18-03 ダリア 追跡者 指の魔法
僕らは一度あの人と別れ、ホテルの一室に落ち着いた。
あの人は僕らに宿泊場所を用意すると言ったが僕らは断った。あの人のことをどこまで信用したらいいのかわからなかったからだ。何よりスーハンがあの人の申し出を頑なに拒んだ。
僕らが自分たちでホテルを取ったからといって安全とは思えない。しかしそれでも精神的な意味で二人の時間が必要だった。
スーハンはソファーに座り、僕は窓際の椅子に腰かけていた。
僕は午後の光の下で淹れ立ての珈琲に息を吹きかけた。湯気は一度遠く巻いて、揺り戻しが僕の顔に触れた。なんだかほっとした。つかの間のひと時だと感じた。
そんな僕とは対照的に、スーハンは不機嫌な様子だった。苛立たし気に何度も脚を組み替えていた。
すらりと伸びた白い脚はスーハンの意図に反して艶めかしく動いている。足の爪にはいつの間に施したのか、クリアレッドのネイルが光り、足首のきゅっと締まっているのと相まって生々しい。スーハンはますます綺麗になっていく。
「あの女の言うことを信じるつもりなの!?」
スーハンは一点を見つめて言う。視線の先にはミネラルウォーターが外光を様々に変化させ煌めている。しかし、スーハンの思考はこちらの世界を脱していて、自分の頭の中の不満の種を追っているようだった。
「あの人はああ言ったけど、本当のところはわからないな」
「でしょ! 何しろアンノウンなんだからね!」
スーハンはついさっき僕からアンノウンの説明を聞いたばかりなのに、さも危険だというように僕を睨んだ。
「本当のところはわからないが……」
僕が言葉を切ると、
「わからないが、なによ!?」
「わからないが……、あの人は嘘をついていないと思う」
「……」
スーハンは僕を一瞥していよいよ眉間の皺が深くなった。また脚を乱暴に組み替えた。
「そう感じなかったのか!?」
「だって、それもアンノウンの力かもしれないでしょ!」
「じゃあ、本当のことを言っているように思えたのは認めるんだな?」
スーハンは僕を憎らしげに睨んで、
「本当らしいかどうかはどうでもいいのよ。あなたが信じているのが嫌なのッ!」
「そういうことじゃないんだ。今の俺たちは正確な判断が必要なんだ」
「正確なんてのはクソくらえだわ!」
スーハンはそう言うと、ソファーの上でこちらに背を向けて体育座りになった。自分の膝に額を埋めた。
「スーハン、こら、こっち向けよ」
「いやよ」
僕は窓辺からソファーへ移動して、スーハンを後ろから抱きしめた。スーハンは身動きせずに固い体のままだった。僕はスーハンの体を揺らした。
「二人で考えよう。それが面白いことだろ」
「二人で誰のことを考えるのよ!?」
「誰とかじゃない。本気で考えるんだ。これからのことを」
スーハンは頬を膨らませ、上唇を鼻につけながら、横目でこちらを見た。
僕はスーハンの頭を撫でてやった。
あの人が僕たちに約束したことは二つ。
一つには、僕たちを見つけられなかったと仲間に報告すること。もう一つには、僕たちが協力する限りはあの人も協力するということ。
僕はそれに嘘はないと判断した。
具体的には僕らに選挙ボランティアに参加しながら情報を集めろという。そうすれば自然に接触できると。
あの人が僕らを見つけるために使った監視カメラの映像は、他の人間に見えないようにしてくれるらしい。映像を消去するのではない。見えないように、と言ったところに僕はゾッとした。アンノウンにはそれが出来るということだ。世の中にそんな方法で隠されたものがあるのだとすれば、ネット空間は僕が思っているよりもずっと狭いのかもしれない。世界というものはもっとずっと広いのかもしれない。
とにかく、あの人はうっかりそう言った。スーハンも気づいていなかった。僕だけが気づいて恐ろしかった。アンノウンの力は想像もつかない。しかし、あの人はこんなうっかりを口にするくらいだから、軍事的な知識や謀略などには長けていない。とすれば、あの人が本当に報告しなかったとしても、僕らの存在が突き止められてしまう可能性はある。大事なのはその時に、あの人とあの人の仲間とが対立する方向に持っていくことだ。そのためにも、あの人との約束に真摯に答える必要がある。
そういうことを僕はスーハンに教えた。
「でも、おかしいじゃない。何で急に? あんな子じゃなかったでしょ!?」
スーハンは僕の目を探るように見た。スーハンの言う通りだ。僕はちょっと考えて目の前の紙に「二か月前」と記した。
あの人は僕のこともスーハンのことも知らないようだった。僕はそのことに驚いた。確かに親密に言葉を交わすことはなかったが、漢栄のあの施設で少なくとも数年は一緒に働いていたのだ。まったく知らないということはない。見覚えくらいはあるはずだ。しかし、あの人の記憶に僕らはいない。
僕の方でもあの人に興味を持ったのは……、いや、そんな軽いものではない。どうしようもなく惹きつけれるようになったのは、あの人が施設から脱出する二か月前からだった。あの脱出の二か月前にあの人は突然現れた。何年もあの施設にいて、同じ人間のままで突然に現れたのだ。そんなおかしなことがあるだろうか。
あの人は突然変異のアンノウンなのではないか。
〈黒煙発症〉が突然変異なのと同じように、アンノウンも突然に現れる場合があるのだろうか。もしそうだとすれば、あの人がアンノウンだという情報は、僕らにとって切り札になるのかもしれない。
僕らを捕まえたのがあの人だと気づいた時の僕の反応を、あの人は単純に知り合いだったことに驚いていると受け取ってくれただろう。突然変異のアンノウンの可能性に驚いたとは思わなかっただろう。
僕は頭をフル回転させた。
僕があの人に提案したのは、黒煙発症の情報へのアクセスに協力してくれるなら、僕はあらゆるネット上の情報を提供するということだ。
これには二つの意図がある。一つには本当に黒煙発症の情報が欲しいということ、もう一つには僕らはその目的の為なら協力すると思い込ませることだ。情報は誰から手に入れてもいい。それをあの人から欲しがっていると思わることで相手の動きをコントロールできる。
そんな僕の思惑には気付かずに、あの人は同意して、あの人も僕らへの協力を約束したのだ。
ネット上の情報などは本来であればアンノウンのあの人には物足りないものかもしれない。しかし、あの人の世間知らずと機密情報へのアクセス権のなさが、僕が集める情報の価値を引き上げている。選挙の不正情報くらいなら幾つも提供できる。それは米共和国の情報機関はすでに掴んでいるものだろうし、北ユーラシアでも掴んでいるだろう。しかし、組織には内部抗争があり、互いに阻害し合っている場合が殆どだ。そのことが情報の精度と速度を減耗させる。僕なら情報をただの情報として提供できる。
情報は情報自体の価値と同等以上に分析の価値が高いのだが、あの人にその力はないらしいのも幸いしている。
上手くやれば何の特殊能力もない僕でもコトを有利に進められそうだ。しかし、その一方で、あの人は僕らの考えを読めるようだった。それがどうなるか……。
僕は何かの壁を感じた。考えを改める必要があるのかもしれないと思った。
根底のところの問題は情報や情報の価値ではない。あの人がどれだけ正直で、誠実な人間なのかというところだ。その一点が僕らをすべてから守るはずのものだ。それが僕が掛けられる保険の資本だ。
操ろうとする人間は、操ることに捕らわれて、その構造自体に操られてしまう。僕はそれをスーハンといて学んだ。
僕らはあの人を信じるのか?
いや、本当は信じられる人間かどうかは問題ではなくなってしまっている。信じるしか手はない。それも本心から信じるしかない。
問題がややこしくなり過ぎてきている。
僕はふうとため息をついた。何杯目かもわからなくなった珈琲の味が舌の上に痺れた。
「あの人の案に乗ってやろうと思う」
僕はそう言ってスーハンの瞳を覗き込んだ。スーハンは顔を素早く動かして僕を睨んだ。僕の一挙手一投足を見逃さないように神経を張り巡らせていた。
「相手の手に乗ったフリをして、しっかりと情報を手に入れるんだ。そしてすべてが終わったらすぐに逃げよう」
最良の選択が嘘のこともある。僕だけが本心からあの人を信じて行動する。スーハンは僕を信じて行動する。そのズレが敵を撹乱し成功に導くか、あるいは僕らの齟齬を生んで失敗に辿り着かせるか、その賭けに出るしかない。本気であの人を信じろ、とスーハンに言っても今は通じないだろうから。
僕はあの人とスーハンを信じて行動する。今はそれが最善のように思われた。この僕が人を信じて……。
僕は笑いそうになった。
僕の言葉を聞いてスーハンは怪しい目をした。重い瞼でゆっくりと頷いた。
「あんた、覚えが早いわねぇ」
中年の黒人女性が朗らかに言った。
僕は苦笑いを返した。
選挙事務所の白茶けたデスクに置かれた旧式のラップトップには簡単な表計算ソフトの画面が映し出されていた。僕が座る椅子は背もたれが壊れているので、前かがみになって彼女の声を聞きながら、僕はたどたどしくキーボードを打った。
僕らがいる部屋はいわゆるオープンオフィスという感じで、空間が開けていた。デスクはそれぞれ適当に幾つかの島を作っており、デスクの間に衝立や仕切りもなかった。僕がいるのは入り口から二番目に遠い島だった。
他のデスクでも電話を取る者や作業をする者たちが動いている。僕は初めて選挙事務所を見るので、まあ正確には選挙準備事務所だが、とにかく他を知らないために、そう怪しいところでもないように感じた。選挙事務所のすべての機器や用具が一世代古いのが気になるが、それも政治的なアピールかもしれない。
その古い機器を目の前の中年黒人女性は手際よく扱っている。僕は体が固まった。
こいつはただの事務仕事のおばちゃんとは思えない。
明かにプログラムを組んでいた人間の動きだ。
何かの目的があって選挙事務所にいるのだ。彼女はそれを隠そうともしていない。この事務所の重石にでもなっているのだろうか。まあ、気づいている者もいないようだが……。
だから僕は自分のスキルを悟られないように注意しつつ、苦笑いを返していた。
「あら? メイヤー、新人さん?」
透き通るような声が聞こえてそちらを見ると、あの人が入り口にいた。周りのスタッフに適当に挨拶をしながらこちらに向かってくる。
僕のデスクは入り口から遠すぎるので、この声の掛け方は不自然だ。僕は内心どきどきした。もっと慎重に行動して欲しい。
しかし、オフィスにいる人々はあの人のおかしな振る舞いに気づいていないようだった。あの人が入って来るなり部屋の空気は一変し、男性陣ははっと見蕩れる者や、よく思われようと作業に打ち込む者などばかりだし、女性陣は憧れの目で見る者と、嫉妬の目で睨む者とで二分されている。嫉妬の目で睨む女性の中には、別の作業を頼まれたスーハンも含まれていた。
様々な感情があの人を見る目を狂わせている。これがあの人の魅力なのか、それともアンノウンの力なのかはわからないが、あの人の無防備で無邪気なところに、僕は惹きつけられているのを感じた。それらすべてを含めてアンノウンの力だとすれば抗いようがない……。
僕ははっとしてラップトップの画面を見つめ直した。
そんな僕をメイヤーが珍しいとでもいうような顔で見ながら、
「そうなのよ。パソコンを扱いなれてるみたいで助かるわ」
あの人に微笑み返した。その目は僕を凝視しているように感じられた。
僕はしまったと思った。男ならあの人に注目してしまうのは当然なのだ。僕があの人だけに注目しないで周りを観察していたことや、あの人から目を逸らし得たことで、あの人と初対面ではないとバレたのかもしれない。そういう疑いから、俺のスキルに関しても疑念を抱いたのかもしれない。
僕はあの人に軽く頷いて挨拶した。
「なんだか、シャイな人みたいね。これからよろしくね」
「お喋りじゃない男のほうがいいわ」
あの人とメイヤーが話し始めた。
僕は背中に刺さるスーハンの視線を感じながら作業を続けた。
僕は夕方の選挙事務所に一人留まっていた。
帰っていくスタッフの誰もが僕の存在を気に留めない。挨拶をしてくる者はいるが、僕がここに残っていることに疑問は抱かないらしい。
「さて、さっそくこの選挙事務所内の両陣営の割合を探ってみて」
昼にあの人がそう言った。そして帰りがけに僕のところに来て何かの術を掛けていった。
今は夕方のラッシュアワーで、外はクラクションが鳴り響いているが、選挙事務所内は静かだった。一部の部屋を残して人は去った。残っているのは数人だ。その数人も僕のいる部屋からは遠い。本当の選挙期間ならこうはいかないだろうけれど、今はまだ準備期間なのだ。
僕はそれでも警戒しながらメイヤーの席に腰掛けた。静かな部屋に椅子の軋る音が響く。僕はもう一度あたりを見回す。誰もいない。僕は一度息を吐いた。
僕は廊下を見ながらメイヤーのラップトップに手を伸ばす。そのまま開こうとしたが、僕の指は汗ばんで開け損なった。
「クソっ」
いつもの僕じゃない。
もう一度メイヤーのラップトップに手を伸ばす。画面を上に押し上げる。
貝のように開かれたラップトップの画面は青い光りを放って、パスワードの入力も何もなく立ちあがった。
僕はしばらく顔面で青光を受け止めていた。嫌な予感がする。
内部ネットワークの管理が杜撰なことはよくある。メイヤーのラップトップが駄目ならば他の誰かのを探すつもりだった。メイヤーに興味が出たので、最初にこのラップトップを開いたまでが、一発目で当たりだった。
もし他の誰かのも駄目で全部外れでも手はあった。僕が作ったツールを使えばよかった。
今何の苦労もなく画面が立ち上がったけれど、その一瞬前までは、僕はこうなることを望んでいた。楽に侵入できることを。ツールも使わずに管理の杜撰さを突いて、心理の隙をすり抜ければいいと思っていたのだ。しかし、望み通りになった今となっては、僕は僕のツールを使って、苦労して侵入したほうがよかったと思い始めていた。簡単すぎることがかえって考えを難しくさせていた。嫌な予感を高めさせていた。
あの人のようなアンノウンが存在するのならば、僕が持っている知識では対応できないネットワーク系の何かが存在しても不思議はない。
あの人は僕を利用して、この選挙事務所にある罠や敵を炙り出すつもりだろうか。
人の心を読むより、どんな人間かを考えるんだ……。
僕はホテルでの決心をもう一度自分の身に打ち込んだ。
僕はラップトップに触れられず宙に浮いていた指をキーボードの上へと落とした。僕の指と思考はネットワークに侵入していった。
どれくらいの時間が経っただろう。おそらく十分、いや五分程度だろう。
嫌な予感はますます膨れ上がり、僕の時間を歪ませていた。
時々廊下を通る人影は見えるのだけれど、誰も僕の存在を気に留めていない。部屋に入って来る者もいない。外の喧騒がこの部屋だけを避けて、嘘のように静かだ。そのことが余計に僕を追い詰めている。
ローカルネットワーク網を把握することは容易なはずだが、やはり何かの仕組みがあるらしく、僕はネットワークの幾つかの関門を突破する必要に迫られた。それを僕はクリアしていったらしい。記憶がないので、らしい、としかわからない。追い詰められた状況でも僕の指と思考と自作ツールは勝手に動いて、ネットワーク内を探っていく。それを成功させている事実が僕の正気をなんとか保たせていた。
「おそらくこれが最後の扉だ」
僕はそう呟いた。自分の声の大きさに驚いた。
はっと周りを見回した。廊下を誰かが通って行った。部屋に入りたいような気配だったが、それを何かに阻まれて通り過ぎていったのが伝わって来た。
あの人の術のせいだ。あの人の術がなければ終わっていた……。
僕はぞっとして、背中の皮膚が震えるのを感じた。
僕は最後の扉に取り掛かった。
頭は働かない。ただ指とツールが勝手に動いていく。
時間が長い。長すぎる。
汗が僕のこめかみを伝う。汗は首を這い落ち、鎖骨の窪みに溜まった。僕の指はその不快を取り去ることが出来ない。僕の意思や思考はほんの零コンマ数秒の労力を払い、不快の元を取り除けと言っていた。しかし、僕の指は目の前のキーボードに吸い付いて、それ以外のことをしなかった。
最後の扉が破られた。誰が破ったのか僕にもわからない。僕なのか、意思をもった指なのか。
僕は何かを見つけた。何なのかわからない。わからないが見たのだ。
次の瞬間、画面に白いウサギが映し出された。そのウサギが画面上のあらゆるものを齧っていく。ファイル、ソフト、アプリ、とにかくなんでも齧って、何もなくなると、最後には画面自体を齧り始めた。メイヤーのラップトップの壁紙は星座や星雲で、その宇宙のすべてがウサギに喰われていく。画面は真っ黒になった。黒の画面に一匹の白いウサギだけが映し出されていた。ウサギは齧るものがなくなると、自分の腹を喰い破り始めた。自分の腹を喰いながら、そこに出来た穴に入って行った。
最後はどうやったのかわからないが、ウサギは自分を喰いながら穴に落ちた。ウサギがいなくなった画面は真っ暗で、そこには僕の顔が浮かび上がっていた。
そして、その背後に……。
「……、スーハン」
「早く逃げよう。あの女がくる!」
スーハンが僕の腕を掴んだ。
ポォーン
ラップトップから音がした。画面を見るとポップアップが表示されていた。
[あなたは誰?]
画面には穴から顔を出したウサギが映し出されていた。赤い目は見開かれ、口には血が付いていた。
ポォーン ポォーン ポォーン ポォーン ポォーン
[あなたは誰?]
[あなたは誰?]
[あなたは誰?]
[あなたは誰?]
[あなたは誰?]
ウサギの顔の周りに幾つものポップアップが出た。それがウサギを覆い、ウサギの姿は見えなくなった。
その様子に目を奪われていた僕に、
「早く! 今日はもう〈誘香〉は使えそうにない」
「……? もしかして、部屋に人が入ってこなかったのは……」
「とくかく、早く!」
スーハンは僕の言葉を遮り、僕を無理矢理立たせようとした。僕はスーハンに促されて、やっと我に返って立ち上がった。
僕らは一緒に部屋を出た。廊下の角を曲がった。
「誰!? 誰なの!?」
遠くから女の太い声が聞こえた。
あれは……。
「今の声はメイヤーか?」
「あの太った黒人の女よ」
スーハンが僕に寄り掛かりながら力なく呟いた。
僕はスーハンを支えた。しかし、僕も力が入らなくて、スーハンも僕を支えていた。
僕らは脚を引き摺り選挙事務所を出た。
ラッシュアワーはまだ続いていた。誰もが自分の家路の心配をしている。僕らを気に留める者はいない。
僕はタクシーを見つけて手を挙げた。タクシーの運転手は渋滞に嵌ったまま、窓から手を挙げてこちらに合図した。こっちまで来てくれという意味らしかった。僕はラッシュアワーの車列を眺めた。運転手に手を挙げて合図を返した。それから前へと向かって歩き出した。
「乗らないのかい!?」
運転手が背後で叫ぶ声が聞こえた。
僕はそれを無視して、スーハンを支える手に力を込めた。メイヤーのいる部屋から死角になるルートを頭に描き出していた。
やっと頭が働いて来たのを感じた。
僕はタクシーの運転手の方を振り返って合図した。すまない、と言ったのが伝わっただろうか。
僕はスーハンの肩を抱きかかえながら自分の指を見た。指はまだ動きたそうにしているように思えた。
僕は力強く一歩を踏み出しながら、あの人への戦略を考え始めた。
善意で行動して、相手に対して何の疑念も抱かなくても、不可抗力でこちらだけに有利な結果が導き出されることもある。そんなときはいつでも、だれも悪くない、ということになるはずだ。そんな作戦が取れれば……。
僕らは自分の脚で歩いて、タクシーを視界の彼方に消し去った。
ホテルまではもうすぐだった。