神社でフワッとしたお願い事するのはやめたほうがいい。
神社は逃げ込むにはいい場所だ。探せばあちこちにあるし、鳥居が結界の役割を果たすので、悪いものは入ってこられない。ただ虫が多いのには困りものだ。八月は大学では夏休みに差し掛かる時期で、まだだいぶ元気なセミの声が鼓膜に突き刺さる。鳥居の奥に走りこんだ飛鳥は、膝に手をついて乱れた呼吸を整えた。
肩越しに鳥居の外を見やると、複数の目と目が合ってしまった。ただ顔は一つで、車ほどの大きさの『なにか』は、手足を蜘蛛のように動かしながらこちらの様子をうかがっている。しばらく時間をつぶしたほうがよさそうだ。目を背け、そろそろと石段をのぼる。
綾巳町はおかしい。田舎の祖母の家で暮らしていた小学校時代から不思議なものは視えたが、大学生活に伴い綾巳に来てから、異常なほど遭遇頻度が増えた。あれらを何と呼べばいいのかは分からないが、良いものでは決してないと確信していた。だからこうして鳥居の中に逃げ、嵐が去るのを待つように息をひそめるのだ。
「(もうちょっとで家だったんだけどなぁ)」
人生なかなかうまくはいかないものだ。まあいいか、帰りに夕飯を買って帰ろう。我ながら、先ほどまで怪異に追い回されていたとは思えない平常心だが、これも慣れがなせる業だ。最近の綾巳は夏でも少々肌寒い。カーディガンの襟を直し、曇天を見上げながら足を動かす。
怪異に追われるたびに神社へ逃げ込む飛鳥だが、ここに立ち寄るのは初めてだった。狛犬と肩を並べると、遠くに住む町の屋根が見えるほど高い。気温が低いにもかかわらずセミだけは異様に元気で、つんざくような鳴き声が耳に刺さってきた。
わざわざ拝殿まで上ってきたのは、匿ってもらったお礼にお参りでもしていこうと考えたからだ。財布から五円玉を出し、すっかり塗装が剥げ脱色した賽銭箱に放る。見様見真似で柏手を打ちつつ、ふと顔を上げて拝殿を見た。
神社が主に本殿と拝殿で構成されることは、体質上、神社を訪れる機会が多いので覚えてしまった。本殿とは御神体を安置する場所であり、賽銭箱が置かれている拝殿のさらに奥にある。真正面から入ってもまず見えない場所だが、神社を出て横から見ると確認することができる。人が入るための場所ではないため、建物とはいっても非常に小さい。
そして飛鳥の目の前にある、真鍮製の鈴が下がった建物が拝殿。初詣の際に参る場所で、人を上げて祈祷を行うこともあるが、それにしてはこの神社の拝殿は小さかった。
拝殿は飛鳥が立って入れるほどの広さしかなく、格子状の戸には御札がびっしりと貼られている。薄暗いので中は見えないが、暗い──暗い空間から、誰かにじっと見られている気がする。
「(なんか、不気味だな……)」
不意にむかし観たホラー映画を思い出してしまう。劇中でこれに似た障子から、人の手が複数うわぁっと出てくるシーンがあった。適当にチャンネルを変えていたさなかの出来事だったので、しばらく寝つきが悪くなるほどにはトラウマになったものだ。執拗なまでに貼られた御札にしても、雰囲気があって薄気味悪さが増す要因になっていた。この御札の奥から、本当にぬっと腕が出てきたりして……
嫌な想像を頭を振って追い出し、そうだ、お参りをするのだったと思いなおす。手を合わせ、まずは「助けてくれてありがとうございました」と声に出してお辞儀をする。その後のことは考えていなかった。少し悩んだ末、なにかお願い事でもしてみようか、と閃いたわけだ。
「(変なものに遭わないようにしてほしい……かな? いや……)」
たしかここは縁結びの神社だった気がする。ならば、それに沿った願い事をしたほうが良いだろう。もう一度柏手を打ち直すところから始め、深々と頭を下げるまでの間に考える。縁結び、彼女が欲しい? いや、神頼みで結ばれた縁など長続きするのだろうか、と神前でなかなか無礼なことを考える。就活はまだ先だし、良縁を結んでもらうなら……
「ええと、それじゃあ、”友達ができますように”っと」
大学は学部ごとにカラーがある。同じ教室で過ごす者なら大抵は話が合うのだが、飛鳥は三年経ってもなかなか周りに馴染めずにいた。というのも、飛鳥と行動を共にすると体調を崩す生徒が多いのだ。それもこれも飛鳥に付きまとう怪異の仕業だ。頼んでおきながらなんだが、これで友達ができたとしても、またすぐ離れて行ってしまうんだろうなぁ、とトボトボ帰路につきかけた、その時。
「はい、もちろん」
低い声が背後から聞こえた。とっさに振り向くが、境内には誰もいない。目だけ動かして周囲を一分ほど探ったが、それっきり声はしなかった。木の葉がこすれた音でも聞き間違えたんだろう、と思うことにしたが、それでも気味が悪くて足早に石段を下りた。外に怪異の姿はない。飛鳥を見失って去ったのだろう。今のうちに早く家に帰って、今日のことは忘れてしまおう。だって。来た道を振り返った。覆いかぶさってくるような曇天と相まって、鳥居の中は重苦しい雰囲気を醸し出している。
だってあの声は、拝殿の中からだった気がするから。