微笑みの裏に牙を
「ふっ……ふふふっ」
思わず笑いがこみ上げる。言ってやったのだ、あの智美に。
あの呆けた顔。口をぱくぱくさせて言葉も出せずにいた様子が、何度思い出しても可笑しくてたまらない。笑いを噛み殺すのに必死だった。
けれど、これは些細なことに過ぎない。これまで私が受けてきた仕打ちを――そのすべてを、倍にしてお返しするつもりよ。震えて待っていなさい、智美。
「お嬢様、何か……楽しいことでもありましたか?」
部屋に紅茶の香りを運びながら、侍女のニーナが不思議そうに尋ねる。
「ええ、少しね。でも――本当に面白くなるのは、これからよ」
「は、はあ……?」
戸惑うニーナをよそに、私は笑みを深くしてティーカップに口を運んだ。
***
「あれ?ここに置いてたボールペンがない……大事な物なのに……」
私は机の上を必死に探した。書類の間、引き出しの中、落ちていないか床まで見たけれど、どこにも見当たらない。
「大事なボールペンって、これのこと〜?」
振り返ると、そこには智美がいた。私のボールペンを、まるで戦利品のように指先で弄んでいる。
「なんで智美がそれを……?」
「え〜、ちょっと借りただけじゃん」
「勝手に使わないでよ。そのボールペンは、高かったし……亡くなったおばあちゃんが、就職祝いに買ってくれた大切な物なの」
「ふ〜ん?へぇ〜……亡くなったおばあちゃんねぇ」
――ベキッ。
鈍い音がして、私は目を見開いた。
「なに、してるの……!」
床には、無惨にも真っ二つになったボールペンの部品が散らばっていた。智美がヒールで踏みつけたのだ。
「いっつも大事そうにしてると思ったら、そんな理由? なにそれ、つまんな〜い。おばあちゃんとか、マジ古くない?」
「……っ!」
怒りが抑えきれなくて、思わず智美に掴みかかろうとした、その瞬間。
「なんだ、騒がしいな」
低い声に、動きが止まる。
「課長……」
「課長ぉ〜っ!」
甘ったるい声とともに、智美が課長に擦り寄る。
「前田さんが落としたボールペンを、わたし、うっかり壊しちゃったら、いきなり掴みかかってきたんですぅ……」
「ちがっ……!」
「前田君。たかがボールペンごときで、そんなに取り乱すな。安藤君がこわがっているじゃないか」
「“たかが”って……壊したのは……!」
「ごめんなさいぃ……ぐすっ……」
しゃくりあげる声。だけど、その涙に濡れたはずの顔は、ほんの一瞬、私に笑いかけていた。唇の端が、確かに――笑っていた。
「ほら、安藤君もちゃんと謝ってるだろ。もう騒ぎはやめなさい」
「……はい。すみませんでした」
絞り出すようにそう言って、私は膝をついて、床に散らばったボールペンの残骸を拾い集めた。
震える手のひらに、小さな破片が痛かった。けれど、それよりも胸の奥の痛みの方が、ずっと――ずっと、辛かった。
――
「ねぇ、由里子。この仕事、お願いできないかな?」
「えっ、私も急ぎの案件抱えてるの。他の人に頼んでくれない?」
「……実はね、さっきお父さんが倒れたって連絡があって。今すぐ病院に行かなきゃいけないの。本当にごめん!」
「えっ、それは大変じゃない!すぐ行ってあげて!」
「ありがとう、由里子……本当に助かる!」
——そんなやり取りの末、私は智美の仕事を引き受け、残業をする羽目になった。
そして翌朝。
「ねぇ、見た?智美の昨日のインスタ投稿」
「見た見た!彼氏と一緒に高級レストランでディナーしてたやつでしょ?あれ絶対一人じゃ行けないレベルの店よね〜」
……昨日?
「ちょっと、それ見せてもらっていい?」
「え、由里子も興味あるの?ほら、これ」
スマホを覗き込むと、そこには洒落た料理を前に笑顔でワインを傾ける智美と、その隣に寄り添う彼氏の姿。どう見ても病院帰りには見えない。
「おはよ〜ございま〜す」
そこへ、いつも通りのんびりと職場に現れた智美。
「ちょっと智美、これどういうことよ!」
「なによ、朝から騒がしいわね」
「昨日、お父さんが倒れたって言ってたじゃない。その直後にこのインスタって、一体どうなってるの?」
「あ〜……それね。お父さん、検査したら何ともなかったの。だから安心して、お祝いに彼とディナー行ったのよ〜」
どこまでも白々しい。
「そんなことあるはずないでしょ。その店、何週間も前から予約しなきゃいけないって有名なんだから!」
「あ〜あ、バレちゃったか〜」
ぺろっと舌を出して、まるで子どものいたずらが見つかったかのように笑う智美。その顔に、反省の色は微塵もなかった——。
――
仕事の合間、休憩を取ろうと自販機に向かっていると、女子社員たちの声が廊下に響いてきた。
「ねぇ、知ってる?あの噂のこと」
「なに、なに?」
聞き覚えのある声だった。同じ課の小野さんと鈴木さんだ。どうせよくある噂話だろうと聞き流そうとした、――そのとき。
「前田さん、田中部長とデキてるらしいよ」
「やだぁ、そうだったの?」
は? 私、初耳なんだけど。
「私も聞いたときビックリしちゃった」
「えー、でもそんなふうには見えないよね。その話、誰から聞いたの?」
「安藤さんよ」
安藤――智美!?
胸がざわついた。私はそのまま踵を返し、智美のデスクへと足を向けた。
「ちょっと、智美!」
振り返った彼女は、相変わらずの調子でネイルをいじっていた。見事なまでに仕事をしていない。
「なによ〜、うるさいわね。静かにしてよ。気が散るじゃない」
その態度に、こみ上げてきた怒りが一気に噴き出す。
「私と部長がデキてるって噂、流したのあなただよね?どうしてそんな嘘を広めたのよ!」
智美は、わざとらしく肩をすくめた。
「嘘かどうかなんて、本人にしかわからないじゃない。あんた、いつも部長と仲良さそうにしてるし?勘違いされても仕方ないんじゃない?」
「……っ! 仕事の相談をしてただけよ。それに、根も葉もないことを勝手に“事実みたいに”言いふらすなんて、どういうつもり?」
「ふーん。怒っちゃって、余計に怪しいわね」
わざとらしい笑みを浮かべる智美。周囲の視線がじわじわと集まり始めていた。
私は深呼吸をして、彼女の目をまっすぐに見据える。
「今、ここではっきり否定しておく。私と部長の間に、やましいことなんて一切ない。――これ以上、くだらない噂を広めるようなら、正式に対処するわよ」
その言葉に、一瞬だけ智美の目が鋭くなった。
けれど次の瞬間には、再び飄々とした笑みを浮かべ、無言でネイルをいじり始める。
私の胸の奥に、鈍く冷たい怒りが残った。
――これは、ただの噂じゃない。ただの悪意だ。
***
などとこれまで、数えきれないほどの嫌がらせや陰湿なイジメを受けてきた。止めようとしても、彼女はいつも男性社員を味方につけて巧妙に逃げのびていた。
――でも、もうあの頃の私じゃない。
今の私は、“悪役令嬢”なのだから。




