第3話 狂笑
ソラは、筆〈雲断〉の穂先を、停止した騎士団長の完璧な肉体へと向けた。筆の黒い本体に走る金色の線は、今や血管のように赤く脈打っている。
「ええ肉体しとんやん。ホンマに立派や」
ソラは筆先を騎士団長の首筋から腹筋に沿ってゆっくりと滑らせた。騎士団長は、鍛え抜かれた全身に刻まれた無数の傷跡を、衆目に晒されていた。その傷跡の一つ一つが、彼が信仰する秩序への忠誠と、勇敢な戦いの歴史を物語っているはずだった。
「この傷跡ひとつひとつが、あんたの信念の証なんやろな? 英雄の証明 や」
ソラは筆を止め、古い剣傷に軽く触れた。
「せやけどな、騎士団長さんよ。あんたは今、完璧な秩序を崩壊させられとるんや」
騎士団長の後ろで、「止」の強制力に縛られた聖騎士団の団員たちは、その光景を直視させられていた。彼らの瞳は怒りと憎悪に燃え、全身の筋肉が小刻みに激しく震えるが抵抗は叶わない。団長は彼らにとって秩序と信仰の象徴であり、その肉体を筆で陵辱される行為は、彼ら自身の尊厳を踏みにじられるに等しかった。
ソラは、騎士団員たちの制御不能な怒りを愉しむように一瞥し、騎士団長に続けた。
「見てみい、その鉄壁の理性で鍛え上げたはずの身体が、今は恥辱に火照って、授業の教材になっとんで」
ソラは笑いながら、騎士団に追われていた二人を一瞥した。
「この身体は、団長さんの過去を語る生きた歴史書やで。なぁ自分ら、ちゃんとこの人みたいに身体鍛えるんやで」
ソラの声は陽気な口調だが、言葉に含まれる背徳的な圧力は、騎士団長の精神を深く抉った。
「団長さん、あんたが信じとる『完全な理性』なんて、筆一本で狂わされる程度の張りぼて やんけ。ホンマのあんたは、この身体に宿っとる、抑えつけられへん羞恥心と渇望 やろ? 身体は正直やなあ」
ソラは満足げに筆をくるりと回すと、筆の穂先に再び気を凝集させ、空中に新たな文字を描き出す。
「一筆入魂:笑」
その文字が空間に定着した瞬間、停止していた騎士団長と兵士たちの顔に、尋常ではない変化が起こった。彼らの肉体は「止」に縛られたままだが、表情筋だけが内側から暴力的に引き裂かれるように動き始めた。
「ぐ、あああああああ――ッ ヒッ、ヒヒヒヒ……アハ、アハハハハハ!」
内面の苦痛や恐怖に反比例して、表情だけが狂ったような笑顔を強いられているのだ。ソラは、狂気じみた笑い声を上げる騎士団長を見下ろし、最後に皮肉を付け加えた。
「フフ。その立派な身体で、理性を投げ捨てて笑うあんたの方が、ずっと自由に見えるで、騎士団長さん。 あんたの秩序は、この瞬間に崩れ去ってしもうたな」
◇
ソラは筆をくるりと回すと、硬直していた騎士団の「止」と「笑」を同時に解除した。
直後、騎士団は笑い続けた反動で精神的に完全に無力化され、その場に崩れ落ちた。もはや甲冑を着た精鋭の姿はない。
精神崩壊寸前の騎士団長は、呻きながら残存兵をまとめ、霧の中に撤退していった。彼の信念である秩序は、ソラの背徳的な授業によって、完全に破壊されたのだ。
静寂が戻ると、ソラは大きく伸びをした。
「さて、ほな腹ごしらえやな」
ソラは2人に向かって振り返る。彼らはソラの絶対的な力と、その背徳的な教育方法に混乱と畏怖を隠せないままだ。
「腹が減っては戦はできひん。せやけどな、この街でホンマに旨いもん は、普通のレストランには置いてへんのや。衛兵や政府の役人のせいで、偽物の『美味い』ばっかやからな」
ソラは軽快な足取りで、霧の奥へと歩き出した。
「自分ら、運がええで。今から先生 お気に入りの隠れ家レストラン に連れてってやるわ。まぁ、着くまでが修行になるやろうけどな。ほな行こか」
妖艶な笑みを浮かべるソラは、生徒たちを「美味しい食事」へと誘った。それは、この街の欺瞞と、彼らがこれから学ぶべき「見抜く目」の最初の課題でもあった。




