第1話 霧の港にて
港の霧は深く、冷たく、世界の出口を塞ぐ重い扉のようだった。湿気が肌を刺し、訓練を受けていないFランク(ブロンズ)の少年少女たちの不安を、皮膚の下までねっとりと染み込ませる。
「抵抗をやめろ、クソガキども。聖騎士団の追跡からは逃れられん。我々の秩序に服従せよ!」
指揮官の威圧的な声に、団員たちが魔力を集中させる。指先に揺らめくのは、初級火属性魔法 。Dランク相当の威力 であっても、Fランクの彼らには十分な脅威だった。
恐怖で生徒の一人が、水たまりに尻餅をつく。
その瞬間、張り詰めた静寂を破って、間の抜けた、しかしやけに呑気な声が霧の中から聞こえてきた。
「おやまあ、えらい寒いっちゅーのに、ズボンびちゃびちゃやんけ。こんないたいけな子ども捕まえて何遊んどんや」
生徒たちも騎士団も、一斉に声の主を振り向いた。
そこにいたのは、艶やかな黒髪と小麦色の肌を持つ青年だった。外見は15歳ほどの少年然としているが、簡素な黒の羽織とはだけたシャツから鍛え上げられた肉体が伺える 。
彼の腰には、剣ではなく、黒の本体に金色の線が走る、標準的な20センチほどの筆 が携えられていた。
「何者だ、貴様!直ちに立ち退け!」
「ああ、悪い悪い。通りすがりのもんやけど、ちょっと見てられへんわ。」
ソラは、陽気な関西弁で、生徒たちと騎士団の間をのんびりと歩いた。
「だって、そこの子らがえらい困ってそうやろ? まだブロンズ級の、汚れを知らん素肌やで。そんなガチガチの甲冑で追い詰めて、あんたら、初めてのキスを強引に奪おうとする、盛り倒したガキやん。アツくなっても、嫌がってる相手に手は出したらアカンで。」
騎士団長格の男は、ソラの挑発に激昂した。
「戯言を!排除する!全員、聖光弾準備、放て!」
魔導銃を構えた兵士と、魔力弾を放つ術士が、ソラめがけて一斉に攻撃を開始する。銃弾と魔力弾が、霧を切り裂きながら飛来した。
ソラは一切慌てず、左手に握った筆〈雲断〉を軽く掲げた。筆の黒い本体に走る金色の線が、まるで血管のように、一瞬で赤く光る。
そして、彼は筆先に強大な気を込めて、空間に一文字を描いた 。
「一筆入魂:止」
次の瞬間、聖騎士団と、彼らが放ったすべての攻撃は、ソラに届く直前の空間で、絶対的な強制力を持って、完全に停止した。その静止は、空間そのものの時間さえ凍り付いたかのようだ 。
生徒たちは、目の前で起きた超常現象に、ただただ息を呑む。追跡者が、たった一言で無力化されたのだ。
ソラは停止した弾丸の間を涼しい顔で見つめ、騎士団に向かって言った。
「はい、ストップ。いや〜、あんたらが渾身の愛を込めて放った熱い衝動を、先生が指一本で冷ましちゃうなんて、背徳的で最高やな。残念やけど、あんたらには『準備と確認』が足りてへんわ。」
彼は、凍り付いた騎士団の顔を見ながら、生徒たちに向かって不敵に笑った。
「自分ら、運が良かったで。未熟な悲鳴を聞くのは性に合わんのや。ほな、この世界のルール、みっちり身体に叩き込んであげたるわ。授業始めよか。」
彼の介入により、Fランクの少年少女たちの逃避行は、予期せぬ方向へと舵を切った。




