プロローグ
氷雨そら先生主催、
シークレットベビー企画参加作品です。
そこに最初から愛なんてなかった。
いえ、愛はあった、
ただし私のほうにだけ。
出会って、恋をして、全てを捧げてもいいと思えるほど夢中になって。
まだ青かった私は人を愛することを知り、
そして人は裏切るのだということを知った。
◇◇◇◇
「いらっしゃいませ……あら、本当に来たの?」
「もちろん来ますよ!ミルチアさんの物語を聞かずして、ハイラントには戻れません……!迷惑にならないようにランチの混雑時は避けて来店しましたから、ぜひともお話を……!」
ここは港町セントクレア。
国王のお膝元である王都から遠く離れた、風光明媚といえば聞こえはいいが要は鄙びた田舎の漁師町だ。
そのセントクレアの漁港近くで、古くから営業している食堂ツバメ亭。
獲れたての魚介類や地元の野菜を使った、新鮮で美味しい料理をリーズナブルな価格で食べられることから街の住人はもちろんのこと、漁師や近くに駐屯する王国騎士団の騎士たちが足繁く利用する大衆食堂である。
「語って聞かせるのはべつに構わないけれど、お店の売り上げに貢献してくれるのが条件よ?」
そう言ってメニュー表を手渡す給仕の女性。
彼女の名はミルチア・ライト。
本人がモミの木色と表現する深緑の瞳とブラウンがかった赤毛を持つ、まだ二十一歳の年若い娘だ。
まぁ若い娘とはいっても、彼女は少々わけありなのだが。
そんなミルチアから手渡されたメニュー表を開きながら、ミルチアより幾分か年若い女性が満面の笑みを浮かべて頷く。
「心得ておりますって!というかここのお料理を食べるのも目的のひとつとして伺いましたもん」
「何を食べよっかな~♪」と声を弾ませてメニューを見る彼女の名はコリーン・フレア。
ハイラント大学の文学科の学生で、将来は恋愛小説家になりたいという夢を抱く十九歳だ。
コリーンは母親の恋愛小説を暇つぶしに読んで以来、各ジャンルの恋愛小説や恋愛系の芝居から他人の恋話に至るまで、とにかく恋愛に関する物語にどハマりした。
そしてそれらの物語に触れるうちにいつしか自分でも書いてみたいと思うようになり、大学では文学科を専攻したのだ。
そして今は、処女作の構想を立てるために題材とするネタを探している最中なのであった。
セントクレアには、ここで祈れば良縁で結ばれると有名な教会があり、数多くの恋人たちが各地より訪れる。
隣国との紛争が鎮静化し平穏な暮らしを取り戻した民たちが、幸せな結婚生活を願い教会へ参じるのだ。
そんな彼ら彼女らから、何かしらの恋話を聞けるのではないかと期待して、コリーンはこの国へとやって来た。
そしてひょんなアクシデントでミルチアと出会い、彼女の容姿から「こんな綺麗なお姉さんなら恋愛経験も豊富なのでは?」と思い、そのひょんなアクシデントの謝礼としてミルチアから恋バナを聞かせて貰うという約束を取り付けたのだった。
コリーンはメニュー表をパタンと閉じ、ミルチアに告げる。
「“漁師風ではなく漁師の倅である店主が作ったブイヤベース”と“店主の愛する奥さんが焼いた香草パン”をお願いします。……というか、この食堂のメニューの名前って、風変わりですよね」
「ふふ。店主が風変わりな人だからメニューの命名も変わってるのよ」
コリーンからメニューを受け取ったミルチアが笑いながらそう言うと、店の奥の厨房から店主が顔を出した。
「誰が変人だってぇ?」
「変人だなんて言ってませんよ。風変わりな人だって言ったんです。マスター、ブイヤベースと香草パンの注文入りました~」
笑いながらミルチアがそう答えると、店主は「ハイヨ~」と言いながら厨房へと引っ込んだ。
「アレは単に若い娘二人に関わりたいだけの面倒くさい親父だね」と、店主夫人である女将さんが屈託のない笑みをミルチアとコリーンへと向ける。
「あはは。マスターも女将さんもミルチアさんも面白いなぁ。皆さんのお人柄も、このツバメ亭が地元の方に愛される理由ですね」
そう言ったコリーンがしみじみと店内を見渡す。
王都の老舗ホテルの厨房で修行したという、女将の祖父が開いた食堂は、古いながらも大切に手入れされたテーブルや椅子が十席ほど並んでいる。
店内の隅にある薪ストーブには、加湿と魔除けのためのハーブを入れたヤカンが置かれ、しゅんしゅんと湯気をたてていた。
なんでもこの土地に古くから伝えられている伝統的な慣習で、海からやって来ては悪さをするという霊を清める意味があるのだとか。
そういったその土地に根付く風習も、物語のスパイスとして取り入れるのも面白いなぁと、コリーンは手帳を取り出して忘れないうちにメモをした。
やがて料理が運ばれてくる。
ランチタイムの掻き入れ時はとうに過ぎ、店内の客はコリーンひとりだ。
今朝上がったばかりだという魚介(海老とムール貝とカサゴ)がふんだんに使われたスープに、それらの香りを引き立たせるハーブが練り込まれたパンをつけて食べると、それはもうたいそう美味であった。
絶品料理に舌鼓を打つコリーンを店主と女将は満足そうに眺めた。
そして二人が夜の仕込みのために厨房へと戻って行くと、店内にはコリーンとミルチアだけが残された。
やがてコリーンが食事を済ませ、ミルチアは二人分の紅茶と彼女が作ったキャロットケーキをテーブルに並べた。
「わぁ……!これがツバメ亭名物のキャロットケーキですね!このキャロットケーキを作っているのはミルチアさんだとお聞きしたんですが、本当ですか?」
コリーンがそう尋ねると、ミルチアは頷きながらテーブルを挟んで彼女の向かいの席に座り、頷いた。
「ええそうよ。私の祖母のレシピなの。それをマスターと女将さんが気に入って、店のメニューのひとつにしちゃったのよ。でもその分お給金が増えたから、とても有り難いの」
「そうなんですね~」
コリーンが感心しながらフォークをケーキに刺す。
しっとりのような、ほろっとするような。すりおろした人参と細かく砕いた胡桃が独特な風合いの生地を作り出している。
口に運ぶと、優しい甘みとスパイスの香りが口内に広がった。
「美味しいっ……!」
目を輝かせるコリーンにミルチアは「ありがとう」と返し、紅茶を口に含む。
そうして喉を潤して、キャロットケーキの説明を始めた。
「今日は基本のシナモンとクローブの他に、カルダモンも入れているの」
「だから甘やかでいて爽やかさも感じる香りなんですね。本当に美味しい!これはお金を取れる美味しさですよ。店のメニューに仲間入りするのも納得です」
「ふふ。ありがとう」
そうして二人でキャロットケーキを食べ、ミルチアがコリーンに言った。
「さて。じゃあ約束の……恋バナだっけ?それを語ればいいのね?」
「ハイそうです!甘いやつをドーンとお願いします!」
「うーん……。ご期待に添えず申し訳ないのだけど、あなたが求める甘さなんてないのよ。どちらかというと重くてビターな話だと思うんだけど、それでも聞きたい?」
「重くてビター……。もちろんです!ミルチアさんさえよければ、思い出すのも辛いというようなお話でなければ、ぜひお聞かせください」
「思い出すのも辛い……ということはないから大丈夫よ。むしろ、そんな時期はとうに過ぎちゃったわ……」
ミルチアがそう答えると、コリーンは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
一体どんな物語を、このミルチアは抱えているのだろう。
そうやって固唾を呑みこんで居住まいを正すコリーンを見遣り、ミルチアは穏やかな笑みを浮かべた。
そしてすぐ隣の窓へと視線を移し、ぼんやりと思案する様子を見せた。
「そうね……どこらから話せばいいのかしら……
。まずは私の出自からのほうがいいのかもね」
「出自……?ミルチアさんの……?」
コリーンのつぶやきを耳にしながら、ミルチアは頭の中の思い出の引き出しをそっと開ける。
「じゃあ……聞いてもらおうかしらね。私の……最初で最後の、恋のお話を……」
やっぱシクベが好きだぁ〜!




