エレノア・フォン・ヴァレンシュタイン
「エリー……いや、エレノア・フォン・ヴァレンシュタイン!この場をもって、君との婚約を破棄する。そして、ここにいるリリス・フィオレンティーナを、私の正式な婚約者として迎えることを宣言しよう!」
レオナード・フォン・グリューネヴァルト皇子の声が、大広間に響き渡った。
――来た、来た、来た……!
まさに、婚約破棄劇の名場面。ここは引き際が肝心。見事な演技で、この舞台に華を添えなければ。
「そんな……レオ皇子……!」
私は涙をこぼしながら、その場に崩れ落ちる。もちろん、演技だけれど。
「もう“レオ”などという馴れ馴れしい呼び方はやめてくれ。そう呼んでいいのは、リルと、僕が許した者だけだ。君は、未来の王妃に対して、決して許されぬ罪を犯したのだから」
――はいはい、レオナード皇子ね。
たしか意味は「勇敢」「強さ」「誠実」「堅実な知性」だったかしら。
今のその台詞、どこをどう取っても一ミリも感じられないわね。
それにしても、“リル”とは。ふふ、ずいぶんとご執心のようで。
ねえ、知ってる?
「リリス」って名前、実は外国の宗教の外典や民間伝承に登場する、悪魔のような女性の存在なんですって。
その証拠に──今も私の隣で、誰にも見えないように笑っているの。そう、私を悪女に仕立て上げた“本物の悪女”リリスが。
おかげさまで、私は「悪役令嬢」としての人生をすっかり満喫する羽目になってしまったじゃない。ふふ、感謝しなくてはね。とびきりの“お返し”を用意しているわ。
──あら、ごめんなさい。その前に、どうしてこんなことになったのか、皆さまにもお話しておかないといけませんわね。
時は、今から遡ること一年前──。
「エレノア様、エレノア様!もうお聞きになりました?このクラスに転入生がいらっしゃるそうですの」
「まあ、セリーヌさん。それは存じませんでしたわ。こんな時期に転入だなんて、珍しいですこと」
こちらはセリーヌ・フォン・ブランさん。ブラン伯爵家の令嬢にして、ただ一人のご息女ですわ。お友達……いえ、悪役令嬢の立場で申しますなら、“取り巻き”とでも申し上げるのが適切かしら?
そしてエレノアは名門・公爵家の令嬢であり、さらに皇子の婚約者という立場から、クラスの誰もが一目置く存在だった。
「何でも、その方は庶民のご出身ながら、光魔法が使えるのだとか。それで特別に転入が許されたそうですの」
光魔法を操れる者など、そう多くは存在しない。
その証拠に、この国の〝若き太陽〟と称されるレオナード皇子でさえ、使えるのは火の魔法のみだ。
それに対し、エレノアは水と風、二つの属性を自在に操ることができる――。
その卓越した才能ゆえに、彼女は皇子の婚約者として選ばれるに至ったのだ。
「レオ皇子はご存じ?」
前の席に座るレオナード皇子に、私はそう尋ねてみた。
「ああ、父上から話は聞いている。地方に現れた強大な魔物を討伐していた兵士を、光魔法で救ったそうだな」
「まあ、レオナード皇子! 今日も本当に麗しいですわ〜!」
セリーヌたち女子が、きゃあきゃあと騒ぎ出す。それも無理はない。レオナード皇子は、まさに“イケメン”なのだから。
さらさらの金髪に、きらきらと輝く紅い瞳。甘い蜜のような、耳に心地よい声――。
……え? どうして“イケメン”なんて言葉を知っているのかって?
申し遅れました。私、前世では“前田由里子”という名前で、ブラック企業に勤めていた24歳のOLでしたの。
毎日が残業、また残業。それでもなんとか頑張れたのは、同じ会社で働いていた彼氏・雄司の存在があったから。
ちょっと頼りないところもあったけど、優しい彼。私がしんどいときには、いつもそばで励ましてくれた……。
――でも、それが私の思い込みだったなんて、あのときは思いもしなかった。
「……智美?どうして、ここに……」
その日は珍しく残業がなく、私は久しぶりに明るいうちに帰路についた。玄関のドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、彼――雄司――と抱き合っている同僚、智美の姿だった。
「……雄司、どういうこと?」
声が震えていた。理解が追いつかない。けれど、目の前の現実は否応なく私を引き戻す。
「悪い、由里子……」
雄司は視線を逸らし、苦しげに言葉を繋いだ。
「寂しかったんだよ。お前、いつも残業ばっかりで……最近はメイクも服装も手抜きになってるし、正直……魅力を感じなくなったんだ」
「そんな……」
息が詰まる。胸の奥が鈍く痛んだ。
その時、智美がふっと笑った。
「由里子が雄司さんを一人にしたのが悪いのよ? 仕事って、要領よくやらないとダメじゃない」
彼女はくすくすと笑いながら、私を見下ろすように言った。
智美は、昔からそうだった。
自分に気のある男性社員に仕事を押しつけては、さっさと帰宅する。面倒な雑務も、「できな〜い」と甘えた声でごまかし、他の女性社員に押しつけて知らん顔。
けれど、誰もそれを咎めようとはしなかった。報復が怖いからだ。
智美に逆らった者は、たちまち職場で孤立する。いわゆる――いじめだ。
同じ課の男性社員たちからも、部長からも評判が良く、智美に逆らえる者などいない。
それに、彼女にはもうひとつ厄介な癖があった。人のものを欲しがるのだ。
それが物であれ、人であれ、彼女は手に入れずにはいられない。
以前、同じ課の女子社員が「彼氏を取られた」と憤っていたのを、私はこの耳で聞いたことがある。
そして今回も――そういうことなのだろう。
「そういう事だから、バイバイ」
智美は、満面の笑みで手を振った。
その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。
気づけば、私は部屋を飛び出していた。
「由里子!」
背後で雄司が叫ぶ声がしたが、もう耳には届かなかった。
そのまま私は、勢いよく道路に飛び出し――
そして、トラックに撥ねられた。
次に目を覚ましたとき、私はもう由里子ではなかった。
異世界で、「エレノア」として生まれ変わっていたのだ。