18-02 氏神 怪物の共演
川沿いの土手には強風が吹いていた。草の匂いが体を吹き抜けていく。
風は背後から吹いて私を後押しする。鈴さんと澁谷玄との元へ早く駆けろと促してくる。それなのに私の脚は思うように動かなくて、二人をずっと遠くに感じた。
視線の先には澁谷玄の攻撃によって影の鎧をみるみる剥ぎ取られていく鈴さんの姿が見える。澁谷は鈴さんとの間合いを外して攻撃が届かない位置をキープしている。じわじわと自由を奪うような戦い方をして表情には余裕がある。鈴さんの顔には焦りが浮かぶ。
私はふと思う。
澁谷にそんな余裕があるのなら、一気に決着をつけてもいいのではないか。澁谷には鈴さんの影の鎧を剥ぐ以外の攻撃方法もあるはずだ。何故こんなにもまどろっこしい攻撃をするんだろうか。
鈴さんと澁谷玄がグルの可能性があって、二人は私に罠を仕掛けているのかもしれない。でももし二人が敵同士であれば、鈴さんを助けなければならない。
私はとにかく異界の炎で受肉化させた胡蝶の鱗粉を二人の元へと飛ばした。鱗粉が鈴さんと澁谷玄を包み込んだ。この鱗粉は澁谷の〈白震術式〉や〈音列術式〉の効果を軽減させられるようだ。鱗粉に包まれた二人の様子が少しずつ変わっていく。鈴さんの影の鎧が復活し、澁谷の動きは鈍くなる。
「アスカさん、ありがと! これでこいつとの因縁にも決着が付けられるかもしれないわ」
鈴さんが左手に三本の包丁を出し、影の力でドリルのように回転させながら言った。それを聞いた澁谷はふっと笑って、
「まだまだお前にやられるような俺じゃねぇ!」
鈴さんはお構いなしに包丁ドリルの突きを放つ。
澁谷との距離は四、五メートルほども離れているから当然届かないはずだが、
「あっ」
私は声が出た。包丁ドリルが突然ぐんっと伸びて澁谷の体を貫いた。
「クッ……」
「影を読み違えたわね」
よく見ると太陽は鈴さんの背後から照らして、影は澁谷玄の方へと伸びている。つまりは影をもっとも伸ばしやすい方向に澁谷玄がいるということなのだろう。私は〈黒影術式〉の影の仕組みを一つ知れたと思った。もし鈴さんが敵になった時には、鈴さんに太陽を背負わせないようにして対峙すべきだわ。
「くそっ……、くくくっ、なんてなぁ」
澁谷玄がそう言うと、風が吹いて澁谷の体に突き刺さった影を吹き散らした。影の支えを無くした三本の包丁はその場に落ちた。澁谷の姿は微振動を繰り返して多重になった。それが収束し二人の澁谷が現れた。鈴さんの影に貫かれた場所にいたほうの澁谷が、振動の波の中に消えて、もう一方の澁谷玄だけが残った。そしてその澁谷が実体となって立っていた。貫かれたはずの体には一つの傷もなかった。元いた場所には銀の腕輪が浮いていた。それがぱりんと割れて地面に落ちた。澁谷玄は地面に落ちた腕輪を一瞥した後、すぐにブルースハープを取り出して、音列術式を発動させた。脚に風が纏い付いた。
「腕輪と人間の区別もつかないのか?」
澁谷玄が勝ち誇ったようにステップを踏んだ。
「私の狙いは最初から腕輪だもの」
「けっ!」
澁谷玄は勝ち誇っていた顔を歪めて私の方を睨んだ。それから指で何かの印を結んだ。頭を振ってゆっくり息を吐いた。澁谷の顔の筋肉がぴくぴくと動いた。
「お前がどういう理由で連れてきたかは知らんが、俺がこいつらを殺してしまうことまで考えてきたんだろうな?」
澁谷玄は今までの態度をすっと変えて、憑きものが落ちたかのように静かな顔になった。知性を感じられる瞳がこちらを見つめていた。それを見て鈴さんは構えを解いて棒立ちになった。澁谷とまっすぐに相対した。
鈴さんもすうっと息を吐いた。その仕草は澁谷玄にそっくりだった。それから私の方を振り向いた。
私は何か嫌な予感がした。
鈴さんがこちらに飛び込んで、さっきの影の刺突を繰り出せば、私に当たるところまで私は来てしまっている。
私は立ち止まった。鈴さんをじっと見つめた。鈴さんの顔からは何も読み取ることが出来なかった。
スパァァン
風を切り裂くような音が聞こえた。聞こえたというより、私の耳の横を何かが通って行った。それは私に当たらずに通り過ぎて、澁谷玄の目の前で砕け散った。
私ははっと振り返った。そこにはじいちゃんとテツヲ氏の姿があった。こちらに駆けてきている。私の耳元を通って行ったのは、じいちゃんが投げた石だったようだ。
私は驚きから脱して安堵の息を吐いた。じいちゃんとテツヲ氏は殺しあわずに済んだのだ。
私はすぐに前に向き直って鈴さんを睨んだ。
鈴さんは困ったような顔で澁谷玄に、
「私もどうしたらいいかわからないの。あんたがこの人たちを殺せるかどうか。この人たちがあんたをやっつけられるかどうか。それに私の家の運命はかかっているんだもの」
「鈴さん、裏切るの!?」
「いいえ、私はどっちの味方でもないの。あなたたちが本当に力があることがわからないと、味方になれないのよ。そうじゃないとすべて終わりだから」
鈴さんがそう言うのを聞いて、私の傍までたどり着いたじいちゃんとテツヲ氏が身構えた。じいちゃんは背面に手製の投石器を隠している。テツヲ氏はナイフを構えながら〈印式術式〉の印を打っている。二人とも鈴さんを敵と見做したようだ。
私は鈴さんの瞳を見つめたままでじいちゃんとテツヲ氏に、
「戦いに勝つだけじゃダメなのよ。圧倒的な力の差を見せないと。そうじゃないと鈴さんは納得しないわ」
「もうわかったはずだろう?」
じいちゃんは数日前の氏神様と鈴さんの戦いを思い出して言ったらしい。
「ああいうことじゃないのね。国を動かすような力が必要だってことよね」
私のその声を聞いて、鈴さんは片頬をあげて苦いような顔をした。
もう氏神様に頼るしかない。
ねぇ、氏神様ぁ、いつまで黙ってるのよ。もう戦いは終わりみたい。そうじゃないと鈴さんが敵になっちゃうよ。
私が心の声で問いかけると、辺りに何かの気が漂った。青く淡い光が私たちを包んで氏神様が姿を現した。半透明な体に半透明な直垂を着て、青い精神体のような氏神様がふわりと降り立った。地面から数十センチのところに浮いている。
氏神様を見た澁谷玄の顔が一気に青ざめた。辺りにビキビキという音がして、空間が歪んだかと思われるほどの振動が伝わった。
澁谷玄は赤い色の獣の仮面をかぶり、全身は白い毛に覆われた動物のような何かに変形していた。
「お、鬼火か!?」
澁谷は虎のように四つん這いで尻尾を動かして言った。
「……、もっと恐ろしい何かなのよ」
鈴さんが溜息まじりに答えた。
私は二人の会話を無視して氏神様に、
予定通りに澁谷玄を操ってみて。それで今後が決まるから。
それでいいのか? あの男が可哀想じゃなかったのか?
いいのよ、もう。
氏神様が頷いた気がした。その瞬間に澁谷玄は四つん這いの姿からまっすぐにぴんと立ち上がった。顔にかぶっていた獣の赤い仮面が剥がれ落ちた。仮面が外れると白い毛皮も消え去った。
鈴さんがその様子を見て驚いた顔をした。そしてすぐに鈴さんの目は虚ろになった。鈴さんも澁谷玄と同じように背筋を伸ばして真っ直ぐに立った。
二人は氏神様の前までゆっくりと進んで、それから地面に片膝をついて頭を下げた。
氏神様は表情のない顔で二人を見下ろした。
これじゃあ、この二人の力が分からないんだよなぁ。
氏神様はそう言うとふっと首を捻って空を見上げた。するとまず澁谷玄の顔に赤い仮面が現れた。ただし今度の仮面は澁谷玄の顔から染み出した血が固まって獣の仮面の形になったらしい。その仮面が顔を覆い終わると、澁谷玄の体から白銀の毛が生えた。さっきよりも毛足が長く美しい艶で光って見えた。神聖な獣のように思えた。澁谷玄は四つん這いになるとそこら中を飛び回って、自分の運動性能を確かめているようだった。澁谷玄の白銀の毛は絹が宙を泳ぐように帯を引いて流れ、速い動きがまるでスローモーションのように優雅だった。一々の挙措、首や肩や、腕や脚、どの動きにも気品が感じられた。速くて遅い、遅くて速い。その動きそのものが幻覚のようだった。
澁谷の動きに見とれていた視界の端に鈴さんの動きが見えた。
鈴さんは、ボッ、というくぐもった音と共に体全体が影に覆われた。その影が炎のように渦巻いて鈴さんは黒い巨大な火の玉になった。そしてその黒炎を辺り一面にまき散らした。黒炎が触れた場所はじわじわと溶けるようにして削れていった。地面が木々が草が土手の一角が、それぞれに抉れて、黒炎は黒い煙を上げながら消えていった。黒炎をまき散らした後の鈴さんは黒い布を全身にぴったりと巻いた何かになってその場に立っていた。豊満な体が張り付いた黒い布で強調されて、それと同時に締め付けられることで強靭な体であることを示していた。黒布からビンビンと気が発されている。黒布には術式が何重にも練り重ねられているらしくて、触れたものすべてを引き裂いてしまいそうで怖いくらいだ。
鈴さんはその場で真上に高く飛んだ。おそらく三階建ての家ほどの高さまでは飛び上がり、それから黒いドリルの突きを繰り出した。まずは左手の突きが地面に突き刺さった。小さな池程度の穴が開いた。掘られた地面の土は大きな渦の紋様を残していた。次に右手の突きも繰り出された。こちらは地面に土管ほどの穴が開いた。こちらの穴は深く深く掘られていた。
鈴さんは自分の繰り出した二発の突きを宙に制止したままで見つめていた。
その鈴さんを澁谷玄が見上げて、そちらに向かい何かを放った。鈴さんの周りを小さな火花のようなものが取り囲んだ。そして数瞬後、
ぼうぅッ
空中にいた鈴さんの周囲一帯を粉塵爆発のようなものが襲った。白い煙が覆って鈴さんがどうなったのかわからない。
私は澁谷玄が鈴さんを攻撃したことに驚いた。
氏神様がやらせている? それとも澁谷玄が!?
白煙を風が運んでいった。黒布に全身を包まれた鈴さんが姿を現した。鈴さんの口元が黒い布の下でにやりと動いたようだった。
鈴さんが空中からすっと姿を消した。消えたと思った体は地面にある影の中から這い出すようにして姿を現した。それと同時に黒い包丁の群れが、鈴さんの足元の影から飛び出して澁谷玄に向かった。それはまるで黒い魚の群れだった。
迫りくる影の魚群を認識した澁谷玄の赤い仮面の口元にカチリと火花が散るのが見えた。火花はいつのまにか影の魚群を包み込んでいた。爆発した。白い煙が覆った。その煙の中から一匹の黒い巨大魚が澁谷に向けて突撃した。魚群を撃退したと思ったものが、巨大魚に姿を変えたので、澁谷玄はあっけにとられて、影魚の一撃を受けた。影魚は澁谷の白銀の毛が生えた体に噛みついた。
ぐるぅるるぅ
澁谷は体を揺すって影の巨大魚を振り払おうとしたが取れないので、何かの術で手を光らせ、巨大魚の腹に触れると、その影の魚は霧散するようにして消えた。
その間に鈴さんは河に向かって影の上を滑って行った。川底に潜んだようだった。
鈴さんが潜んだ河は、心なしか水の色が変わった気がする。私は河の一点を注視した。そこにはどす黒い何かが蹲っていた。そのどす黒い何か、たぶん鈴さんだが、それを中心にして河の色が変わっている。河の水は白茶けて見えた。
私の予想では、鈴さんは水の影を集めてしまったのだ。何かやる気だ。
影の巨大魚を取り払った澁谷玄は、鈴さんが河にいるのに気づいて、そちらを虎のような動きで、尻尾を揺らしながら振り返った。その口や鼻、目には火花が散っていた。澁谷玄は自分の白銀の毛を千切ると風に乗せて河に飛ばした。そうすると澁谷の口や鼻や目の火花が、ぼぅっ、と大きくなった。
「喝ッ!!」
澁谷が叫ぶと、火花が河で爆発を起こした。それは粉塵爆発、振動波、水蒸気爆発などすべてが合わさったようなもので、五十メートル四方ほどの範囲で河の流れが吹き飛んだ。煙も水も高く上がって川底が見えた。河が静止した。
吹きあがる水、蒸気。消失した河。私は息が止まった。
一瞬遅れて河はまた流れを取り戻したが、抉れた地面で流れは狂った。
今の爆発で鈴さんは……。
ヒュンッ
何かが飛んで澁谷玄の首元を通り過ぎた。
鈴さんが初めに垂直に飛び上がった場所、そのまったく同じ場所の足元の影から鈴さんは這い出して来ていた。澁谷の背後から何かを投げつけたらしい。それは澁谷の首を外したが鞭のように戻って、澁谷の体に巻き付いた。蛸の足に似た黒い触手が澁谷の体を縛り付けた。動きの止まった澁谷に鈴さんは幾つも触手を放った。澁谷玄は地面に倒れた。白銀の毛に覆われた澁谷に変化はないが、影の触手が触れた地面は煙を上げながら溶けている。澁谷は触手に捕まったまま地面に沈んでいく。
滅茶苦茶だ。こんなのは滅茶苦茶すぎる……。
私は氏神様の方を見た。それに気づいた氏神様は、
じいさんの方が術で鈴さんを操っているのに、操っている方が捕まるとは変な戦いだなぁ
氏神様の呑気な声が私の頭に響いて来る。
ねえ、氏神様ぁ。やり過ぎじゃないの!? やめなさいよ!!
そんなこと言ったってなぁ、この程度で国が滅びるか? 国と対決するくらいの力があるのを見せないといけないんだろ?
二人に意識はあるの?
あるよ。なきゃ意味ないだろ
氏神様は当然だとでもいうように笑った。こいつはまったくぅ。
私はすぐに警告を放つ。
「あんたたち、まだやる気? これ以上やるとこのあたり一帯が消し飛ぶわよ!」
二人は何も答えない。代わりに氏神様が、
もう消し飛んでるけどなぁ
と笑っている。
ちょっと、ちょっとぅ。氏神様。二人が返事できるようにしてよ!
そう言われた氏神様はすっと人差し指を動かした。
「ねぇ、あんたたち、どうなの? やるの?」
「……わかったわ! もういいわ!」
「……、俺にこんな力が……」
鈴さんは納得したみたいだ。でも、澁谷玄は自分の可能性を見て何かを考えている。危険だ……。
氏神様が術を解いた。
二人はその場にぐったりと倒れ込んだ。
鈴さんは地面を見てはあはあと息をしている。澁谷玄は大の字に倒れて、目だけは爛々と氏神様を見ている。体はピクリとも動かないらしいが、瞳は貪欲に氏神様のすべてを知ろうとしている。
私は今が一番のタイミングだと思って、
「鈴さん、これでほんっとうにわかったでしょ?」
精一杯の悪い顔を作って言った。
「そうね。これはひょっとしたら、羽山健敬よりも……」
鈴さんは言いかけて気を失った。その場に倒れ込んだ。
ふと見ると澁谷玄も目を開いたまま意識を無くしているようだった。
私はなんだか二人が似た者同士のように思えてきた。そして二人が似ているとしたら、まぁ面倒だわ、と心の中で呟いた。
何にもしていないけれど、二人の戦いを見ているだけで疲れ果てた私とじいちゃんとテツヲ氏もその場にへたり込んだ。
私は天狗の爪を取り出して、これで惨劇の跡を隠す結界が張れないかと氏神様に訊ねた。氏神様は娯楽の後の余韻を楽しむかのように空を見上げて、私の話など聞いていない。私は力が抜けて黙った。
強風は嘘のようにおさまり、穏やかな風が私たちを撫でた。
私は風と心がちぐはぐで整理がつかなかった。とりあえずは一つ解決したという事実があるだけだった。