不安を抱える心
『もう一度やり直してほしい』
クライブにそう言われた日、私は彼に少し考えたいと伝えた。
やり直すなんて。
彼との縁は繋がっていないものだと思っていたから。
それが突然、立ち込めた霧が海からの風にかき消されるように、彼とのこれからの時間が目の前に広がって……。
だからたじろいでしまっても仕方ないと思うの。
『いつまでも待つよ。ただ、この街にいることと、キミに会いにツバメ亭へ通うのは許してほしいんだ』
クライブはその発言どおり、ランチを食べに毎日ツバメ亭へと訪れた。
私はあくまでも給仕としてクライブと接し、彼もまた客として適切な対応をしてくれた。
そんな私たちを、店主夫妻も常連客たちも黙って見守ってくれている。
それがありがたくて。本当にありがたくて。
みんなの気持ちを無下にしないようきちんと考えて結論を出そうと、私は思ったの。
クライブは店の料理を食べた後、決まってキャロットケーキも注文する。
スパイスや混ぜ込む具材を替えているけれど、彼は毎日必ず私が作ったキャロットケーキを注文した。
その様子を見た女将さんがぽつりとつぶやく。
『本当に好きなんだねぇ』
キャロットケーキの美味しさを教えた者としては感慨深いものがある。
私がしみじみ『ええ本当に……』と答えると、女将さんは口の端をあげた。
『好きなのはキャロットケーキじゃなくて、あんたのことさ』
『え?』
私が目を丸くして女将さんを見ると、彼女は『若いっていいわねぇ~』と言いながら厨房へと入って行った。
『……好きって……』
ひとり言ちて店内のクライブへと視線を向ける。
黙々とケーキを食べる彼だけど、その表情がいつもより少しだけ柔らかいことに気づく。
胸が苦しい。
蓋をして、王都に置き去りにしたはずの彼への想いは、まだ確かに自分の中にあると思い知らされた。
いつもランチを食べ終わると、ここの領主の私設騎士団の駐屯所で鍛錬や演習に参加させてもらっているとクライブは言っていた。
この地方は元は王領で、数十年前に臣籍に降りた王族が公爵位と共にこの地方を拝領したのだそう。
ここセントクレアもその公爵閣下の領地であり、地の利を活かした砦を擁している。
その砦を拠点とした私設騎士団の宿舎に、クライブは身を寄せているとの事だった。
『ごちそうさま。今日も美味かったよ』
クライブは支払いを済ませ、いつもそう言い残し駐屯所へ戻っていく。
私はただ、
『ありがとうございました』としか言えなくて。
複雑な気持ちで彼の背中を見送った。
仕事が終わり、託児所に預けているフィンリーを迎えにいって帰宅する。
食事も入浴も済ませ、就寝までのひとときにぼんやりとこれからのことを考えた。
どうしたらいいのか。
気持ちの上では、私自身も彼を求めている。
クライブが好き。
本当は今すぐにでも彼の胸に飛び込みたい。
そしてずっとずっと一緒にいたい。
だけど……。
(怖い……もしまた傷つくようなことがあったら……)
クライブが悪戯に人を傷つけるような人間ではないとわかっている。
彼の為人を知っていてもなお、かつて傷ついた私の心が怯え竦んでしまう。
彼も……全てを捨ててきたと言っていた。
何者でもない、ただのクライブとして会いにきたと言っていた。
もう何者にも阿ることはないし、何も偽る必要はない。
だから傷つけられることもないはずだと、頭ではわかっているのだけれど心が躊躇してしまう。
それはきっと……私が母親になったから。
今の私が一番に考えるべきはフィンリーのこと。
母親である私が心に不安を抱えながら生きて、その不安定な精神状態がいつかフィンリーに何かしらの影響を与えないかが心配だった。
もし再び傷つくようなことが起きて、身も心もボロボロになってしまったら……。
そんな姿を、母親としてフィンリーにだけは見せたくない。
セントクレアの海のように大きく穏やかで、セントクレアの太陽のように眩しくそして温かく息子の成長を見守る母でありたい。
それが私の、母親になった私の矜恃だったから。
「はぁ……すでにうだうだと悩んでいる時点で、ダメダメよね……」
ため息をつき、思わず口をついて出たひとり言に、苦い気持ちになる。
そのとき、積み木で遊んでいたフィンリーが私に向かって言った。
『ねぇまま。ぼくのおめめ、いっちょ?』
『え……?お目目がどうしたの?誰と一緒なの?』
『たむくんままいってた。ぼくのおめめ、えーゆーといっちょって』
『……!』
タム君とは預けている託児所のお友達で、フィンリーと同じくもうすぐ三歳になる青果店の息子さんのこと。
(いつもお迎えはタム君のお母さんが来ているのだけど、そのときにフィンリーにそれを言ったのかしら……新聞で見たクライブの容姿とフィンリーが似ていることから勘ぐられても仕方ないとはいえ、それを幼い子どもに直接言うなんて……)
だけど、それは私の都合だわ、とすぐに思い直した。
人は疑念を抱き、それを口にする。
人の口に戸は立てられないのだから。
“父無し子のフィンリー・ライトの瞳は、救国の英雄の瞳と同じ。よもや英雄の隠し子か”
クライブの特徴的なヘテロクロミアを受け継ぐフィンリーが、そう言われ続けるのは間違いない。
今は意味が理解できないフィンリーだけど、いずれそれにより自分の出自に悩むようになるのだろう。
それを考え嘆いてもどうしようもないと、これまでは諦めていた。
クライブとは住む世界が違うのだから、私たち親子は彼の預かり知らぬところで生きていかねばならないと、そう思っていた。
(だけど……状況は変わった……。そうよ、変わったんだわ……)
傷つくのは怖い。
だけどそれ以上に、フィンリーを傷つけられることのほうが怖い。
どうやったら息子を守れるか。
そう考えれば、答えは明らかだった。
だけどそれをどう彼に伝えるか。
(拒絶されることはないと思うけど……)
驚くのは間違いないと思う。
今の今まで黙っていたことに不信感を抱かれるかもしれないという、新たな不安が頭の中を過ぎる。
自分はこんなにも臆病だったのかと、思わず大きなため息が漏れ出た。
怪しいわ…もしかして…( ㅎ.ㅎ)←タムママ




