藤色の髪
生まれたときから、僕は“いないことにされた子”だった。母は本家当主の愛人。僕はその子。本家では「厄介者」、分家では「あんな卑しい血筋」と囁かれた。
だから、廊下を歩くとき、僕は足音を消した。息を潜めるうちに、胸の奥で「痛い」も「さみしい」も、音を失った。
母が亡くなっても、本家は葬式を出さなかった。遺骨は仏壇の片隅に、まるで忘れ物のように置かれた。僕は理解した。──やっぱり僕はいらなかったんだ、と。
それでも、小さな体は誰かのぬくもりを探した。冬の冷たい風の中、耳を澄ませると、決まって同じ声が囁く。
──大丈夫。おまえは、まだ終わっていない。
その声だけが、僕の味方だった。
ある日、本家にざわめきが起きた。長い留学から帰った当主の長男、陸斗。藤色の髪を揺らし、玄関に立つその人は、家族とは違う雰囲気をまとっていた。柔らかい風のようで、でも確かな芯があった。
そして僕を見つめ、言った。「奏斗、私の養子にします」
屋敷は騒然となった。怒号、反対、分家の色めき。それでも陸斗は微笑んだまま、一歩も引かず手続きを進めた。
その日、初めて抱き上げられる感覚を知った。「大丈夫ですよ、奏斗。あなたのことは、私が守ります」藤色の髪がふわり揺れ、胸の奥で凍っていた何かが小さく震えた。
養子になった翌日、僕は覚悟していた。本家の子は勉強や作法に追われ、僕も「できなければ捨てられる」と思っていた。
しかし陸斗は言った。「自由に、好きなことをやりなさい」
意味がわからなかった。ゲームや漫画、僕が望んだものまで次々与えられた。「本家では、勉強しなきゃいけないって……」口ごもる僕に、陸斗は頭を撫でながら答えた。「私は次期当主です。だから家族のためではなく、人のためのビジョンを描けます」
僕は息を呑んだ。「一条家を解体する」と彼は穏やかに続けた。「基金も土地も資産も売って寄付する。くだらない血縁のしがらみから解放するんです」
屋敷の仏壇の前で、彼は母の骨箱を見つめた。「新しい墓を作ります。静かで、風の音がよく聞こえる場所に」藤色の髪が祈るように揺れた。胸の奥が熱くなり、理由もなく涙が浮かんだ。
「その後は、好きな場所へ行きましょう。自由に生きるんです」高く掲げられた僕は、初めて軽く、安心に包まれた。「うん!」その瞬間、人生が“始まり”に変わった。
陸斗の行動は嵐を呼んだ。寄付、資産整理、古い儀礼の破棄、血縁主義撤廃。怒る者、泣き叫ぶ者、画策する者。しかし誰も止められなかった。
僕は少しずつ理解した。彼は母と深く結びつき、守れなかった自分を責めていた。だから僕を抱き、守る決意を言葉にしたのだ。
屋敷が解体され、春が来る直前、陸斗は姿を消した。遺書も行き先も告げず、藤色の風だけを残して。
季節がひとつ過ぎ、屋敷は更地になった。石碑だけが残る。“ここに、ひとつの家が終わった”
そのとき、僕のもとに藤色の封筒が届いた。──奏斗君はもう、“壊れた家の子”ではありません。君は君自身のはじまりです。遠くへ行きますが、君が選んだ風には必ず触れられます。君が、君を選び続ける限り。 陸斗
涙で文字が滲んだ。僕はそれを胸に抱き、母を眠らせた静かな場所へ向かった。風が枝を揺らし、藤の香りが漂う。
「僕、生きるよ。僕自身のはじまりとして」
ふわり、風が頬を撫でた。まるで陸斗が「行ってこい」と吹いたみたいに。僕は前へ進む。誰の子でもなく、僕自身として。藤色の風が、そっと背中を押した。




