にすがり、娘が母の肩を抱く姿を、ただじっと見ている。
いとは、自身と同じように、深紅の鞠を抱いた手に力が込められたように思った。




