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比べもの

作者: 夕奥真田


人の死を笑った事がある。


家族であるはずの姉の死を、笑った事がある。


死に方が滑稽だったからではない。


悲しみで心がぐちゃぐちゃになっていたからでもない。


ただ、嬉しかったから。


邪魔者で、目障りで、憎くかった、姉が死んだ事が。








「冗談じゃない!」


薄っぺらな食器に盛り付けられた、溢れんばかりの豪華な料理が宙を舞い、顔をほんの少し近づけただけでも香る、芳醇なワインが純白のテーブルクロスを朱に染めた。


向かいの席に座る、身嗜みや礼儀作法こそそれなりなものの、喋らなくては、まるでその存在そのものを忘れてしまいそうな、何とも面白味のない貴族夫婦は慌てて、手に持っていた食器を置き、弁明を始める。


「お、お怒りになるのも、無理はありません……。し、しかし……」


「しかし、何!?」


「ひっ……!」


もう一度強く両手をテーブルへと叩きつける。


じんわりとした痛みが、掌から伝わる。


しかし、そんな些細な痛み如きに顔を歪められる程、怒り一色に染まりきった僕の表情にゆとりはなかった。


近くにいた使用人たちの殆どが、その手足を止め、怯えきった目を、弱った魚の様に泳がせている。


驚きよりも、焦りの色の方が濃いあたり、彼らもまた、“事情”を知っているのだろう。


屋敷総出の“演技”。


その下らない事実は、余計に僕の腹の内を熱くさせた。


弱小貴族の分際で。


自らの身分を盾に、他人を蔑ろにし、威張り散らすものではないと、父からはよく注意され、僕自身その言いつけを守ってきたつもりではあるが、それでも、こんな仕打ちを受けては、どうしても堪えようがない。


周囲の使用人たち含め、目の前に座る貴族夫婦たちを、射殺さんばかりに睨む。


皆一様に身体をびくりと震わせ、季節にそぐわぬ汗を顔に滲ませるものの、改めて口を開こうする者はいない。


人知れず、料理を口に運ぶ“彼女”を除いて。


顔を軽く伏せながらも、視線だけをぶつけ、互いに責任を押し付け合う、醜い貴族夫婦の横。


二つ、いや、あと三つ程椅子を置けそうなくらいに距離を空けた、違和感のある場所に、彼女は座っていた。


仮に僕を騙し通せたとすれば、今一件において、主役と呼べるであろう、重要な立ち位置にも関わらず。


一体、どういうつもりなのだろうか。


もはや罪を自白するつもりもないらしい、情けない夫婦から、彼女へと視線をずらす。


ナイフとフォークを使いながらも、微かな物音すら立てず、目の前の料理を静かに平らげていくその様は、幽霊の様な夫婦によく似ている。


しかし、料理を口に運ぶ瞬間すら崩れぬ、両目を薄く細めた、何処か眠たげで、柔らかなその微笑みには、本物の幽霊の様な不気味さを感じる。


また、元より、会話も弾まぬ坦々とした食堂だったとはいえ、それを雪降る夜の様な静寂に改めた、僕の怒声にすら、反応らしい反応を示さなかったのも気掛かりだった。


豪胆なのか、鈍いのか。


いや、こんな茶番を演じるあたり、恐らく前者なのだろう。


そっと、席を立ち、身体をびくつかせる者たちを横目に、彼女の元へと歩み寄る。


目の前の席に座っていた時には、特段気になりはしなかったのだが、彼女の周りには、一際強い化粧の香りが漂っており、それは僕の顔を更に歪ませ、眼力を強くさせる。


しかし、やはり、彼女がこちらを気にかける様子はまるでない。


後ろで簡単に結ばれた、光の加減によっては白髪の様にも見える、薄金色の髪を微かに揺らしながら、変わらず食事をとり続けた。


致し方無し。


僕はそんな彼女の目の前に、再び手を叩きつけ、ぐっと顔を寄せる。


「ちゃんと、説明してもらえるかな?次期当主“君”?」


「……」


そこまでしてようやく、彼女、いや、“彼”の青い瞳がこちらを見つめ返した。







思えば、初めからおかしな話ではあった。


何処からともなく転がり込んできた、何処の者とも知れぬ、奇妙な縁談の話。


それを執拗に勧めてきた両親の、切羽詰まったかの様な、異様な態度。


承知もしていないのに、まるで下書きがあるかの如く、酷く順調に進んでいく段取りの良さ、など。


人生初めての縁談に、ほんの少し、ほんの少しだけ浮かれていたとはいえ、怪しむべきものを怪しまず、疑ぐるべきものを疑わなかったのは、やはり間違いであったらしい。


はぁ……。


切ない現実から逃げる様に、顔をベッドに埋めてから、幾度目かは勿論、いつ尽きるとも分からぬ、重いため息が、また勝手に口から漏れ出す。


いくら嘆いたとて、悲しんだとて、今更何も変わりはしないのに。


「ネリー“君”、か……」


ため息混じりにその名を呟くと、つい先程まで顔を突き合わせていた“彼”の、その不気味な笑顔が脳裏に浮かんだ。


威嚇し、威圧し、胸倉すら掴み上げたのに、決して消えなかった、あの笑顔が。


気に入りはしない。


全てが嘘であると露呈しても、自身を女性であると、本来ならば縁談の相手となるはずであった、彼の姉、“ネリー”であると、その笑顔のままに告げ続け、譲らなかった、あんな“彼”の事など。


しかし、それと同時に、どうにも彼を憎み切れず、遣る瀬無い想いを抱く心もまた、何処かにあった。


どの様な因果で、彼があんな嘘をつかねばならぬ身の上になったのかは知らない。


思えば正直、その理由を、彼の口からは、聞きたくもなかった。


だって、それはきっと、笑って話せるようなものではないのだから。


食堂において、度胸無しの夫婦を見切り、怒りのままに、彼の口を割ろうとしてしまったことへの罪悪感が、胸の内を締め付けだす。


じわじわと、まるで多足の虫が這い回るかの様な、その気色の悪さと、息苦しさに、うつ伏せていた身体を仰向けにする。


そして、乱暴にシャツのボタンを外し、服の中へと手を伸ばすと、力任せに、胸部に巻いた“晒”を緩めた。


暖炉が灯りながらも、それでも未だ少しだけひんやりとした部屋の心地良い空気が、服の内、晒の内へと潜り込む。


それらは、動いた訳もないものの、熱に蒸れ、冷汗に濡れた胸の、ともかく不快なものを、撫でる様に優しく、取り払ってくれた。


ついで、腰のベルトも解くと、更に気分は安らいだ。


ただ、それでも、全てではない。


呼吸を乱れさせ、胸腹に痛みにも似た何かを感じさせた、大きな罪悪感は拭われても、胸を閊えさせる、何処にあるとも言い切れぬが、確かに感ずる、棘の様な、小さくも鋭い、微妙な違和感や不快感ばかりは、どうしても消えない。


いや、本当は、何処にあるかなど、分かりきっていることだろうか。


ただ、認めたくない、晒したくないだけなのだ。


解けた晒を押し上げる、とても男のそれとは思えぬ程に膨らんだ、柔らかな二つの乳房と、逆に微かな膨らみすら無い股間。


それらが示す、僕が、本当は“女”であるという事実を。







良く似合っている。


不思議なまでに丁度良い寸法の衣類を、何とか身に纏って見せた時、両親はにこりと微笑みながら、そう告げた。


乾かすのが面倒で仕方の無かった、肩程まであった長い髪や、動き辛く、事あるごとに何かに引っ掛かってばかりであった洋服など、鬱陶しくも、それまで自身を彩ってくれていたものたちとの別れに、終始戸惑い、悲しんでいた当時の僕にとって、その言葉はひどく有り難いものだった。


父が認めてくれるのなら、これで良いのだ。


母が喜んでくれるのなら、これで良いのだ。


鏡に映った、僕に良く似た“女の子”の顔が、今にも涙を流しそうな、哀しげなものから、これまで見たことのない程、明るい笑顔を浮かべる“男の子”ものへと変わったのをよく覚えている。


でも、その眩いまでの笑顔の代わりに、屋敷から、大嫌いで、邪魔者であった、兄の姿が消えた。


僕が“あの事”を、大好きな母に、振り返って欲しい父に告げた昨日まで、確かにあったその姿が。


ただ、部屋に置かれていたはずの私物はおろか、廊下に飾られた写真や絵さえ無くなり、まるで初めから存在などしていなかったかの様に扱われていく、兄の行方を、僕は一度も尋ねたことはなかった。


興味、関心が無かった訳ではない。


消えてしまうことさえ時折願う程に、大嫌いであった兄とはいえ、大切な家族の一員に違いはないのだから。


なんて、心の、それこそ何処かで小さく思いながらも、それでも、兄の事を口にする事が出来なかったのは、単に色々な事が怖かったのだ。


兄の秘密をばらし、あまつさえ、屋敷から追いやったことへの罪悪感。


兄が消えたことで得た、両親からの愛情と幸福を、また失うのではないかという恐怖。


それらに足が竦んでしまっただけなのだ。


そして、適当な言い訳をつけて、ずっと目を逸らしてきたのだ。


兄は変人なのだとか、兄はずっと甘やかされていたとか、兄より自分の方がずっと優れているとか、その日毎に変わる言い訳を頭の中で、ぐるぐると唱え続けていただけのだ。


そんなだから、だろうか。


いつの間にか、兄の代わりに得たはずの笑顔さえ、無くなってしまったのは。







怒りと気まずさに背を押され、大人気なくも、早々に夕食を終えてしまった故か、ゆったりと湯浴みを終え、用意された寝巻きに着替えても、床に就くには、いくら早寝としても、余りある時刻であった。


さて、どうしたものだろうか。


我が家の物と比べると、大きさや広さなど、些細な点では劣るものの、それでも本質や本来の意義は何ら変わらぬ、浴室で十分に温めた心身を、再びベッドに横たえながら考える。


我が家であれば、書斎にでも行き、本の数冊でも持ち、それを読んで時間を潰せば良いのだが、いかんせん、此処は人様の屋敷。


書斎の場所など見当もつかぬし、そも、先程の件により、出歩く事すらどうにも躊躇われる。


ましてや、それが、寝るまでの暇潰しなどという、ひどく手前勝手な理由であれば尚更に。


こんな事ならば、もっと自分の持ち物を持ってくるべきであった。


今更ながら、道中の容易さに喜んでいた、今朝方の自分に対する後悔や苛立ちの念が湧いてくる。


結果はどうあれ、縁談などすぐに決着するものだから、荷物など何も要らない、そう告げた、恐らく全てを画作したであろう母の、有り難い助言などに耳を貸すべきではなかったのだ。


温かさ故か、寒さ故か、白く色づいた溜息を思い切り吐き出す。


それから、入った時には、身体を休めるベッド以外に、碌に目もくれなかった部屋中を、今度は隅々まで見渡した。


もはや本でなくとも良い、ただ、この茶番じみた現実や彼の事を、眠るまでの一時でも忘れられる、何かそんな物を探しながら。


しかし、結論から言えば、そんな物は見当たらなかった。


客室として使わせるだけあり、埃や汚れなど、嫌悪感を催す物のない、手入れの行き届いた部屋には、落ち着いた意匠ながら、如何にも高価そうなシャンデリアや絵画、クローゼットに机、食器棚などが、点々と設置されているだけで、これといった、暇を潰せそうな物は何もないのだ。


一人でお茶を嗜んだり、美術品などを愛でたりもするが、それは専ら、貴族としての、礼儀作法的な意味合いが強く、やりたくないとまでは言わないが、嫌な事や不安を忘れられる程、熱中出来きそうもない。


ただ、ではそのまま落胆と共に、身体を再びベッドへと倒したかというと、そうでもなかった。


というのも、せいぜい寝泊まり以外には使わぬはずの客室にしては、いやに家具が多いことに、何となく違和感を感じたのだ。


屋敷側の、正直に言えば不要な、配慮だと言われれば、それ以上の事はないのだが。


服を仕舞うクローゼットやちょっとした机などは兎も角として、食器棚まで備えつける必要などあるのだろうか。


人をもてなすには、十分過ぎる程の応接室も、食堂もあるというのに。


何故なのだろう。


そんな事を、ぼんやりと熱の籠った、到底埒など明かせぬであろう頭で考えながら、ベッドから降り、それら家具に近寄る。


見た目では分からなかったが、取手などに触れると、その手触りは見た目に反し、決して良いものではないことが分かった。


錆びつき、傷つき、擦り減った様な、正に使用痕と呼ぶべき凹凸に塗れているのだ。


クローゼットや食器棚など、触れられそうな家具全てに触れてみたが、例外はない。


どれもが一様に、少なくとも、数年以上は誰かに、それも粗っぽく使用されていた形跡を、身体中に残している。


また、よくよく目を凝らし、手を当ててみると、張り替えられたばかりであろう、美しい壁紙も同様に、おかしな凹みや引っ掛かりに形を捻じ曲げられているのが分かった。


存外に、粗野な部屋を宛てがわれたものだ。


ふやけた指の柔肌を、それら凹凸に這わせつつ、今一度部屋中を見渡すと、特別怒るつもりも、呆れるつもりもなかったのだが、それでも、自然、肺から生暖かな息が漏れ出した。


やはり僕は、高慢ちきなのだろうか。


単なる客室ごときでさえ、期待通り、或いはそれ以上のものを与えられなくては、満足出来ぬ、強欲者なのだろうか。


いや、そんなはずはない。


自身の心に問いかけるように、力無く瞼を閉じるも、そんな風に強く否定してくれる自分は何処にもいなかった。


代わりに思い浮かぶのは、大嫌いな兄と、不思議な事に彼、ネリーの姿だった。


彼らは、無表情で僕を見つめていた。


怒る訳でも、嗤う訳でも、悲しむ訳でもなく。


二人の正体が、単なる僕の心の弱さ、脆さによって出来上がった、幻想や妄想であることは分かっている。


搔き消すのは、実に容易い事であった。


兄に対しては、昔からずっとそうやってきた様に、自身の嫉みを正当化し、弱さを否定し、両親を盾にすれば良いのだから。


彼に対しては、先程と同じく、僕を騙そうとしていた事を非難し、隠しようのない事実を、彼自身の身体に証明させれば良いのだから。


でも、そんな事はもう出来なかった。


いや、したくなかった。


所詮自身の生み出した、単なる想像であるとはいえ、どうしようもない負い目を感じる彼らを、再び傷つけるのが嫌だった。


そして、彼らという存在を否定する事は、今ある自分自身や厳しい現実から目を背け、また逃げ出している様な気がして、とても情けなかったのだ。


昨日の今日まで、ずっと逃げ回り、それに対する罪悪感すら直視出来ずにいたというのに、何故、今更になって、そんな情けなさに駆られるのかは、自分自身、正直よく分からない。


それに、逃げずに受け入れたところで、何が変わるという訳でもない。


ただ、ただ何となく。


このままじゃ良くないとか、何とかしたいとか、そういう気持ちを、ほんの少しだけ、思い出したような気がするのだ。







その扉を前にすると、自然、背筋や額などに、先程じっくり洗い流したはずの汗が、またじわじわと噴き出してきた。


ほんの少し前まで熱っていた身体が、すっかり冷え切る程に。


屋敷の使用人たちに、彼の部屋を尋ねる時も、食堂で晒した醜態からくる羞恥心や、悔恨の念によって、同じ様に気色の悪い冷汗を垂らしたものだが、もはやそれの比ではない。


今更ながら、早々に部屋へと戻り、再び湯浴みをし、そのまま無理矢理にでも床に就いてしまいたくなる。


しかし、部屋へと案内してもらう道すがら、聞かれてもいないのに、彼への謝罪の為、彼を良く知っておきたいからなどと、妙に浮つき、開かずにはどうにもいられなかった口から、そんな様な事を漏らしてしまっている手前、今頃その様な事出来る訳もない。


是非もなし。


目に入りそうになる額の脂汗を拭い、震えそうになる手を硬い握り拳へと変えて、目の前のドアをノックする。


「や、夜分遅くに……い、いや、そんなに遅くもないか……。そ、その、レギーナだけれど、す、少しだけ、話す事は出来ないかな……?も、勿論、君が怒っているのは……」


声を掛けるでも、特別気に掛ける訳でもないものの、しかし、自然、身を捩り、縮こめたくなる様な、何とも言えぬ視線を送りつけてくる使用人たちを、横目で見送りながら、羞恥と汗に冷えた喉を震わせ、予定していたはずのものとは全く異なる、おかしな抑揚のついた言葉を次々と絞り出し、紡いでいく。


だが、幾ら安上がりで、上っ面な言い訳を並べ立てても、部屋からノックへの返事らしい返事は聞こえない。


もう眠ってしまっただろうか、それとも、入浴中なのだろうか。


頭ではそんな予測を立てながらも、身体は震える拳を何度も、何度も、絶えず扉へと打ち続けさせた。


身を蝕む様な、例の羞恥心と罪悪感から、一刻も早く逃れたかったのだ。


しかし、やはり、扉は開かない。


次第に口が何を喋り、叩きつける拳が何処に当たっているかも分からなくなる程に、心の中の彼らへの恥じらいの気持ちや申し訳無さが、理不尽極まりない怒りへと変貌していく。


そんな怒りに呼応する様に、力強く脈打つ拍動音に揺さぶられ、それ以外は何の音も聞こえないでいた鼓膜に、不意に、かちゃりと、高い振動音が一筋届いた。


慌てて振り上げていた拳を引っ込めると、それから間もなく、扉がゆっくりと開き、彼が顔を覗かせた。


ひゅーひゅーとおかしな音を立てながら、力無い呼吸を小刻みに繰り返す、焦点の合わせきれぬらしい瞳は真っ赤に充血し、口元にはやや黄色がかった固形物と涎を付着させ、強烈に嗚咽を誘う刺激臭を漂わせた、真っ青な顔色の彼が。


声を掛けるまでもなかった。


ドアノブに寄りかかる様にして、何とか立っている彼を慌てて抱き止めると、すぐさま近くに屯していた使用人たち目掛けて大声で助けを求める。


彼らは実に素早かった。


ほんの一瞬、僕の声に驚いたらしい素振りを見せたものの、それ以降は、慌てる様子もなければ、戸惑う様子もなく、まるで規程でもあるかの様に、それぞれ粛々と行動してくれた。


ある者は、彼の汚れた顔や服を拭き清め。


またある者は、部屋の様子を確かめに行き。


そして、ある者は掃除道具や医療箱などをすぐさま持って来る。


僕が怒りを露わにした食堂おいては、情け無く身を縮こめていただけの彼らの姿は、何処にも無かった。


怒りへと様変わりしていたものが、再び羞恥や罪悪感へと戻り、そこからまた、敬意や称賛へと変化していく。


ただ、それら思いを伝えたいかと問われると、そんな事は出来そうになかった。


それは、彼らに対しての、恥ずかしさからくる躊躇いというのもあるが、何よりは、彼らへの違和感故だった。


勿論、彼らの迅速な行動それ自体は、大変に褒めるべきものだ、それに異論はない。


だが、その如何にも億劫そうな、少なくとも彼の容態を心配のする気は、毛程もないであろうことが容易に分かる、一様に浮かべられたその表情だけは、どうしても受け入れ難かったのだ。


何故、そんな態度を取っていられるのだろう。


確かに、夕食時の事を思い起こせば、彼は異様と言っても良い程の量を食していた。


それ故、後々お腹を痛めるのではないか、嘔吐するのではないかという予測がつけられていたとすれば、分からぬ話でもない。


それに、食堂において、意地でも嘘を突き通そうとした、その尋常ではない様子から察するに、彼は使用人たちからやや疎まれている存在なのかもしれない。


でも、それでも、やはり納得はいかない。


主従関係なく、嘔吐する程に体調を悪くした者に対して、そんな無慈悲な表情を浮かべる事に関しては。


今にも愚痴や溜息、舌打ちすら漏れ出さんばかりに、呆れ、或いは嫌悪の感情を滲ませながらも、忙しなく動き続ける使用人たちを見つめていると、その内の一人が傍に膝ついた。


「申し訳ありません、レギーナ様。後は我々の方で処理しておきますので、今夜はどうか御部屋にお戻り下さい」


「……」


「レギーナ様……?」


「分かりました……。では、僕はこれで……」


ようやっと、深く落ち着いた呼吸を繰り返すようになりながらも、触れていれば十分に、その身体を震わせている事が分かる彼を、そっと使用人へと明け渡す。


出来る事ならば、違和感拭いきれぬ使用人たちに全てを任せたくはない。


しかし、かといって、僕が此処にいたところで、特段何が出来るという訳でも無い。


せいぜい、変わらず意味もなく周囲を睨みつける事くらいだろう。


それに、よくよく考えてみると、僕が此処、彼の元に留まりたい理由は、別に彼を心配し、慰め、世話をしたいと思ったからではない。


彼に食堂での事を謝り、この胸を締めつける、羞恥心や罪悪感を今日の内に消し去りたい、或いは、これまで嫌な事から逃げてきた自分自身を変えたいという、どちらにしても身勝手な考えがあるからだ。


その為、僕は彼に固執しているのだ。


であるならば、今このどさくさに紛れ、彼に謝罪してしまうべきだろうか。


満足な意思疎通も取れぬであろう今の彼に謝れば、周囲は兎も角として、彼から嫌味や小言を言われる心配はない。


謝罪したという事実を根拠に、自分勝手な解釈でもって赦しを得られたとし、心の安寧を取り戻す事も出来るだろう。


僕はそっと立ち上がり、代わった使用人に抱きとめられる彼を見下ろす。


身体と共に口を微かに震わせ、虚な瞳をした彼のその様は、正に虫の息と表しても、少しもおかしくはない。


嘔吐する事自体、非日常的な事である僕にとって、それが異常な様子なのか、或いは、在り来りな事なのかどうかはよく分からない。


ただ兎も角、僕はそんな彼に、そっと頭を下げ、それから、音を殺す様にして、自室へと向かって歩き出した。


勿論彼は、返答らしい言葉も、仕草も、返してはくれなかった。


だが、気にしはしない。


だって、あれは謝罪でも何でもないのだから。


あれは単なる、別れの挨拶に過ぎないのだから。







はぁ……。


深い溜息か、安堵の吐息か、こめかみ辺りの痛む、明瞭としない頭では、それすら判然とせぬものの、暗がりでは、その豪華な装飾も意味を成さぬ厚いカーテンと、その奥に薄いレースの掛かった窓から、淡い色の光が微かに入り込んできているのを、もはや何度見渡したかも分からぬ程見渡した部屋の中に、ようやく見つけると、そんな吐気が肺から漏れ出した。


ベッド横の机に置かれた、これまた何度見返したかも分からぬ置き時計の方に目をやると、それもまたようやく、朝と読んでも、それ程差し支えない時を指し始めている。


朝、ようやっと、朝。


気怠く、動かす事も億劫ながら、しかし、かといって、横にしていても、何となく不快感の募る上体をゆっくり起こす。


柔らかく、温かな毛布から抜け出た身体に、暖炉が消えて久しい、部屋の冷たい空気がすぐさま寄ってくる。


本来ならば、大きな身震いの一つでもしてから、慌てて毛布の下へと戻り、固く目を瞑るのであろうが、気がつくと、薄暗い部屋と時計ばかりを見つめ、少なくとも、眠りに落ちた記憶や感覚のまるで無い、重たい頭と身体には、そんな寒気すら、何処か心地良く感じられた。


本当、情け無いな。


相応に長かった馬車移動に、初めての縁談など、身体的には勿論、精神的にも、疲労を溜めるには十分過ぎる程のものを体験しながら、彼への、煮ても焼いても食えぬ想い一つの為に、こうも眠れず、悩まされ続けているというのは、もはや、怒りや呆れを通り越して、情けなくなってくる。


やはり、強がらず、良い人間振らず、形だけのものであっても、彼へ謝罪するべきだったのかもしれない。


そうすれば、少なくとも、こんな気怠い思いはせずに済んだだろうに。


尤も、多少僕が寝不足であったからといって、今日一日の動きに、何かしらの影響があるかと問われれば、そんなものは何一つない。


仮に部屋から一歩たりとも出ずとも、恐らく、何の問題もなく、例の縁談は着実に進んでいくことだろう。


全く、予定通りに。


昨晩に関しては、その動揺のあまり、身の程も大人気なさも弁えず、彼や彼の両親に対して憤慨し、恰も今回の縁談を、破談させんばかりの勢いを見せつけたものの、冷静に考えてみれば、破談などという決定を、少なくとも、僕の一存、想いだけで、決められるものではない。


必ずや、両親が介入し、最終的な決定は彼らが下すこととなる。


とどのつまり、この縁談が立ち消える事は、恐らくないのだ。


当然だろう。


この縁談それ自体、彼らが仕組んだものなのだから。


本当は女でありながら、男を演ずる僕と、本当は男でありながら、女を演ずる彼。


この出逢いが、何の脈絡も無く生じる可能性など、努めて探さぬ限り、そうそうあるものではないだろう。


そう、努めて探さぬ限りは。


とはいっても、勝手な縁談、それも相手が一癖も二癖もありそうな彼を見繕ってきた両親を怨み、憎むつもりは毛頭ない。


むしろ、感謝さえしている。


本当は女である僕にとって、あまり持ち出して欲しくない、触れたくない話題でもある、結婚や跡目の話を、両親自ら振ってきてくれたのだから。


彼らの寵愛を得ようと、兄を追い出し、それに成り代わったとはいえ、それでも、その全てが兄となった訳ではない。


どんなに髪型を似せても、どんなに体型を寄せても、女である僕に、女性を孕ませる能力は無かった。


跡目である息子を産むことは出来ても、誰かに産ませる事は出来ないのだ。


勿論、内密に子を儲ける、または、養子を得る事で、体面上は誤魔化せるだろうが、それでも、両親への負い目や後ろめたさ、そして、いつしか愛情を向けられなくなるのではないかという恐怖心は、常に心の内に揺蕩っていた。


それ故、いずれは彼らの悩みの種となると、頭では理解しながらも、兎角結婚などの話を、僕は避け続けてきた、考えないようにしてきた。


女である事を否定し、彼らが望む様な、男であろうとしてきたのだ。


しかし、そんな中、今回の縁談の話が持ち上がり、彼と出会った。


案外、僕の胸が高鳴り、心躍ったのは、初めての縁談それ自体ではなく、両親が自分の事を未だ大切に想い、考えてくれているのだと、再認識出来たからなのかもしれない。


だから、この縁談を破談にする事など、僕としても本望ではないし、有り得ない事なのだ。


愛する両親が自分などの為に、せっかく見つけてきてくれたのだから。


それに、昨晩は怒りのあまり、彼に辛く当たったものの、心の底から彼の事が大嫌い、という訳でもない。


むしろ、境遇の似た彼に、何処か共感の様なものを、慰めの様なものを、愛情の様なものを求めている自分も、確かにいる。


はぁ……。


力を込めねば、身体ごと揺れてしまいそうな程に重い頭を支えながら、また一つ大きな吐息を漏らす。


それから、ゆっくりとベッドを抜け出すと、素足のままに、淡い光を足下に落とす窓辺へと歩み寄り、暗闇には慣れながらも、結局寝惚けた瞳にはよく映らぬ装飾の編み込まれた、カーテンとレースを横へと退ける。


端々を白く凍てつかせ、所々に大粒の雫を滴らせた窓の外には、いつ降ったのやも知れぬ雪に、その表面を軽く雪化粧された、淡い銀色の庭が広がっていた。


昨日夕刻にちらりと見た、季節柄、多様とは言えぬ植物と、それらを弱々しく照らす、沈みゆく夕陽に彩られた庭には、何となはなしに、物悲しい趣を覚えたものだが、今目の前に広がるそこには、静かながら、それとは相反するものを感じられた。


そっと、窓辺へと腰を下ろし、鍵を外して窓を開ける。


結露によるものか、お尻にひんやりとした、微かな湿り気を感ずるが、もはや驚きに飛び上がる体力も、借り物の寝巻きである事を気にする気力も無かった。


凍りついた窓がほんの少し開くと、重たい頭に、重たい身体、それに重たい心から吐き出された、生暖かい吐息にすっかり澱んだ部屋の空気が、熱というものを知らぬ、冷たくも新鮮な外の空気と入れ替わっていく。


心地良い。


本当は身体に毒だと分かっているが、髪を撫で、頬を撫で、身体中を撫で、溜まった倦怠感を少しづつ取り払らうかの様に吹き付ける、気持ちの良い風に、自然、身を預けてしまう。


窓枠にしっかり背を寄り掛からせると、先程まで意識せねば落ちなかった瞼が、静かに重みを増し、落ちてくる。


無音である事を意識するが故に生ずる、耳障りであった耳鳴りが消え、落ち着いた自身の吐息の音が聞こえてくる。


重みばかり感じていた身体から、感覚そのものが遠ざかっていく。


そして、糸の様にか細く、意識と呼ぶには、あまりにちゃちなものを残して、頭の中が真っ白になっていく。


このまま一眠りしようか、いや、しまいか。


答えが決まった所で、恐らく身体は碌に動かぬであろう故、どちらにしても意味の無い、それらの諍いに、時折瞳を開けたりしながら揺蕩っていると、ふと、朧げな視界の端に色が混じった。


薄明かりに照らされ、一様に柔らかな輝きを放つ、静寂の銀世界にはとても不釣り合いで、似つかわしくない、深紅の色が。


それは、降り積もった画一の白を掻き乱しながら、一方向へどんどん動いていく。


動く度に、自らもまた白に染め上げられていることなど、まるで気にもせず。


深紅のガウンと、もはや乳白色にしか見えぬ、本当は薄金色の髪を揺らしながら。


今度は一体、何をしようしているのだろうか。


執拗な姉のふり、理由不明の嘔吐に続いて。


寒さに悴んだ手で、頬や目を擦ると、ぼんやりとした視界は案外すぐに明瞭となり、ピントは彼に合った。


これまでの事柄から、呆れる想いも少なからずあったが、やはり、何処となく危なげな彼を心配する想いが大半であった故だろうか。


尤も、声を掛けるには少し遠く、また、それをするだけの休息を取れた訳でもない為に、あくまで見守るのが精一杯であった。


朝日すら顔を出し切らぬ早朝、それも雪が降り積もった中を、躊躇いもなく駆けるその後ろ姿を見つめていると、彼は庭の片隅で動きを止めた。


目の前には、他同様雪に塗れた、塀側の暗がりでは、石碑とも、墓石とも見て取れる何かが建っている。


彼はその何かに、駆けている間には、その派手なガウンにばかり目がいき気づきもしなかった、手に持っていたらしい、古びた桶を振り上げた。


寒さという寒さを漠然としか感じられずにいた身体に、大きな鳥肌が一瞬にして走る程に、盛大な音が、屋敷中、延いては静寂の銀世界に響き渡る。


呆れという感情が、次第に不安や不審と呼ぶべき、より拒絶的なものへと変わっていく。


しかし、それは何も、彼に対してだけではない。


あれだけの音が立っておきながら、誰一人として庭へ駆け出さず、彼の元へやって来ない、この屋敷に暮らす者たち全てに対してだった。


忘れかけていた昨晩の嫌悪感が、また胸の内で大きくなってくる。


もはや、あれだけ望んでいたはずの眠気に、惑わされてはいられなかった。


窓に手を掛け、身を乗り出し、食い入る様にして、彼の次の行動、そして、屋敷側の動きを見守る。


屋敷からは誰かが出て来る事も、窓を開ける様子も無かったが、目の前の何かに大量の水をぶち撒けた彼は、柔らかく、消極的な手つきで、それを雑巾の様な布切れで拭き始めた。


まるで、宝物を取り扱うかの如く、それまでの荒々しく、活発的な手足からは想像出来ぬ程、慎重に。


あれは一体何なのだろうか。


昨夕の朧げな記憶を辿りつつ、首を捻る。


暗い上に距離がある為に、いくら目を凝らしても、やはり何であるかも判然とせず、彼にとって、大切なのかどうかもよく分からぬ、石造りであろう事以外は何も確証を持てない、それについて。


だが、思索に耽るだけの暇は無かった。


優しく、ゆっくりと手を動かしていたはずの彼が、桶を両手で抱えながら、せっせと来た道を戻り始めたのだ。


自然、今度こそ、溜息と呼んで良い吐息が漏れ出す。


全く、本当に読めないな。


もはや小さな苦笑いさえ浮かびそうになるのを、何とか堪えつつ、再び彼を見つめていると、その足は、道すがらにある、昨晩の内に薄く凍りを張ったらしい、小さな庭池の傍で止まった。


季節柄か、植物や花々も植えられず、噴水も止まった、忘れ去られたかの様に、ひっそりとしたそこには、特段目を引く物は見受けられなかった。


しかし、彼はじっと、凍りついた池の中を見つめたまま動かない。


ああ見えて、池には魚か何かが放たれているのだろうか、或いは、興味惹かれる物でも見つけたのだろうか。


薄い氷の張った水面に、恐らくは見つけられるであろう数少ない物と、その中でも、あの彼が興味を持ちそうな物を想像しながら、その後ろ姿を見つめる。


今の彼を見ていると、先程まで胸の内にあった拒否感が、妙に和らいだ。


昨晩の、嘔吐する程の食事や執拗な姉のふり、そして、今しがた見せた、突拍子の無い行動の時の、まるで何かに憑かれたかの様な、不気味さが無いからだろうか。


ようやく彼本来の姿を見ている感じがする。


今なら少しくらい、彼の事が分かってあげられるかもしれない。


何処から湧くのか、微かな自信の様な、安心感の様なものを胸に、ほんの少しも読めはしなかった、彼の嗜好について考えようとしたその時、その彼が動いた。


えっ、という声が自然と漏れ、開けているのもやや億劫であった目が大きく開かれる。


それまで微動だにしなかった彼が、片足を振り上げ、凍りついた庭池へと振り下ろしたのだ。


何度も、何度も。


自身の足が、冷水に浸る事など躊躇いもせずに。


それどころか、手近なものが無くなると、池の中へ入り込み、散らばった破片目掛けて、同じ様に足を振り下ろしていく。


その様は、やはり何か憑かれた様な、或いは、むしろ、その憑き物を祓い落とさんと必死になっているかの様な、見ているこちらが何処か悲痛な、憐れみを感ずるものだった。


何があったのだろうか、そんな事を悠長に考えている余裕は、僕には無かった。


気がつくと、薄暗い廊下を駆け、足場の見え辛い階段を飛び降りる様にして下り、色合いだけを確認した、本当に自身の物かも分からぬ、雪の中など以ての外な靴を、踵を潰しながら、一応に履くと、池の真ん中、膝あたりまで、とっぷりと浸かった彼の元へと駆けた。


「何をやっているんだ、君は!?」


池の淵ぎりぎりから、周囲の事など気にもせず、そう叫ぶと、彼は大きく身震いした後、恐る恐るこちらへと顔を向けた。


両頬と爪先を、羽織ったガウンにも負けぬ程に赤く染め上げ、それを涙で洗い流そうとしている、あまりに痛ましい泣き顔を。


「早く上がっておいで、風邪をひいてしまうよ……!?」


「だ、駄目です……。だって……だって、姉様が……!」


血液の溢れ出す、赤黒い頬を更に掻き毟りしながら、彼は片手で水面を指差した。


彼という大きな衝撃を受けたそこには、既に氷らしき物は見当たらず、単なる透明な池水がゆらゆらと揺れているだけだった。


当然、彼の姉の姿など何処にもない。


一応周囲を見渡すが、近くに人影は勿論ない。


しかし、彼はあくまで、水面に姉の姿を見出し、それに怯え、頬を裂き続けた。


もう見ていられない。


借りた寝巻きを、靴を、足を、身体を、濡らしても、冷やしても、構わず歩み寄り、真っ赤になったその手を掴んだ。


驚いたらしい彼は、慌てて手を振り払おうと、身を捩り、手足を、まるで女の子の様にばたつかせ、抵抗してくる。


ただ、その力は、あれだけ多くの食事を摂っていた者のものとは思えぬ程に、弱々しい。


「落ち着いて!お願いだから、落ち着いて!ネリー!」


「違う、違う……!僕は、ネリーなんかじゃ、姉様なんか、じゃない……!私がネリーだもん……!だから、放して……放してよ……!」


尋常ではない程に狼狽し、訳の分からない事を叫ぶ、背丈こそ僕とそう変わらない、むしろ少しくらい大きいはずの彼から発せられる、まるで幼子の様な、幼稚さと純粋さに、冷水に晒された足先よりも、胸の奥が痛みだす。


しかし、手を放す訳にはいかなかった。


それは、再び彼が自身の顔を傷つける可能性があったからだけではない。


今手を放せば、本当の彼、先程見つけた後ろ姿の彼までも、放してしまいそうな気がしたから。







どうしてだろう。


父に会う度に、母に会う度に、使用人に会う度に、友人に会う度に、見知らぬ誰かに会う度に、いつも疑問に思ってしまう。


どうして皆、姉様ばかり褒めるのだろう。


もう死んで、もう焼かれて、もうお墓に埋められて、もう写真しかなくて、もう記憶の中にしかいない存在なのに。


どうして皆、そんなに姉様の事が好きなのだろう。


どうして、僕じゃ駄目なのだろう。


姉様の方が賢かったから?


姉様の方が丈夫だったから?


姉様の方が手の掛からない子だったから?


姉様の方が可愛かったから?


姉様の方が優しかったから?


僕なんかより、姉様の方が大事だったから?


数多の理由が、頭の中で泡の様に無数に膨れ上がっては弾けていく。


でも、その中に、僕が納得出来そうな理由は一つもなかった。


自分より姉様が方が優れているなんて認めたくなかった。


自分より姉様の方が愛される存在だなんて認めたくない。


だから、僕は姉様に負けないくらい頑張った。


姉様に負けないくらい苦労した。


姉様に負けないくらい我慢した。


姉様に負けないように。


ひたすらに、姉様に負けないように。


でも、どんなに努力しても、誰も僕を認めてくれなかった。


姉様が生きていれば、姉様が生きていれば、姉様が生きていれば。


そう言って、僕の創り上げた事実を、妄想の姉様で上塗りし、結局は姉様の事だけを見つめていた。


その時、ようやく気がついた。


やっぱり、僕は、“僕”である以上は、姉様に勝る事など出来ないのだと。


決して色褪せる事のない、美しい思い出に彩られた、姉様になど。


だから、“僕”は姉様になった。


だって、姉様になって、皆に喜んで欲しかったんだもの。


だって、姉様になって、皆から期待されたかったんだもの。


だって、姉様になって、皆から愛されたかったんだもの。


だって、姉様になって、皆のその思い出をぐちゃぐちゃにしてやりたかったんだもの。


だから、“私”は姉様になった、ネリー姉様に。


だって、要らないもの。


姉様に勝てない“僕”なんか。


姉様より優れていない“僕”なんか。


姉様より愛されない“僕”なんか。


姉様より必要とされない“僕”なんか。







痛い。


ずきずきとした、疼く様な、頬の痛みに思わず目をこじ開ける。


薄暗く、涙でぼやけた視界には、これと分かる物が何一つ映らない。


分かるのは、自然、痛む頬へ這わせていた指に伝わる、分厚く切られたガーゼの、いつもの感触だけだった。


尤も、怖さは微塵もない。


こうして、痛みに目を覚まし、自分が何処にいるのか、何をしていたのかを、すぐさま思い出せない事には、あまりに慣れてしまっているから。


頬に宛てがった指を、そのまま軽く押しつけてみると、涙袋に既に溜まった涙を、新たな涙で押し流さんばかりの、感じた事の無い鋭い痛みが返ってくる。


どうやら、今回は、一段と深く裂いてしまったらしい。


寝起きのせいか、どうにも力の入り切らぬ奥歯を噛み締め、強烈な痛みと、自身への後悔と怒りの念、そして、羞恥心に堪える。


しかし、どんなに堪えたとて、ぼやけた視界には、ふと、両親や使用人たちの顔がちらついた。


呆れた様な、蔑む様な、少なくとも、心配という言葉だけは似つかわしく無いと分かる、そんな表情を浮かべた者たちの顔が。


頬に宛てがっていた手で目元を覆う。


ぽろぽろと溢れてくる涙を、止める為に。


彼らの、責める様な視線から逃れる為に。


私のせいじゃない。


あれは、あれは全部、全部姉様が……。


「起きたのかい?」


「えっ……?」


目元を覆った暗闇の中、必死になって、自分への、彼らへの、弁明とも呼べない程に情け無い、しかし、どうしてもしなくてはいられない言い訳を捲し立てようとしていると、不意に、柔らかな声が、横から掛けられた。


ゆっくり手を退け、恐る恐るそちらに目を向けると、そこには彼がいた。


食堂で“私”を怒りながらも、嘔吐した僕を抱き止め、そして、池の中で姉様に囲まれた時も、僕を救い出そうとしてくれた、優しい彼はベッド端に腰掛け、こちらを見下ろしている。


「調子はどう……いや、良い訳もないか……。頬はまだ痛むかい?あと、他に痛む所はある?」


「えっ、えっと……。だ、大丈夫です……」


喉に何かがつっかえた様な、自身でも何と言っているのか聞き取り辛い、掠れた声でもって返事をする。


すると、彼は、その半分程しか開いていない、眠たげな瞳を軽く閉じ、穏やかな笑みを浮かべてくれた。


昨晩の激昂ぶりからは想像も出来ぬ程に柔和なそれに、内心驚き、戸惑いつつも、自然、痛むはずの自身頬も小さく持ち上がる。


不思議なものだ。


常に日頃より、周囲に愛想を振り撒き続ける故にくたびれ、意図せねば、到底持ち上がらぬであろう頬が、剰え、痛みすら堪えて、笑むなんて。


彼が、私の事をよく知らない、全くの赤の他人だからだろうか。


それとも、恐らくは破談となるであろうとはいえ、初めての縁談相手である故に、恥ずかしげも無く、好意の様なものを抱いてしまっているのだろうか。


何にしても、彼を見ていると、心が落ち着いた。


「何も無いなら、良いさ。それで……その、何があったのか、君自身は憶えているかい?」


「……」


一頻り柔らかな笑みを浮かべると、静かにゆっくりとそれを崩しながら、真剣な、しかし、決して、責める意思や、それに類するものの無い、諭すかの様な口調で、彼は尋ねてくる。


私は小さく頷く。


ただ、涙に濡れた瞳を、心地良いはずの彼から晒し、事の詳細を語る事はしなかった。


語ったところで、信じてなど貰えないから、理解などして貰えないから、共感など、決してしては貰えないのだと、痛い程知っているから。


それ故、重みも無く、意味も無い、拙い謝罪の言葉だけを、ひたすらに口にした。


家族や使用人、そして、姉様に対して、そうする様に。


「ご、ごめんなさい……。迷惑、ばかりかけてしまって……。ほん……本当に、ごめんなさい……」


「迷惑だなんて、そんな……。むしろ、君に無理をさせてしまっているのは、僕の方だよ。だって君は、僕の為……というより、僕のせいで、“お姉さん”のふりをしているんだろう……?」






「……何を言ってるのですか?」






「えっ……?」


笑ってしまいそうな位、彼が間の抜けた声を上げ、表情を浮かべる。


それくらい、彼は私が何を言っているのか分からなかっただろう。


でも、私も同じ面持ち、心持ちだった。


それくらい、私には彼が何を言っているのか分からなかった。


彼の為に、私が姉様のふりをしている?


何故?


何故、ネリーであり、姉様自身である“私”が、自分自身のふりなどしなくてはいけないのだろう。


姉様のふりなどと揶揄されなくてはいけないのだろう。


今は私が姉様なのに、ネリーなのに。


私の行い全てが、姉様の行いの全てなのに。


どうして彼もそれを認めてくれないのだろう。


彼も、彼らと同じなのだろうか。


“姉様”を認めた癖に、“僕”を絶対に認めなかった、両親や使用人、そして、“私自身”と。


あぁ、そうだ、きっと、そうなんだ。


驚きこちらを見下ろす、薄暗い闇の中に浮かぶ、彼の美しい緑の瞳に、薄い金髪を後ろで簡単に結び、頬をずたずたに切り裂いた、私に瓜二つの、穢らわしい“姉様”が見える。


気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


貼り付けられた厚いガーゼを引き剥がし、薄い皮膜の出来かけた頬や額に、再び思い切り爪を立て、その皮を、肉を、いつもの様に抉っていく。


だって、死んだ“姉様”に似ているなんて嫌だもの。


恨言ばかり言う“ネリー”に似ているなんて嫌だもの。


“僕”の事を思い出させようとする“ネリー姉様”に似ているなんて嫌だもの。


目の前に座る彼が狼狽え、慌てた様子で、また両手首を掴み上げてくる。


申し訳ない想いが沸々と込み上げてくるものの、それでも、深々と突き刺さった爪を抜く気にはならない。


瞳に映る“姉様”も、同じ事をしてるから。


今止めたら、余計に“姉様”に似てしまう。


“姉様”に、近づいてしまう。


「もうやめて!やめてくれ……!それ以上自分を傷つけないで……!」


「止め、ないで……!お願いだから、止めないで、下さい……!姉様が、姉様が……!」


「……っ!」


懇願する様に、両手首に絡みついていた彼の手の力が、何かの拍子に一瞬だけ緩んだ。


すると、当然に、渾身の力を込めて対抗していた、頬に爪を深く突き刺したまま手が、その勢い余って、下へと振り下ろされる。


抉った、血肉を伴って。


痛い、痛い、頬が痛い、顔中が痛い。


でも、“姉様”は、彼の瞳に映った気色の悪い“姉様”は、ようやくその姿形を消した。


そして、代わりに今度は、姉様も、誰もいない、真っ暗な闇が目の前を包んでくれた。


それは、何かが擦れる度に鋭い痛みを放つ、今の頬でさえも、思わず頬擦りしたくなる様な、温かくて、柔らかくて、何となく懐かしい匂いのする、無性に心地良いものだった。


一体何処に、こんな闇があったのだろう。


何故、もっと早く見つけられなかったのだろう。


過去への後悔よりも、これまで、この心地良さに気づかず苦しんでいた分を、何とか埋め合わせたいという、無益な情動に駆られ、擦り合わせれば、ぬめりと滑る手を、目の前に広がる、優しい闇を掻き集めんばかりに、大きく広げる。


闇はそれ程までに大きくはなかった。


目にこそ映らぬものの、伸ばした手が、その温かな闇の淵をなぞりつつ進むと、すぐにもう片方の手を手繰り寄せてしまう程しかない。


でも、それでも構わなかった。


それで、十分だった。


むしろ、小さく、華奢と呼べそうなそれ故に、余計に身体を寄せ合わせ、心を擦り寄せたくなる。


途方もない大きさの温もりよりも、小さくとも、己だけを包んでくれる温もりの方が、特別感や独占欲ばかりに目の眩む、自身の狭量な心を満たすだろうから。


頬の痛みよりも、得られる心地良さに酔いしれ、柔らかな闇に頬擦りし、縋りつく様に、回した手に力を込めていく。


すると、闇もまた、私を抱擁仕返してくれた。


後頭部を引き寄せ、柔らかさと心地良い香りの更に強い、その中心へと誘ってくれる。


ずっと、ずっとこうしていたい。


両親も使用人も、姉様も、そして、“僕”も“私”もいない、誰もいない、この闇の中で。


ごめんなさい……。


ごめんなさい……。


また、謝罪や後悔の念と、大粒の涙が湧き出てくる。


でも、誰に対してものなのかは、やはり判然としない。


姉のふりをしっかりしてあげられなかった、家族たちへのものなのか。


死んだ事を喜び、その存在にとって代わろうとした、姉へのものなのか。


それとも、姉のふりをする、その代わりとして殺してしまった、僕自身へのものなのか。


分からない。


でも、謝らずにはいられなかった、赦しを乞わねばいられなかった。


だから、ただひたすらに、闇へと向かって謝り続けた。


大丈夫だよ。


そんな、優しい声が、頭の先から、確かに聞こえるまで。







僕と彼の違いは何だろう。


互いに、愛されたいが故に、必死に愛されていた者のふりをして生きてきた。


姿を似せ、仕草を似せ、心を似せ、愛される努力を、生きる上で、到底捨てきれぬものを得る努力を、決して惜しまなかった。


僕も、彼も。


でも、ならばどうして、彼だけは、こんなにも傷ついているのだろう。


顔や腕など、己の手の届くありとあらゆる所に、爪やそれ以上に鋭い何かを突き立てた痕を残し、自身の本当の名さえ、もはやまともには口に出来ぬ程、自我を殺してしまっているのだろう。


僕が特別強く、彼が特別弱いから?


僕の兄様は出ていき、彼の姉様は死んでしまったから?


僕が本当は女で、彼が本当は男だから?


それとも、僕は愛を感じられ、彼は愛を感じられなかったから?


腕の中、僕の胸に顔を埋め、当事者の様であれば、時に他人事かの様に、主語と口調をころころと変えつつも、自身の胸の内に、確かにあるらしい感情を吐露する、彼の頭を優しく撫でながら考える。


しかし、考えても、考えても、納得のいく答えと呼べそうな、僕と彼の違いは見つからない。


むしろ、彼の、いや、“彼ら”の悲痛な叫びに耳を傾ける程、如何に僕らの境遇が似通り、その違いというのが、実に些細で、生半には気づけぬ、途方も無く小さな箇所なのではないかという気さえしてくる。


そして、仮にその箇所が同じであれば、僕もまた、“彼ら”の様な、自分を自分と認められず、かといって、他人にも成り切れぬ、中途半端な存在になっていた、或いは、これからそうなるのかもしれないという、安堵と恐怖の入り混じった、何とも言えぬ想いすら湧き上がってきていた。


それ故、僕は彼らを抱きしめ続けた。


彼と同じにならぬよう、自身の心を落ち着ける為に。


それから、数奇な彼らの、その壊れかかった心を、ほんの少しでも癒す為に。


彼らが歩んできた道が、彼らにとって、どれほどまでに厳しく、辛いものだったのか、それを察する事は、正直出来そうにない。


その心中に渦巻くものが、単なる憎悪や怨恨という、正にどす黒い、忌むべきものと理解しながらも、寄り添い、安易に同情を寄せてしまいたくなるものであるならば、まだ想像することも出来たのかもしれないが、彼らの心は、それ程単純ではない気がするのだ。


彼らは、きっと、心の何処かで、自身をこんな風にした、両親や使用人たち、そして、姉の事を、愛しているのだろう。


憎みながらも、愛し、愛される事を期待しているのだろう。


ずっと、ずっと。


それこそ、姉に成り代わるずっと前、“彼”が“彼ら”となるずっと前から。


だから、彼は姉である事を、止められないのだろう。


そして、姉である事を止められぬ故、鏡の中に映り、水面に映り、僕の瞳に映る、名前も忘れてしまった“自分自身”に、いつまでも追い立てられ、責められているのだろう。


姉のふりなどをしていても、愛されはしないのだと。


或いは、姉である事を望む彼もまた、自分自身に戻ったところで、姉でいた時よりも愛される可能性などないと、反論しているのかもしれない。


それが、あの自傷行為の真意なのかもしれない。


ぽたぽたと、未だ絶えず滴り落ちる血液によって、赤黒く濡れていく毛布を見つめつつ、顔を埋める彼の頬傷を想う。


池でのそれですら、古傷と合わさってか、もはや見るに絶えぬものであった為に、直視する勇気はなかった。


思えば、食堂で彼に近づいた時、その身から非常に強い化粧の香りが匂ったのも、恐らく、こういった傷が見えぬよう、厚化粧させられていたからなのだろう。


僕がこの傷に気づかぬように。


僕が彼を見劣りせぬように。


そして、僕が縁談を断らぬように。


「……ごめん、ごめんね」


自然、謝罪の言葉と、涙が溢れてくる。


悲しかったのではない。


悔しくて仕方がなかった。


自分と境遇の良く似た彼らが、あんな両親たちに良い様に弄ばれ、剰えこんなにも傷ついているのが、どうしようもなく。


だが、この想いを、そのまま彼らに伝える事は憚られた。


きっと彼らは、あの両親たちへの復讐など望んではいないであろうから。


それどころか、むしろ、彼は喜びすら覚えたかもしれない。


漸く報われるとさえ思ったかもしれない。


愛して欲しい者たちに、理由はどうあれ、自身が懸命に演じ続けてきた、“姉”として求められたのだから。


尤も、実際には、それすらも、彼らを傷つけ、その溝を深める、大きな要因になってしまったのであろうが。


喉元まで這い上がってくる侮言と、それを創り上げる胸の内の暗い想いさえも宥める様に、改めて彼の頭を優しく撫でる。


元々乱脈な言葉を、ぶつぶつと小声で口にしていた彼らだが、もはやその声は、蚊の鳴く程に小さく、か細いものとなってきていた。


心身共に落ち着いてきたのだと解すれば、幾分か気持ちも楽になるのだが、耳を澄ませば、その言葉は未だ恨言の方が多く、また、身体を明らかに寒気とは違う何かによって、小刻みに震わせているあたり、まだまだ彼らの葛藤は続いていると考えた方が、妥当な気がする。


結局、それ程までに、彼ら其々の想いは強烈で、煩雑なのだろう。


大丈夫だよ。


溢れてくる涙を軽く拭い、彼の頭を包む様に、また抱きしめると、そう小さく囁きかける。


聞こえてなどきっといない。


でも、それでも構わなかった。


僕はずっと、待ち続けるのだから。


彼らが、其々に納得し合える、その時まで。







耳障りな音が聞こえる。


ずっと、自分が鳴らし続け、その度に、両親や使用人たちに注意され、呆れられた、あの大嫌いな音が。


妙にまつ毛辺りが粘つく瞼をゆっくり開くと、その音の出所を、ぼやけた視界のままに、慌てて探していく。


まずは自身の手元。


見下ろしたその先には、いつの間にか寝入ってしまったらしい彼の、安らかな寝顔があった。


頬の傷こそ目を背けたくなる、痛々しいものであるが、その寝顔は、間近で見た彼の表情の中で、最も愛らしく、ずっと見守っていたくなる様な、心地良いものだった。


そして、そんな彼の頭には、僕の両手がしっかりと巻き付けられており、耳障りなあの音を発しそうな物も持ってはいない。


違う、あの音は僕のじゃない。


自ずと安堵の吐息が漏れ、早鐘を打ち出そうとしていた心臓が落ち着き始める。


しかし、そんな身体とは裏腹に、自身に過失が無いと気がついた心は、その間も聞こえてくる、かちゃかちゃという耳障りな音に、尚一層の苛立ちを募らせていく。


全く、鬱陶しい、父様や母様の機嫌が悪くなるじゃないか。


怒り任せに顔を持ち上げ、今一度辺りを探す。


寝惚けた頭では、音が聞こえていることは分かっても、その方向については、いまいち判然とせぬのだ。


だが、腕に抱いた彼が視界から外れてすぐのこと、それは意外にも、早々に見つかった。


横になっている僕たちから、少し離れた所に置かれた丸机、そこには、料理の盛り付けられた幾つもの食器と、それを貪り食う一人の男の後ろ姿があった。


「うるさいよ……!静かにしてくれないか……!」


男が誰なのか、何故他人の部屋で食事を摂っているのか、尋ねるべき事由は色々とあったが、何より先に、僕の口からはやはり、かちゃかちゃという、食器や食具から発せられる、その耳障りな音を立てていることへの、非難の言葉が吐き出された。


音の方向さえよくわからぬ程に寝惚けた耳と思考によれば、腕の中の彼の事さえ忘れて、相応に大きな声をあげたつもりであったが、当の男は驚く様子もなければ、悪怯れる様子もなく、のんびりと背中越しに、顔を向ける。


ぼんやりとしていた視界が、一気に晴れ渡る。


正にそれは、青天の霹靂であった。


「そんなに怒るなよ、レギィ?可愛いらしい顔が台無しだぜ?」


短く整えられていたはずの黒髪を、後ろで軽く結い、纏め上げる程に伸ばしたその男は、産毛すら毎日丁寧に処理されていたはずの口元に、微かに生えた髭を摩りながら、にんまりと笑う。


心奥に秘めている、自身でもよくわからぬ想いが、どろりと、胸一杯に溢れ出す。


それは、驚きでもあり、喜びでもあったのかもしれないが、表面に感じられたそれは何よりも、不快感や気色悪さだった。


「に……兄、様……」


先程の苦言を発した口と、まさか同じものとは思えぬ程に、掠れ、しゃがれた、情け無い声でもって返事をすると、兄は口元を軽く手の甲で拭い、その笑顔だけでなく、身体全体をこちらへと向け直した。


風体や仕草こそ、もはや、屋敷で見た最後のものとは似ても似つかない、貧相で、品の無いものではあるが、僕自身によく似た、その顔つきなどは、変に変わらず、兄のままであった。


彼を抱いた両腕に妙な力が入る。


眠った彼が、小さく呻き声すら上げる程。


尤も、それは、彼を兄から守らんと、咄嗟に入れられたものではない。


むしろ、肉体的にも、精神的にも、白地なまでに、僕よりひ弱であるはずの彼に、縋りつきたい、泣きつきたい一心で入った力であった。


昨晩、彼の部屋に赴く前に決心したはずの、もう過去から目を背けず、未来をより良いものとしたいなどという、大仰な想いも、もはや微塵も奮い立ちそうにはない。


それだけ、僕は兄という存在、そして、そこから自然と連鎖していく、自己の負の感情に、途方もない恐れを抱いていたのだ。


「ど、どうして此処に……。どうして此処にいるのですか……!?」


「どうしてって……。大切な“妹”が結婚する、なんて聞いたら、流石に何もしない訳にもいかないだろう?一応、兄貴として」


「……」


「あっ、お前今は“弟”なんだっけ?まぁ、どっちでも来ただろうけど」


こちらの気など知りもせず、昔ながらの笑顔を浮かべ、兄は変わらぬ明るさで語り掛けてくる。


吐き気がした。


無論、兄が相も変わらず、優しく、愉快なのは有難く、喜ばしい事だ。


しかし、その優しさの裏に、明るさの裏に、一体如何なる怨み辛みが隠されているのかと疑ぐると、まともにその淡い緑色の瞳を覗き、話に耳を傾ける事など出来ようがなかった。


仮に、その様なものを抱いていなかったとしても、それならばそれで、今度は己の内の罪悪感が、それこそ我が身を食い破らんばかりに肥大化しそうで、ひどく恐ろしかった。


それ故僕は、そんな身勝手な心のままに、もう出会わぬ事を心底悲しみながらも、一方ではそれを願っていたのやもしれぬ兄の顔を、ただ睨み続けるしかなかった。


「あぁ、そういえばさ、レギィ」


向かい合うようにして、反対を向いた椅子に跨り、背もたれの上に顔と手を置きながら、他愛もない話をし続けていた兄が、不意に言葉を切る。


「……何ですか」


吸い込まれそうな恐怖から、その瞳だけは出来る限り覗かぬようにしつつ、それでも変わらず睨みつけながら返事をすると、兄は一瞬だけ神妙そうな面持ちを浮かべた後、また小さな笑顔を作って見せた。


「ありがとな。あの時、母さんたちに、あの事話してくれて。実は……」


「嫌味ですか、それは……!」


自己嫌悪や罪悪感、不安からくる猜疑心は、実に見事なまでの早さで、兄への純情な想いを押し除け、その言葉を掻き消した。


憎悪される謂れはあっても、感謝などされる謂れはない。


そんな事が許される程、稚拙な事を行なったつもりもない。


今更赦して貰おうなどと、思ってもいないのだ。


何故なら、そう思い込む方が、楽だから。


苦しまずにいられるのだから。


「別に嫌味なんかじゃないさ。あの時は自分から、俺は“男好き”なんだ、なんて言えそうになかったからな。それに、お前が裏で口利きしてくれなけりゃ、下手したら殺されたかもしれないんだから。感謝するのは当たり前だろ?」


「でも……でも、そのせいで、兄様は……屋敷を追い出されたんじゃないですか……!」


「そりゃあ、まぁ、そうだけどさ……」


「だったら……!」


兄の表情に陰りの色が見えると、胸の内の自己憐憫的想いが一気に吹き出し始める。


これまで通り、妄想の中の、怒れる兄に対して、そうしてきた様に。


しかし、そんな、情け無い自己愛に満ちた想いを吐き出そうとした瞬間、兄は静かに僕へと掌を向け、首を振りながら制止した。


その顔に、やはり、小さな笑顔を浮かべながら。


「でもな、レギィ。そのおかげで、今の俺が居るんだよ。今の幸せを得られたんだよ」


「ぅぇっ……?」


喉元まで出掛かっていたはずの、強い否定の言葉が吐き出せず、代わりに、呻く様な、素っ頓狂な声が溢れる。


優しい兄が、初めからこちらを誹り、咎め、扱き下ろすことなど無いと、分かりきっていたはずなのに。


胸の内で向かい合う兄たち同様、一言二言、否定の言葉を並べ、その尤もな怒りを焚き付けてやれば、上っ面な優しさなど捨て去り、憎悪の言葉を吐き捨て、僕を罰してくれるに違いないのに。


それなのに、言葉が出なかった。


否定する事が、出来なかった。


それだけ兄の笑顔は、無邪気で、純粋なものだった。


「確かに、急に屋敷を追い出された時は、当てもなくて、途方に暮れたさ。それこそ、お前の事を恨んだりもした。お前以外、俺の秘密を知ってる奴なんか誰もいなかったからな」


「な……なら、やはり……」


「でも、俺はあれで良かったと思う。あのままずっと屋敷にいたら、多分、壊れてた」


「……」


「親父や母さんたちの望む、“普通”の子を演じ続けるのも、正直しんどかったし。それに……」


「それに……?」


「それに、お前に憎まれ続けるのも、ちょっと切なかったからな……」


兄は何処か照れる様に、こめかみあたりを掻きながら、改めて笑って見せる。


その笑顔には、怒りや憎しみといった、胸中の罪悪感が心待ちにする色はなかった。


あったのは、正に僕の良く知る色だけだった。


何故、今まで気が付かず、考えつかなかったのだろう。


賢い兄が、唾棄すべき、僕の想いを感じ取れぬはずはないのに。


いや、本当は、気が付いていたのかもしれない。


ただ、あの時の僕に、兄の胸中を察しようなどという、穏やかな気持ちが無かっただけなのだろう。


それ程までに、当時の僕は、逼迫し、兄を目の敵にしていたのだろう。


彼が、姉に対して、そうしていた様に。


「まぁ、全部過ぎた話さ。お前が何か気負う必要はないよ」


「……」


「なんて、そんな風に言ったって、お前は納得しないんだろうけどな」


態とらしい溜息を吐き出すと、兄は静かに立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる。


反射的に、横たわらせたままの体が持ち上がるものの、ベッドから逃げ出すまではいかなかった。


目前までやって来た兄の手が、こちらへするりと伸びる。


どんな罰であれ、受け入れる覚悟をしていたはずなのだが、いざそれが来るとなると、まともに目など開けている勇気はなかった。


頬を、肌触りの悪い、ざらざらとした、あの頃兄のものとはまるで違う、しかし、その温かさだけは変わらぬ手が優しく撫でる。


「レギィ」


「……」


「よく頑張ったな、すごく偉いぞ。それと、ありがとう」


「えっ……?」


「じゃあな。またお前たちの子どもが産まれた頃来るよ。大丈夫、ちゃんと、名前も考えておいてやるから」


変わらず、優しく、穏やかな声でそう告げると、兄の手は静かに離れていく。


慌てて堅く閉じていた目を開ける。


しかし、兄の姿はもう何処にもなかった。












「だいぶ、良くなったね……」


頬に貼り付けられたガーゼを取り外し、その柔らかな指先で、まるで壊れ物にでも触れるかの様に、優しく頬を撫でてくれていた彼女が、ぽつりと呟いた。


寸足らずのカーテンの端から潜り込む、柔らかな月明かりに薄く照らされたそんな彼女の顔には、小さく笑みが浮かんでいる。


彼女以外には、とても向けて貰えた記憶のない、穏やかな、嘲りのない笑みが。


嬉しさと共に、何処か気恥ずかしさに、次第に顔が熱くなる。


「そう……?でも、傷痕はまだまだあるでしょ?」


照れ隠しに、ぺたぺたと頬のあちこちを触れながら聞き返す。


彼女は静かに頷くも、でも、確実に良くなっていると、また言ってくれた。


鏡の中の“姉様”と、未だ好んでは向き合えず、頬の具合を知らぬ僕にとって、彼女の言葉は純粋に有り難く、勇気を貰えた。


外面的な傷痕が消えていくのは、彼女が毎晩のように、傷薬を塗り込んでくれている為であり、僕自身が、特段意識的に何かをしている訳ではない。


だが、頬や腕の癒えを、彼女の口から伝えられる度に、たとえそれが、僕を励ます為の嘘であったとしても、僕の内面、心もまた癒えている様に感じられたのだ。


そして、それを癒しているのが、他でもない、僕自身である様にも。


何て、勿論、本当はそんな事はない。


目の前で静かに笑う、こんな僕を“夫”として娶ってくれた彼女が、懸命に支えてくれているからこそ、僕よ心身の傷は癒えているのだ。


紅く、熱くなる頬に変わらず触れ続け、時折撫でてくれる彼女の手に、今度は自身の手を重ねる。


毎夜のことのように、肌を合わせているものの、彼女の、その柔らかな肌は、毎度初めて触れるかの様な、新鮮な心地良さと、安らぎがあった。


「レギィ……」


「うん……?なんだい?」


「いつも、ありがとう」


「……」


想いのままに、純情のままに、それ以外の感情を微塵たりとも含めぬ、感謝の心を伝えると、彼女は、その顔から笑みを消し、代わりに浮かない表情を浮かべた。


やはり、いつもと変わらずに。


彼女が、僕からの感謝を、快く受け取ってくれた事はない。


贈り物などの、実物は兎も角として、気持ちに関しては、決して心地良さそうな顔をしない。


感謝する事は素晴らしい事である、などという、如何にもな価値観に、これといって賛同している訳でもない故、彼女が感謝の言葉を嫌う事に関して、特段苦言を呈するつもりも、資格もないのだが、それでも、その浮かない表情は、何処か心配だった。


というのも、彼女のその表情には、怒りや嫌悪といった、僕の見知った色が見えないのだ。


両親や使用人たちが、よくよく浮かべていた色が。


仮にそれら感情の色が、少しでも見えるのであれば、感謝の言葉を金輪際伝えぬよう、堅く約束することも、決して吝かではない。


しかし、実際に、そんな色が発露した事はなかった。


彼女のそれはいつも、今にも泣き出しそうな、悲哀に満ちた、到底見てなどいられない、そんな悲しげなものだった。


何故なのだろう。


彼女以外から、感謝という感謝をされた事のない僕にとって、感謝の言葉というのは、ひどく心地良いものとして感じられた。


それなのに、どうして彼女は、今尚、そんな顔をするのだろうか。


重ねていた彼女の手が、するりと抜けて、離れていく。


後ろ髪引かれているかの様に、ゆっくりと。


僕は静かに、その手を捕まえ、再び重ね合わせる。


感謝に対する、逆恨みの様な気持ちがあった訳ではない。


ただ、浮かない表情の、その真意を知りたかった。


そして、何より大切な彼女に、もうそんな顔をさせたくなかった。


「レギィ、聞いても良い?」


「……なん、だい?」


「レギィは、僕に感謝されるの嫌……?」


「……」


怯えた様子で、上目遣いにこちらを見つめていた、彼女の美しい緑の瞳が大きく揺れ、重ね合わせていた手も、微かながらに震える。


瞬間、胸の内がずきりと痛み、後悔の二文字が頭を埋め尽くした。


やはり、尋ねるべきではなかった。


やはり、自分は馬鹿だ。


咄嗟にでも湧いて出る、慣れ親しんだ謝罪の言葉を慌てて口にして、静かに重ねていた手を引く。


しかし、僕の手が、彼女の手から離れることはなかった。


思い切り引いている訳でもないが、ゆっくりと、確かに引いているはずの手を、彼女が両手で包み込んでくれたから。


今更無かった事にも出来ぬのに、ただひたすらに逃げる事を勧めてくる、胸の内一杯に広がった後悔と罪悪感に逆らい、今一度彼女を見つめる。


微かに乱れた呼吸をしながら、触り心地の悪い、粗悪なベッドに、その綺麗な顔を擦りながら、横に振り続ける様子は、正に必死そのものだった。


「ご、ごめん……。いや、じゃ……ない……。嫌なんかじゃ、ないんだ……!ただ……」


「うん……」


「ただ……分からないんだ……」


「分からない……?」


「僕なんかが……ネリー……君に感謝なんて、されて良いのか、分からないんだ……」


一言一言を、喉に痞えた何かを何とか吐き出す様に、苦しげに告げると、彼女は力無く顔を俯かせる。


それから、僕の手を包んでくれていた両手を、今度は自身の身体に巻きつけた。


寝巻きの服をぎゅっと握り締めるその手には、よほど力が込められているのか、身体全体よりも、手や腕の方が強く揺れている。


怯えている様にも、自身に爪を立てている様にも見える、普段からは想像も出来ぬ程に、弱々しい彼女のそんな姿に、僕もまた言葉に詰まった。


感謝されて良いのか、分からない。


そう告げた彼女の真意は何だろうか。


彼女が感謝されてはならぬ理由などあるのだろうか。


目の前で震える彼女の肩あたりを撫でながら、騒つく心をじっと押し殺し、考える。


しかし、考えたところで、やはり、そんな理由は見当たりはしない。


僕を助けてくれた、優しくて、愛らしい彼女が、感謝されてはならぬはずなどないのだ。


後ろめたさに引けた重い腰に力を入れ直し、身体全体を彼女の元へと寄せると、小さく震える腰と頭に手を回した。


恥ずかしくも、彼女の心の内など、まるで読めてはいない。


それ故、彼女がどんな返答を望んでいるのかも、どうすれば彼女の苦しみを取り除いてあげられるのかも、当然に分からない。


だから、僕は、僕の心を伝えようと思った。


我儘である事を恥じながら、愚か者である事を詫びながら。


心のままに、彼女の、その悲観的な考えを否定しようと思った。


何も分からぬままに吐き出す、拙い言葉よりも、もうちょっとだけ、伝わり易いと思う、僕が彼女にされて、何よりも嬉しい方法で。


「ネリー……?」


「ごめん、ごめんね、レギィ……。僕には、レギィの言ってる事、よく分からないんだ……」


「……」


「でもね、僕はレギィにすごく感謝してるし、きっと、これからもずっとし続けると思う。だって、僕にとって……うぅん、“僕”と“私”にとって、レギィは、恩人だもの」


腰と頭に回していた手に力を込め、俯く彼女の身体を引き寄せる。


少し前に湯浴みを終えた彼女からは、屋敷で暮らしていた頃の、高価な洗髪剤などではなく、ひどく安価なそれらを使用しているにも関わらず、変わらぬ花の様に柔らかな香りが漂ってくる。


特段の抵抗もなく、胸へと収まってくれた彼女だったが、先程まで身体に巻きつけられていたその両手は、静かに僕の胸へと押し当てられ、拒む様に、微かな力が込められていた。


「お、んじん……。違う……。僕は、そんなのじゃない……。僕は……僕は、君にも、兄様にも、本当は感謝なんてされちゃ、いけないんだよ……」


「どうして?」


「だって、僕は、君を利用しているだけ、なんだもの……」


「どういう意味……?」


「それは……」


時折、強く鼻を啜り、嗚咽を混じらせながらも、自身の胸の内を、しかし、それでも、ゆっくりと震えた声で吐露してくれる彼女を、僕はずっと抱きしめ続け、相槌は打っても、決して口は挟まず、言葉の一つ一つに、耳を傾け続けた。


話疲れ、泣き疲れ、胸に抱く彼女が、穏やかな寝息を立てる、その時まで。


彼女の、実に取り留めのない想いをまとめると、それは僕が死んでしまった姉に抱く、後悔や罪悪感にひどく似ていた。


彼女もまた、自身の兄に対して行ってきた、過去の事を悔いていたのだ。


自分の幸せの為に、嫉妬心に突き動かされ、兄を屋敷から追い出してしまった事を。


そして、その後悔と罪悪の念は、僕へも向いているのだという。


優秀なきょうだいに劣等感を抱き、それに成り代わろうとしていた、過去の自分自身によく似た、僕へも。


つまり、僕を世話し、僕を大切にするのは、過去の罪深い自分自身を慰め、癒し、赦したいが為に行なっている事なのではないかという疑心と、そんな事が赦される筈はないという、忸怩たる思いとに、彼女は苛まれているらしかった。


感謝される事をひどく嫌ったのは、この為だったのだ。


彼女の苦悩や不安の根幹にあるのが、僕そのものではなく、彼女と彼女の兄との関係に起因する、過去のものであるという事は、僕個人としては有り難かったが、彼女の事を思うと、頭を抱えざるを得なかった。


真面目で、礼儀正しく、ちょっぴり頑固な彼女に対して、僕などが如何に言葉を尽くしても、その根源たる過去の自分を、赦そうとはしないはずだ。


しかしかといって、彼女の疑心に揶揄されるままに、彼女を嫌う事など出来ようはずもなかった。


彼女には、恩人としての義理や人情よりも、ずっと強く、深い想いもまた、抱いているのだから。


だから、僕は彼女に、感謝の言葉を伝え続ける事を、心に決めた。


彼女の兄が、未だ彼女に対してどう思っているのか、またそれを彼女がどう思うのかは分からない。


正直に言えば、僕には関係さえ無い様に感じられた。


だって僕は、彼女の兄でも無ければ、過去の彼女でもない。


そして、そんな僕から感謝される事に、彼女が卑屈になる必要などないのだから。


過去は変えられない。


でも、心についた傷は、いずれ癒える。


それを知っている。


だから、今度は僕が君を守り、癒すよ。












渡された手紙を、静かに読み終えたらしい女が、そっと顔を上げる。


朝早い、朝食前だというのに、その顔には既に、塗りたくったかの様な厚化粧が施され、遠目には、実際の年齢よりも幾分か若く見える。


しかし、手紙から持ち上げられた、如何にも鋭い視線には、若々しさや瑞々しさなどは、微塵も感じられはしなかった。


余程、手紙に記された、家族の“吉報”が気に入らぬのだろうか。


いや、或いは、吉報それ自体ではなく、先に手紙を読み、それに喜んだ者の反応が気に入らぬのかもしれない。


どちらにしても、女の態度が、今日一日悪くなるのは、ひどく明白であった。


そんな女の視線の先、目の前には、男が座っている。


後ろで軽く結い、纏め上げる程に髪を伸ばしたその男は、微かに生えた髭を摩りながら、時折思い出したかの様に、手元の紙切れに何かを記していた。


女は男の母であったが、男はまるで気にも止めてはいない。


男には、そんな母の視線や機嫌などよりも、急ぎ考えねばならぬ事があったのだ。






先日生まれたという、大切な“姪”の名前だ。





最後まで読んで頂き、有り難うございました。

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