ちょっぴり感動する余命宣告を受けた夫の話
私は彼と出会ってから、もう40年以上になる。
67歳という年齢が嘘のように、
夫と出会った頃のことを今でも鮮明に覚えている。
そんな私に、ある日、突然現実が突きつけられた。
「残念ですが、膵臓癌のステージ4です。
リンパに転移が見られ、長くても半年ほどかと」
その日、夫は余命宣告を受けた。
医師の言葉が頭の中で何度も反響し、
時間が止まったような感覚に陥った。
彼は私を見て、穏やかな表情でうなずいてみせた。
「大丈夫だよ」
彼は私に優しく言った。
「大丈夫じゃないよ…」
そう伝えたかったが、言葉を飲み込んだ。
私は涙を堪えながら、ただ夫の顔を見つめることしかできなかった。
私たちは治療を受けるかどうか、選択を迫られた。
夫は「家で静かに最期を迎えたい」そう言った。
私は反対した。
一日でも長く一緒にいたい、そう何度も伝えた。
しかし、夫は譲らなかった。
その日の夜、息子が電話をくれた
「父さんはさ、最後に母さんと一緒に二人で行った思い出の海に行きたいんだって。」
あの海…。
二人で初めて遠出した日のことが、鮮明に蘇った。
私たちは若かった。
まだ結婚前で、二人で出かけること自体が特別なことだった。
目的地は、彼が勧めた海。
「きっと気に入るよ」
自信満々で言っていた彼の姿が、今でも目に浮かぶ。
「着いたら海辺を歩こう。それに、夕焼けがとてもきれいなんだ」
彼はそう言いながら、運転に集中していた。
しかし彼は道に迷い、海に着いた時には、もう空は暗くなっていた。
「ごめんね、遅くなっちゃった。」
彼は落ち込んだ様子で言った。
私は笑いながら彼の腕にしがみついた。
暗闇の中でも、波の音が私たちを包み、心地よい風が吹いていた。
海は見えなくても、私は幸せだった。
「また来ようね」
私がそう言うと、彼ははにかんだ顔で、
「うん、また来よう」
と微笑んだ。
あの時の彼の笑顔が、私の心に深く刻まれている。
私は夫の気持ちを知り、治療を諦めることにした。
両方を叶えられない現実に涙が流れた。
まだまだ続くと思っていた何気ない時間は、
ある日、突然、かけがえのない時間に変わっていった。
夫の体調は想像以上に悪かった。
ある朝、彼はベッドから起き上がろうとしたが、
力が入らず、手を差し伸べても
「ごめん、立てない」
とつぶやいた。
「痛みがひどい?」
と尋ねると、
彼はかすかにうなずき、
額に滲んだ汗を拭いながら目を閉じた。
私は胸が締め付けられた。
モルヒネが少しは彼を楽にしてくれているはずだったが、
その薬の効果も日に日に薄れているようだった。
食事もほとんど取れなくなり、
スプーン一杯のスープさえ彼の喉を通らなかった。
「無理しないでね」
と言う私の言葉に、彼は静かにうなずくだけだった。
ある日、彼は息を整えるように、ゆっくりとこう言った。
「海…行けるかな」
私は涙を堪え
「もう少し頑張ろう」
そう何度も語りかけた。
しかし、二人は理解していた。
残りの時間がどれだけ限られているのかを。
ある日の朝、体の痛みが和らぎ、
夫は体調が良さそうだった。
私は今日しかないと思い、
夫を連れて車で海に向かうことにした。
夫は車に乗るのが少し辛そうだったが、表情は明るかった。
道中、車窓から海が見えてくると、
「懐かしいね」
私はそう言った。
「初めて行ったきり、行ってないもんな。ありがとう。」
と夫は力無く微笑んだ。
「あ、このお店、まだあるんだね。」
「・・・」
夫の返事は返ってこなかった。
「ほら、もう着くよ。」
前を向く私の目には涙が滲んでいた。
現実を見るのが怖くて、
私は夫に目を向けられなかった。
海が見える駐車場に車を止め、私は震える声で
「やっと来れたね。本当に懐かしい。
初めて来た時は、着いた時にはもう暗かったよね。」
私の目には涙が溢れ、ポロポロとこぼれ落ちていた。
恐る恐る助手席に座る夫に目を向けると、
微笑みながら眠るように目を瞑っていた。
もう息はしていなかった。
私は夫の体を抱きしめ、大声で泣き続けた。
最期まで、私たちは幸せだったのだとそう信じたかった。
数ヶ月後、私は彼の遺品を整理していた。
すると金庫の中から手紙が出てきた。
その手紙には、彼の思いが綴られていた。
「◯◯へ、
最後のわがままを聞いてくれてありがとう。
海には行けたかな。
初めて二人で行った時、僕が道に迷って着いた頃には暗くなってたね。
それでも嬉しそうな顔で「また来よう」と言ってくれた君を見て、
この人と結婚したい、そう思ったんだ。
大した話じゃないけど、ただそれが言いたくて。
僕と一緒になってくれてありがとう。」
私は気づくと泣いていた。
でも、不思議と心は温かかった。
彼の最期の顔が、幸せそうだったから。
その後、私は息子夫婦と孫を連れて、再びあの海を訪れた。
若き日の思い出が蘇り、私は微笑んだ。
「また二人で来ようね」と言ったあの時、
私は夫のはにかんだ顔を見ながら、
この人と結婚したい
そう思ったあの日を思い出していた。