第二十一話 The Set Up
渋滞車列での襲撃を切り抜けたヨハンナ達一行は、オーランドのセーフハウスへ直接出向く事なくサンタ・クララまでの道中方々へ寄り道して敵の追跡を撒いた。セーフハウスにたどり着いたのは凡そ2日後だったが、その甲斐もあってか今の所ロシア人やゲリラ達に追われている気配はなかった。
ヨハンナ達はサンタ・クララ市内中心にあるこじんまりとした自動車修理工場に身を寄せていた。なんでも余所者の若造が意気揚々と店を開いたは良いが、当の本人は酒かギャンブルかで金を溶かし、いつの間にやら失踪して以来この工場は忘れ去られた存在になっているのだそうだ。オーランド以前の工作担当官が此処を利用する為にカバーストーリーを用意し、浮浪者やら違法営業をする業者などが出入りするよう見せ掛け、廃墟であるはずの工場に人が出入りした所で周辺住民が気にする事は無くなっていた。CIAの仕事は大抵どこか抜けがあるものだが、何かに嘘をつくという事に関しては天下一品、他の追随を許さないのである。
オーランドは情けない男だが、国立公園のキャンプで家畜の糞尿に塗れながらも自分のセーフハウスの位置をゲリラ共に喋ってはいなかったらしく、待ち伏せやトラップの類は仕掛けられておらず、物資や情報も全てオーランドが把握しているだけ残されていた。
「まぁ、悪くない設備だな」
ぐるりと部屋を見回しヨハンナは呟く。電波遮断措置にレーザー盗聴を防ぐための窓ガラスの振動防止措置、壁紙の裏には防音の内張りがなされ、外部からの視覚的な観察と熱探知を防止する為の欺瞞装置とホログラフィックプロジェクターを備えている。窓にはごく一般的な家庭の様子が映し出され、ご近所様から見ればここがスパイの隠れ家とは判別ができない。たとえ熱線探知をしたとしても、欺瞞装置によってプロジェクターに映し出された偽の風景同様の熱分布が映し出され、外部からの観測を完全に誤魔化しているのだ。
これだけの装備を備えておりながら、肝心の要員がこれではな。とヨハンナは呆れたように鼻で笑うと、おもむろに通信機器に手を伸ばした。
「おいっ、勝手に触るな」
「どうした」
通信機器を弄ろうとするヨハンナをオーランドが咎める。
「協力関係にあると言っても、そいつは機密の塊なんだ。触れてくれるなよ」
「使い方は知ってるぜ、それに、まだ完全に協力するって言ってる訳じゃねえ。まずは事の真偽を確かめに此処まで来たんだ。その為にこいつは使わせてもらう」
「周りにある情報の山を見ろ! これが真実を示しているだろう!」
オーランドは大仰な身振りで周囲の各種作戦資料を示す。CIAが集めたキューバ危機時代の資料に始まり、かつて核ミサイル発射基地が建設されようとした場所の偵察情報、在ハバナ・ロシア大使館の人員の出入りや大使館員の情報まで凄まじい量の物が電子・物理媒体で保管されている。だが、ヨハンナはそれら資料には目もくれない。もしオーランドの言う噂が真実ならば必要にはなるだろうが、今の段階では一切必要ないのだ。
「それも本物ならな。おたくらCIAは人を謀るのがお上手だ。此処に在る物も真実を示すには欺瞞の臭いがプンプン臭いやがる」
「何を言っても信じないんだな」
「人を信じさせるにはお前の信頼度ってのは低すぎるんだよ。このまま下がって行けば信頼度の棒グラフがインドに突き抜けるぞ」
「くそ、分かった、好きにしろ。だが見張っているからな。変な所に繋げようものなら」
「わかった、わかった」とヨハンナは身振りで示しながら通信機器のパネルを操作し、暗号化、傍受対策など、手慣れた手つきで準備を進めていく。マヌエルやサキもその様子を物珍しそうに眺め、顔を見合わせる。
「慣れたもんだな、どこで習ったんだ」
「私は元々電子戦が専門だぜ、この程度できねえでどうするってんだい」
「どう見たって人の頭を素手で割るのが趣味ですってツラしてるのにか」
「お前もココナッツみたいに割ってやろうか。…繋がったぜ、呼び出し中だ」
―――フロリダ州、マイアミ、パーム・ビーチ。
燦々と照り付ける太陽の下、海水浴に訪れた人々が惜しげも無く曝す地肌を焦がし、海では波に乗り、泳ぎ、ボートやジェットスキーを楽しむ。遠く離れたバティスタとはまるで違う。陽気な音楽、酒、踊り、娯楽の全てがある様な光景。その中にアレクサンドラ・"アレックス"・バートレットは居た。
「はいもしもし?」
初期設定のままの着信音、表示は暗号化済みの着信である事を示し、アレックスは若干顔を顰めながら通話を繋ぐ。面倒な、暗号化済みの通話と言えば上司か、そうでなくとも仕事がらみの物である。今は休暇中だぞ。アレックスは語調に不機嫌さを隠さない。
《よぉアレックスか、私だ》
「…」
アレックスは黙って通話を切る。スピーカーから聞こえてきたのは煩い上司や助けを求める情報提供者よりも聞きたくない声。声の主は厄介事の権化、声を聴くだけで運気が下がるヨハンナ・クリーブランドだ。どこでこの番号を知ったかは知らないが、こと電子戦に長けたあの女なら特定するのは朝飯前だろう。アレックスは今すぐにでもクラブへ向かい、魔法の粉でハイになりたい気分に急転直下した。
再び鳴り響く携帯電話。ヨハンナの事である、無視してもいずれは取っ捕まる。携帯が通じないならホテルに、最終的にはこっちにやって来る。それをされた記憶は無いが、奴ならばやるだろうという確信がアレックスにはあった。
《いきなり切るこた無いだろう》
「なぁにさ。こっちは休暇中、仕事は勘弁」
《仕事を振りはしないさ、ただちょっと聞きたい事が》
「ロクでもない事なら切るよ」
アレックスはデッキチェアの上で姿勢を直し、『マイアミ・ビーチ』を一口やる。ウィスキーベースの少しスモーキーな風味に混ざるドライベルモットとグレープフルーツのフレーバー。全体としてはドライな味わいだが、この日差しと熱気の中ではこうしてサッパリ飲める方が良い。
《お前さんのご同業の身元照会をしたい。名前はオーランド。オーランド・オルドリンだ》
「そいつなら知ってるよ。東欧で色々やらかしたアホ。私の関わってた中東の案件にも首突っ込んで来た事あったけど、散々引っかき回した挙句に匙投げて逃げやがったのよ。今はバティスタだかに飛ばされてる筈。兎角役に立たないトラブルメーカーで、拘わらない方が良いよ。そいつがどうかした?」
《私の後ろで話聞いてんだ》
「嘘でしょ、アンタ今バティスタに居るの? それでオルドリンと一緒に? どんな罰ゲームか知らないけれど、さっさと降りた方が良いよ」
呆れ果てるアレックスに、ヨハンナはこれまでの経緯を事細かに説明する。自分達がバカンスの為にバティスタを訪れた事、この時点でバカンスの行き先としては不適切だと馬鹿にされたが、ヨハンナはそれを無視して話を続ける。
事の発端はバティスタ行きの旅客機がハイジャックされた事に始まる。これはアレックスもニュースで知っていた事だ。だがそのハイジャックを解決に導いたのがヨハンナ達であった事までは知ってはおらず、さしものアレックスも舌を巻いた。
その後政府側から用意されたホテルでゲリラのテロ攻撃に巻き込まれ、そこで顔を見られたかどうか知らぬがゲリラ達の殺害対象となってしまう。最終的にはバカンスをぶち壊され堪忍袋の緒が切れたヨハンナは、ゲリラの根城を特定して滅茶苦茶に破壊してやった。端から聞けば出来の悪い映画の様な、あまりにも荒唐無稽な話である。
「相変わらず滅茶苦茶をやる。まぁアンタがどんだけ馬鹿やらかすのが好きかは知ってたつもりだったけど。それでオーランドの馬鹿を運悪く拾ったって事ね、ご愁傷様」
《まぁ、そういうこった。それでもう一つ、野郎がバティスタで何やろうとしてるか調べて欲しいんだ。お前の言う通り相当なトラブルメーカーだってんなら、話してる内容全部嘘っぱちで、私らに何かとんでもない事やらせようとしているのかもしれん》
「仕事まで受けたの? 馬鹿だね、本当に馬鹿だよ。それで、何をさせようと」
ヨハンナがオーランドから受けた仕事の内容を話そうとした瞬間、スピーカーの向こう側で言い争う声がする。大方オーランドが止めに入ったのだろう。工作担当官が回した仕事の内容を、例え同業とは言え内容を漏らすというのは褒められた事では無い。オーランドが止めに入るのは至極当然の反応であった。
「あー、分かった、分かった。こっちで調べる。何かしようとしてるってのが分かれば調べようはあるから。後で連絡する」
《助かるよ、この礼は後日精神的に》
「返す気の無い礼なんて要らないよ」
通話が終了し、アレックスは力尽きたかのようにだらりとデッキチェアに寝そべる。面倒事を振るつもりは無いと言っていたが、この話をされた時点で面倒事に片足を突っ込んでいるのは間違いないのだ。これを上司や事情を知って居そうな者に伝えようものならば、何某かの仕事を振られて休暇が取り消しになる事は想像に難くない。
聞かなかった事にして、全て握り潰して休暇を満喫しようか。アレックスはそう考えたが、そうしなかった。そうするには電話を取った時点で手遅れだったのだ。単にヨハンナとの間だけの話ならばごまかしはいくらでも聞く。後ろ盾のある真っ当なSACの工作担当官と、そこらに掃いて捨てるほどもいる傭兵、証言の信憑性の高さは火を見るより明らかである。
しかし、ヨハンナの後ろであの忌々しいオーランド・オルドリンが話を聞いているとなれば話は別で、この時点でもう後戻りのできない場所に引きずり込まれたも同然なのだ。これでもしオーランドの仕事とやらが失敗したとして、オーランドと言う男ならば「国家の一大事に関わる大事な情報を握り潰した」「緊急の救援要請を無視した」などと法螺を吹いて此方に責任を擦り付ける事が容易に想像できたのだ。いや、過去の事例から既に実証済みであったのだ。
カナダ出身のアレックスは国家に対する忠誠心は一般的合衆国民と同等程度、それか少し低い程度であるが、仕事には真面目と言うのを自負していた。自身のアイデンティティが連合王室旗と星条旗の間にあるアレックスは、国がどうなろうと大統領の首が落ちようと知った事では無いが、自身の仕事と給料査定に関わるならば話は変わってくる。アレックスはグラスの酒を飲み干すと、ある番号をタップして通話を繋いだ。
《どうした、バートレット。休暇中じゃなかったのか》
「ボス、少しだけ聞きたいことが。キューバ絡みで誰か仕事を?」
「どうだ」
「まぁ、コイツの身元の確認は出来た。確かにCIAだが、肝心の仕事に関しちゃまだだな」
ヨハンナは受話器を置き、煙草の箱をとんと叩いて一本口に咥える。
「だから、コイツの仕事を手伝う前に、お前らの目的を先にやっちまおう」
マヌエル達の目的、高速道の渋滞車列で襲撃してきたロシア人達への報復。そもそもの目的がそれであるマヌエル達は、その為に原隊を離れ独自の行動を取っているのだ。オーランドの仕事を手伝うのはあくまで副次目標に過ぎない一行が、そちらを優先するのは当然と言える。
「具体的にはどうするんだ」
マヌエルの問いにヨハンナは吸い込んだ紫煙を吐き出しながら、自分の横に視線を向け、皆がそれに続く。
「良い生餌が居るんだから、使わない手は無いだろ?」
視線の向く先はオーランド。ロシア人の目的はオーランド本人か、持っている情報か。それは定かでは無いにせよ、撒き餌としては充分の存在である。自らを餌にされたオーランドは全員の視線に半ば動揺を隠せず、抗議の表情を浮かべ、何事かを喋ろうか口をぱくつかせるが、本人の意思など関係なしに既に決定事項とされた状況に閉口してしまった。
具体的なヨハンナの作戦では、流石にオーランド本人その物を餌としては使わない。まかり間違って死ぬような事があれば今後の立ち回りに難儀するのは目に見えている。ヨハンナとしてはオーランドの生死などどうでも良いが、自らが面倒な立場に立たされるのは御免被りたいのだ。
手始めにオーランドやマヌエル達の全身をスキャンし、立体映像用のモデルを作成する。現代の技術であれば、T字ポーズで全身の写真を撮るだけで細部をAIが補正し、そのモデルを用いれば映像の中に精巧な人物を合成する事は造作もない。細かい服装や武器装備は映像制作用のアセットが関連サイトでいくらでも入手する事が可能で、20年代初頭ならばまだCGである事は身破れたが、現在では殆どが現実と見比べて遜色ない物である。
次にセーフハウスの機材を使用し、サンタ・クララ市内、郊外問わず周辺のセーフハウスや通信拠点を介してオーランドに関わる情報を流布、勿論ロシア人達が身破れる程度の暗号化を加えてである。内容は概ね同じで、オーランドの護衛についていた特別行動センターの作戦要員への救援要請や、本国への情報支援など、オーランドが脱出や雲隠れをすることなく本格的に作戦行動に出た事を示唆するもので、これはロシア人達の積極的行動を誘発する目的があっての事だ。
だがこんな見え透いた撒き餌と罠に素直に飛びつく程ロシア人達も馬鹿ではない事は百も承知である。こんな事をせずとも待っていればいずれは此方を補足する事は間違いないが、それが明日か、数年後かは定かではない。状況を動かす為に積極的行動に打って出なければならないのはヨハンナ達も同じことであるのだ。しかし、受動的に動くより、能動的に行動する事でイニシアチブを得る事は重要である。盤面を自らの手によって動かせば、例え敵が予想外の動きをしたとして、場を支配さえしていれば状況の掌握とリカバリーは容易いのだ。
「上手く行くと思うか」
諸々の準備を済ませつつある中、日が暮れかかったサンタ・クララの町並みを背後に煙草を吹かすマヌエルが問う。現在のところ全てヨハンナの頭の中に在る作戦を進めている。都度説明こそあれど、得体の知れない、マヌエルらオペレーター達には前例のない作戦を遂行しようとするのは、些か不安に駆られるという物だ。
「さぁね、向こうの出方次第だな。場合によっては中止もありうる」
「おい、しっかりしてくれよ。お前の口車に乗ってやったのは博打を打つ為でも奇を衒ったトリプルCを決めてやる為でも無いんだぞ」
「可能な限り不確定要素だのなんだのは潰すがね、全部が全部把握できるわけじゃないのは分かってるだろ? それに相手が相手だ、なんせ前線鉄火場のど真ん中でリアルタイムにハッキングしてくる連中だ。思い当たる相手は一つあるが、予想が当たってたら中止の方が確率はある」
「おい…」
呆れるマヌエルを尻目に、ヨハンナはキーボードを叩き、真偽入り混じった情報をネットワーク上に拡散する。やっと一息といった具合に伸びをするヨハンナの下に、サキがコーヒーカップを二つ持って現れた。芳醇な香り立つ湯気が昇るキューバコーヒー、ベストタイミングの差し入れにヨハンナは笑みを浮かべて受け取ると、サキも一口コーヒーを啜った。
「イライアス、俺の分は」
カップは二つ、一人分が足りないとマヌエルは抗議するが、帰って来たのは「そんな物は無い」と言いたげな、眉間に皺を寄せたサキの表情だけ。こうも邪険にされては仕方がない、とマヌエルは渋々自分で淹れようとその場を離れていった。
「どんな調子?」
「細工は流々仕上げを御覧じろってトコだが、どうなるかはまだわからん。やっとこスタートラインだからな」
「やけにやる気だね」
「馬鹿言うなぃ、そんなんじゃねえや。やるからにゃ手抜きはご法度ってだけだ。罠に嵌めるつもりがチョンボしてテメエのド頭をクソ壺に突っ込んでちゃ意味がねえんだ。アイツはどうしてる」
ヨハンナは煙草を箱から取り出そうとするが、最後の一本だと気づいてそれを戻す。最後の一本は仕事が終わってから。それか買い物に出ている奴らが気を利かせて調達してくれていれば。と箱を懐にしまいこんだ。
「相変わらず部屋でうろうろ、独り言をぶつぶつ。下手な事されないように通信機器は取り上げて、部屋も見張りを置いてるけど」
「それでいい、これ以上厄介事を増やされちゃかなわんからな。武器の状態はどうだ。私としちゃ30口径のライフルかカービンがあればいいんだが」
「メインのセーフハウスって事だからね。物はそれなりの数はあるけど、ご所望の30口径は無いよ」
ヨハンナは悪態をつき、ぐいとコーヒーの残りを一口に飲み干す。そのとき、携帯端末がポンと通知を鳴らした。端末を手に取り画面を眺めるヨハンナの顔に下卑た笑みが浮かぶ。
「ビンゴ、奴等早速食いついたぜ」
端末の画面には、複数の不正アクセスと、逆探知の結果が表示されていた。それはヨハンナが望んだ物であり、作戦開始の合図であった。
「さあ、狼狩りと行こうぜ」




