ヴァイル・フォン・グレイアス
「クソッ!なんなのよ、あの女!」
宿舎に戻ったリリスは、苛立ちを隠しきれずに悪態をついた。
「私がヒロインのはずなのに、どうして悪役令嬢の方が目立ってるのよ!?」
あそこは、本来ならレオナード皇子との大切なイベントが発生するはずだったのに――きっと、あれはエレノアの罠だったのだわ!
本当なら、あの場所で——
――
『……ない……ないわ……ハンカチが見つからないの。お祖母様からいただいた、大切な刺繍入りのハンカチが……お守り代わりだったのに……』
不安げに辺りを探しながら、眉を寄せるリリス。どこか頼りなく、今にも泣き出しそうなその姿。
『リリス……と言ったか?』
ふいに、落ち着いた優しい声が背後から届く。
『はい。レオナード皇子……!』
振り向くと、彼の手には一枚の白い布。
『これ、君のハンカチじゃないか?名前が刺繍されていた』
『それです!間違いありませんわ、ありがとうございます!』
ぱっと顔を輝かせるリリス。花がほころぶような笑顔に、皇子の胸が不意に高鳴る。
『君の可愛い顔が曇るのは、似合わないな』
静かにそう告げると、彼はそっとリリスの頭に手を置いた。その掌の温もりに、リリスは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
『大切なものなら、これからはもっと気をつけるんだ』
――
――そう、そうなるはずだったのに!
こんなはずじゃなかった。
いつも、いつもそう。
——
「安藤さん、頼んでいた書類、できたかしら?」
「すいませ〜ん。難しくて、まだ終わってないんですぅ」
ネイルを整えながら、どこか他人事のように答える智美。
「まだできてないの?一昨日お願いしたはずだけど」
「えぇ〜、急がないって聞いたから〜」
「それでも、もう仕上がってていい頃でしょ」
「すいませ〜ん」
悪びれる様子もなく、軽く頭を下げるだけの智美に、上司はため息をついた。
「……もういいわ。同期の前田さんにお願いするから。前田さん、お願いできる?」
「はい、大丈夫です」
由里子はその日のうちに、完璧な書類を提出した。
「さすがね、前田さん。やっぱり頼りになるわ。それに比べて、安藤さんときたら……」
上司の声は静かだったが、その分だけ冷たく響いた。
あの女性社員たちの冷ややかな視線――
――
まるで、あの忌まわしい記憶が胸を刺すようだった。
「……でも。明日の魔法の授業にはヴァイル様もいらっしゃる。得意な魔法でしっかりアピールして、あの女に恥をかかせてやるんだから!」
意気込むリリス。その様子に、一抹の不安が胸をよぎる。……大ごとにならなければいいのだが。
***
翌日。澄み渡る空の下、実技演習のため生徒たちは校舎裏の演習場に集まっていた。
「今日は特別に、Bクラスからヴァイル・フォン・グレイアス君にも参加してもらった。彼は非常に優秀な魔術士だ。皆、しっかりと学ぶように」
教師の声が広がると同時に、一人の生徒が前へと進み出る。
「……ヴァイル・フォン・グレイアスだ」
短く、無駄のない自己紹介。淡々としたその口調に、場の空気がわずかに引き締まった。
銀の髪が朝日を受けてきらめき、赤い瞳が鋭く辺りを見渡す。制服の上から羽織られた黒いマントが風に揺れ、その姿はひときわ目を引いた。
まるで物語から抜け出してきたようなその美貌に、女子生徒たちは「きゃあっ」と小さな悲鳴を上げる。さっきまでの緊張が嘘のように、どよめきが広がっていく。
「……ごほんっ!えー、本日の授業内容は“使い魔の召喚”だ。まずは、ヴァイル君にお手本を見せてもらおう」
教師が軽く咳払いをして、場を整える。その視線の先で、ヴァイルは静かに片手を上げた。
すると、空中に淡く輝く魔法陣が浮かび上がった。
「我が意志に応じ、古の契約の環よ目覚めよ。空と地の狭間に眠る者よ、名を告げよ──ここに現れ、我が影となれ。汝の名は──ネザール!」
ズズ……ズルズル……。
低くうねる音と共に、魔法陣の中心から巨大な蛇が這い出してくる。その鱗は漆黒にして艶やかに光り、赤い双眸は深淵のごとく冷たい。
まるで、それはヴァイルの姿を模して創られたかのようだった。