王太子アンリは婚約者に結婚を延期を言い渡される【外伝】
「殿下」
鈴を転がすような声で呼ばれる。あぁ、私は今日も幸せだ。
「殿下、聞いてらっしゃいます?」
いつの頃からか『ケジメですので』と、愛称どころかめったに名前すら呼んでくれなくなってしまったが、それでもこの国で『殿下』と言われるのは私だけだ。つまり名前で呼ばれているのとほぼ同じ。
「……と言うわけなのですが、よろしいでしょうか?」
「ん? あ、あぁ」
「話が早くて良かったですわ。では、そのように致しますわね。ご機嫌よう、殿下」
「あ……」
愛しの姫はにっこり微笑むと、するりと部屋を出て行ってしまった。
あぁ、今日も可憐だった……1日と4時間ぶりだ……。同じ王宮内にいるというのに、どうしてこうも会えないんだ。せっかく王宮に住むようになったというのに。えっと、何の用事だったっけ? 何か言っていたが、あまりに美しい顔に見惚れてしまっていたな。まぁ、我が姫は間違ったことはしないし、そう、シアが決めたことなら正しいことだろう。
そう思い、シアの残り香にしばし酔いしれる。
「殿下! アンリ殿下!」
……せっかくのシアの余韻が台無しだ。
「なんだ、ジーン」
じろりと座っていても存在がうるさい輩に目を向ける。日に透ける茶色の髪と翡翠色の瞳を持ち、一見穏やかで優しそうに見えよく整った外見でどんな強者の懐にもするりと入るコミュニケーションの鬼だが、実は近衛騎士の若手のホープだ。
「いいの? ほんとに」
「何がだ」
「えー、だから、婚姻の件だって!」
は?
「は? って、やっぱりちゃんと聞いてなかった」
ジーンがぶつぶつと呟いていたが、そんなことはどうでもいい。
「こ、こ、こんいんのけんとは?」
「殿下、動揺しすぎて幼児化されていますよ」
長い銀髪を靡かせ部屋に入ってきた美丈夫が、その冷たさを感じさせる銀髪と完璧に整った造作に比例するように冷ややかに嫌味をぶつけてくる。
「殿下がエレクシア嬢のことになると幼児化するのは毎度のことじゃないですか、それこそ幼少期からの婚約者なくせに、いつまで花畑でいるんですかね」
「シアがいつまでも可憐で美しいから仕方がないだろう。だいたいなんでお前はラルには敬語で俺にはそんな口の聞き方なんだ」
「別にぃ、人徳の差じゃない?」
「ジーン、殿下も敬うように」
「『も』ってなんだよっ、『も』って」
そう、私と我が姫エレクシア・ジュレ・エンデバルトは幼少期に婚約したため、もう婚約してから十数年になる。
初めてシアと会った日のことを未だに覚えている。王家のプライベートガーデンでエンデバルト公爵夫人と手を繋いだシアを見たときには、空から天使が間違えて落ちてきたのかと思って母にこっそり尋ねたくらいだ。すぐに私は小さな天使に夢中になったし、そんな私を父も母もニコニコと見守ってくれた。未だ囁かれる王太子であった父とエンデバルト公爵との認定聖女であったエンデバルト公爵夫人を巡る因縁を後から聞くと、父のエンデバルト公爵家への並々ならぬ思い入れに驚くが、もうシアに出会ってしまった私はシア以外の婚約者候補など目にも入らなかった。
元々エンデバルト公爵家は、リール王国の王兄が臣籍降下し興されたもので、王家とは縁深い。そもそも王太子であったのは王兄の方だったのだが、身分違いの女性との婚姻を王家が認めず、それなら王弟に王太子を譲ると一方的に宣言して臣籍降下してしまった。何にでも秀でていた王兄の宣言に、王家は慌ててその女性との婚姻を認めると今までの態度を翻したのだが、すでに宣言時には臣籍降下の手続きを済ませ、エンデバルト公爵となっており、撤回しようにも契約魔法で成立しておりどうしても覆せず、密かに王兄の恋を応援していた王弟が王位を継いだ経緯がある。その後も王となった弟は、公爵となった兄を事あるごとに頼り、兄はそんな弟をしっかりと支え、ときに道しるべとなりリール王国を発展させたという。
エンデバルトという屋台骨がなくなれば、今も王家など簡単に吹き飛んでしまうだろう。だからといって、エンデバルトだから側近にする、王妃や王太子妃にするということは断じてない。もちろんそれぞれに秀でているものがあるからこそ、王家はエンデバルトを重宝する。
婚姻はというと、初代のエンデバルト公爵が5代の間は王家との婚姻を禁じ、またなかなかエンデバルト家に姫が生まれず、生まれても王家とは年齢差がありすぎる等で再び縁が繋がれたのはだいぶ後となってからだったし、一度縁が繋がれるとそこからまた5代を明けなければならず、そういった意味では私は運が良かった。いや、その真実を知ればこれはもう運命としか思えなかった。
我が姫のエレクシアは、淡い金髪は長く、ゆるくウェーブがかかり何もしなくても波打っているように感じる。薄いライラック色の瞳は大きく、常にうるうると輝いている。幼い頃は天使のようだったが、今では【最果ての神秘】とも称されたエンデバルト公爵夫人にも負けるとも劣らない、いや、断然我が姫の方が美しく、私は今も会うたびに恋をしてしまう。
「で? 殿下はまたエレクシア嬢にメロメロで全然話しを聞いてなかったってことでしょ」
「うっ」
「全くさぁ、基本的には優秀だし、何でも卒なくこなすくせに、どうしてエレクシア嬢のことになるとその優秀さが機能しなくなるんだろうね」
「うぅ」
「まぁそれだけシアが素晴らしいということだろうが……こうもポンコツになるのであれば、やはりシアは家に戻るべき――」
「それだけは断じて許さんぞ、ラル」
我が姫のことをシアと愛称で呼ぶ目の前の銀髪を睨むが、向こうはこちらを見てすらもいない。我が姫を私以外に愛称で呼べる男なぞ、本来は許されるものではないが、如何せん、この眼の前の冷たい美貌を誇る男の名は、ライリー・ジュレ・エンデバルト。そう、我が姫の兄にして私の幼馴染であり、側近である。
「でさ、さっきの話しはもういいわけ? エレクシア嬢の話した内容」
ジーンがわざとらしくぐいっと下から覗き込んでくる。本人曰く――自分が一番可愛らしく見える角度――らしい。可愛らしいなんてものはシアにだけに当てはまるというのに。
「教えてあげるって。エレクシア嬢はさ、『婚姻は2年延期します』って言ってたよ」
え……?
**
「あら、殿下、どうなさったのです?」
書類の山をさっさと片付け――本当に王太子としては満点ですね、というラルの言葉は無視して――王太子妃、もとい、婚約者の部屋へ向かった。
我が姫は王立学園を卒業と同時にリール王国の新しい聖女に任命された。本来なら神殿で過ごすのだが、私の婚約者でもあり王太子妃教育が始まるため王宮に住まいを移している。だからといって気軽にいつも訪ねていくことは出来ないのだが、今回は緊急事態のため各方面に無理を言った。王太子権限をこんなにも使ったことがあっただろうか。
あぁ、本当に我が姫は美しい、瞳に自分が映っていると思うだけで……い、いや、今は婚姻延期の件について聞かねば。
「シ、シア。あの、さっきの話しなのだけれど」
「はい?」
「その、私達のけ、け……」
「け?」
「けこんをえきんするって」
「は?」
「け、結婚を延期するって……」
「あぁ、その件ですの」
私の呂律が回らない言い回しに目を何度か瞬かせた後、ライラック色の瞳をゆっくりと細めにっこりと笑った。
「その、なぜ今になって延期なのだ。王太子妃教育ももう終わると聞いている、なにか……何か私はシアの気に障ることをしてしまったのだろうか」
「いいえ、そんなことはございませんわ、殿下」
「なら一体なぜ」
我が姫は今度は困ったような顔をし、腰掛けていたソファーを少しだけ横にずれた。
「殿下、こちららに」
そのまま侍女を下がらせ、ポンポンと自らの横のソファーをたたいてみせる。
ま、まさか、隣に座れと……?
真っ青だった顔を赤くし、アンリはふらふらとエレクシアの隣に座る。
「ちゃんとお話しいたしますわね」
「は、はい」
「父様やライリー兄様からキアラの件はお聞きになりましたでしょ」
「ああ」
エンデバルト家の末娘キアラの件は宰相であるエンデバルト公爵とラルから話は聞いていた。
「突然のことでわたくしも驚いたところでした」
「あぁ、だがおめでたいことでは……」
「おめでたい?」
急に笑顔が氷のように冷たく感じるのは気の所為なのだろうか。
「まさか殿下、本気でおっしゃっておりませんわよね」
「あ、ああ、まさか、そんな!」
なんだろう、この感じ、ラルとも同じやり取りをした記憶がある。
「で、でも対外的には」
「そんなもの関係ありませんわ」
「かんけいない」
ぼんやりとした頭で繰り返してみる。大国である某国はリール王国にも影響はある。それを関係ないと言い切る我が姫。
「と、言いたいところですが、そうも行かず……ですからの延期なのですわ」
私の頭では理解が追いつかない。いや、そう、これもデジャブ。ラルも似たようなことをいって当分休暇が欲しいと言っていたな。
「我が姫、キアラ嬢の婚約がどうして我々の結婚延期となるのか、もう一度説明してくれると有り難いのだけれど」
「婚約じゃありません」
アンリが言い終わる前にエレクシアがきっぱりと言い放つ。
「あ、あぁ、そうだった、ごめん……」
「あの子がしないと言っているんです。そのために契約魔法まで使っているのです。契約魔法ですよ? あの子の決心がどれだけのものか分かりますでしょ。あの子が逃げたいと言うのなら逃がしてやらなければ」
「う、うん」
「ですが殿下と正式に結婚すれば、わたくしはリール王国の王族となります」
正式に結婚すれば、わたくしはリール王国の王族となります。なります。うん、いい響きだ。
「王族の一員となれば、今よりも王都を離れることは難しくなってしまいますし、リール王国の王族があの国と揉めるわけにはいきません。ですが、可愛いキアラの一大事。今まで姉として物理的に離れているがゆえ、関わりきれなかった部分も多くございます。ちょっと会わない間にあの子はぐんぐん成長してしまって……絵姿では確認しきれない可愛い仕草もわたくし全く見ておらず、後でルーファス兄様から自慢気に語られるのがどんなに悔しかったことか。あのライリー兄様でさえ必ず2ヶ月に1度はキアラや母様に会いに行かれているのに……いえ、殿下を始め王宮での生活に不満はございません。ですが、どうしても今回だけはエンデバルト家の一員として、キアラの力になってやりたいのです。ですので、今結婚するわけにはいかないのです、どうぞわたくしの一生のお願いです。聞き入れて頂けませんか、アンリ様」
シアが、我が姫が私の名前を……!! えっと、何ヶ月ぶりだったっけ……。
「お願いですわ、アンリ様」
「も、もちろんだよ、我が姫」
「アンリ様、こんな時くらいは名前を呼んで頂けませんか?」
「シア……シア……私のエレクシア……」
「はい、アンリ様」
「で? 殿下は納得したと?」
「えぇ、それはもう」
真っ青な顔で出ていったと思ったら、顔も頭もピンク色になってふわふわと変な足取りで戻って来るものだから、狐にでも馬鹿されたのか、変な毒でも飲んだのかと思っていたが、相変わらずシアに首ったけのようだ。
「納得もなにも、お前、最初から契約魔法で縛っていただろう」
「そうですけど、お兄様。ちゃんと自分の口で思いを伝えて相手に納得してもらうことって大切なんですわよ。父様もお兄様もすぐに力でねじ伏せようとするから拗れるのですわ。ちゃんと使えるものは使わなくては。それではわたくしも準備がございますので、また後ほど」
人の返事も聞かずに自分の言いたいことだけ言って去っていく妹の背中を、見つめる。
王家のゴリ押しによって幼くして王太子の婚約者となった妹、エレクシア。母様と同じように美しく成長した妹は、母様によく似たその容姿のせいで儚げな印象を持たれるが実はかなり良い性格をしており、強い。何しろ末っ子のキアラが生まれてすぐ発現した聖魔法のせいで、せっかく生まれた待望の妹とも大好きな母とも別れ父と自分と3人で王都の屋敷にやってくることになっても弱音一つ吐かず、王立学園に入ってからも心無いクラスメイトや貴族に嫌味を言われても平然とほほ笑むことは朝飯前だった。その健気なほほ笑みで周囲を味方につけたその上で、周りには聞こえないようにさらりとこの上ない皮肉を言ってのけるのは俺以上の強心臓だと思っている。箱入りもいいとこだと思うのに、どうしてそんな風になったのか聞いてみたことがあったが、
「あら、お兄様、一度鏡をご覧になったら?」
と、一言言われただけだった。さっぱり意味が分からない。
しかし、母様もシアも、そしてキアラも……か。
もちろん我が家の美しい母と――美しいのは父も同じだが――妹達に文句はない。文句どころか母は自慢だし、妹達のことは目に入れても痛くないほど溺愛している自覚はある。しかし、こうも様々に惹き付けて虜にするとは……
「我が家は魔女の血でも入っているのか」
魔法を使う女性を魔女と表現するのであれば、魔法が使えるこの世界のすべての女性が当てはまるが、魔女とは人とは比較にならないほどの魔力を持ち、変魔することなく自我を保ち、その膨大な魔力で美しさと不老を保つという物語に出てくる人物だ。そして魔女は人々を魅了し、意のままに操るのだ。
「ふっ、そんな訳はないか」
自身も十二分に周りを惹きつけ、一向に結婚どころか婚約者すら作らず、自国だけでなく近隣の貴族令嬢からひそかに「最後の大物」と言われ水面下でえげつない争いが起きていることには全く気がついていないエンデバルト家の嫡男は、これからの2年間可愛い末っ子を守っていくため、着手し始めていた魔道具の研究を早急に仕上げに、王都の屋敷に戻る準備を始めた。
「この先のスケジュールと確認しておいていただきたい書類です」
エレクシアとともにエンデバルト家の領地のひとつに戻るライリーからの書類の山に、アンリは頭を抱える。
「えげつな……ライリー様、ちゃんと殿下が仕事が進むよう見張ってますので、どうぞ心置きなくいってらっしゃいませ」
「ああ、ジーン、任せた」
公爵にして、自由と正義を愛する。身分に囚われず、王家にすら怯まず、冷静に物事を判断する。だからこそリール王国には無くてはならず、これがエンデバルトだと父様も母様も他の貴族達も言うが、エンデバルト一族が一番己の欲に忠実である血脈なのは祖を見てもわかると思うと思うのは、私だけなのだろうか。
あぁ、それでも今まで何一つわがままを言ったことがない我が姫の願いは叶えてやらねばならない。大丈夫、大丈夫だ。私が我が姫の婚約者だということには変わりはない。変わらせない。違いはないのだ。ただちょっと時期が先にズレたまでのこと……。
結婚延長は契約魔法にて契約されており、アンリがどう思おうと、しっかり外堀は埋められているのだが、そう感じさせないシアの力量はまだまだアンリよりだいぶ上である。
近づけば遠ざかる結婚に思いを馳せ、王太子アンリは今日もまた、愛しく麗しい姫に振り回されて幸せなため息をつく。
読んでいただき、ありがとうございます。
(外伝)というのは間違いではないです。
ただ今執筆中の物語の外伝となります。ただ、短編としてもお楽しみいただけるかと思います!
※本編公開後には統合するかもしれません。