17-04 不詳 鬼の住処へ
「それで? 別れはすんだの?」
四門本家の女家長トメ子がふっとこちらに顔を上げた。その顔に暮れかけた夕陽の残光が薄っすらと当たっていた。数年前より頬がこけたように思う。歳のせいだろうか、それとも最近の訓練のせい?
トメ子はこの日が来ることを数年前から予期していたのだ。それに備えて術の精度を上げようとしてきたのだろう。今も手元では殆ど無意識に近い動きで印を切り、影で作られた文字を操っている。どんなときにも術式の訓練を怠らないらしい。何より瞳には憂えと信念とが同時にある。いつ死んでいい覚悟と絶対に死なない覚悟。そのどちらも持っている人間の顔だ。私はその様子を見て心強いという気持ちと、危ない女だという気持ちとが入り混じった何とも言えない気持ちなった。
「なによ。私は無事に帰るつもりよ」
「アタシだってそうよ。でもね、覚悟は必要なのよ」
トメ子が立ち上がると纏っている黒衣がふわりと揺れた。その揺れに合わせて周囲の影が湯気のように揺らめいた。辺り一帯の影が一瞬黒衣の元に集まって、それからまた散ったようだった。何かの力が働いて波動が走っている。この黒衣は相当にヤバイ代物みたいだ。
「なんなの? その服?」
私が言うとトメ子は溜息をついて、
「闇墨衣よ。影の術の増幅装置みたいなものね」
トメ子はそう言って衣の袖を掴んでひらりと揺らした。たったそれだけの動きでまたも辺りが波動で揺れた。
そのトメ子の袖口から肌に施された影文字の印が見えた。また腕には黒い鎖が何重にも巻かれていた。術と道具とで多重の術式が施されている。これらの術を互いに打ち消しあわないように行使できているだけでも、術者の力量が知れる。トメ子は数年前よりも格段に強くなっている。そんなトメ子でも鬼に会い行くことに不安を覚えているのだ。
私は本当に覚悟を決めなければならないのだと悟った。今回の旅でもし死ななかったとしても、〈五色界〉の暴走は避けられないのかもしれない。
私は全身が真っ白に染まった祖母の姿を思い出した。祖母と母と妹が融合した蜘蛛のようでもあり樹木のようでもある怪物の姿が脳裏をよぎった。
私は頭を振ってすべての考えを一度取り払った。何も考えずただ真っすぐに立った。息が自然と抜けていった。
「やっと覚悟が出来たみたいね」
トメ子がにやりと笑った。
「覚悟も何もないわ。ただ生き延びるだけだもの」
「いいえ、覚悟してもらわないと困るのよ。鬼に対抗できるのはあんたの力だけだからね」
「え!? あんただって相当人間離れしてるわよ。そんな力があっても駄目なの?」
「アタシの力じゃ、鬼に傷をつけられないと思うわ。逃げたり足止めしたりは出来ても撃退は出来ない」
トメ子は笑うようなイジけるような形容しがたい表情になった。
私はその言葉を聞いてゾッとした。トメ子の今の力は明らかに化け物じみている。そのトメ子でも鬼の前では無力なのだろうか。それは言い過ぎなのではないか。
「……、でも、策は打ってあるわ。うまくいけば、二人とも死なずに情報を得て帰って来られると思う」
トメ子は私の不安を読み取って和らげるように言った。
「策って何よ!?」
「それは当てにしないで。当てにできるのは自分の力だけよ」
トメ子はそう言うと、その後は私がどれだけ聞いても、それ以上のことを言わなかった。
私たちは旧日本領内の漢栄の地下施設に向かった。
四門本家が漢栄に協力しているのは、こういった情報を得るためでもあるのだろう。
しかしまあ、こういう施設で難しいのは、漢栄の施設に漢栄だけが関わっているわけではないということだ。漢栄と米共和国の中央情報部は繋がっている。というより、米共和国の中央情報部は様々な犯罪に関与している。不正選挙も、国内外の様々な犯罪工作も、世界の政治的な事件にも、すべてのことに関わっている。その中央情報部がこの漢栄の地下施設にも関与している。つまりこの施設を通るならば、漢栄と米共和国の中央情報部の双方に話を通さなければならない。または今やっているように、双方をぶっ飛ばしながら進むしかない。
「それにしても、こいつらって弱いわねぇ。なんでこんな奴らが世界を牛耳ってるのかしら」
トメ子は迫りくる漢栄軍とそれを秘密裏にサポートしているらしい米共和国中央情報部の連中を影で作った尻尾で吹き飛ばしながら言う。いかにも詰まらなそうだ。
四門本家が漢栄の施設を急襲しているのはおかしいが、トメ子はこの強行突破を行う前に、
「私たちは四門の北家のものだ!」
と嘘の名のりを上げていた。
つまりは羽山健敬の仕業ということにしてこの施設に進入しているのだ。確かに軍を相手に一人で突破していける人間なんてのは羽山健敬くらいしかいない。文句があるなら四門の北家に言えということなのだ。そして四門の北家に本気で文句が言える組織はこの世に存在しない。少なくとも今まではそれをした組織はいないことになっている。襲撃した組織は数知れないが、返り討ちにあい、そのことを隠蔽しているのでいないことになっているのだ。
とにかく、トメ子は一応協定を結んでいるはずの漢栄に対して滅茶苦茶なことをして、それを健敬のせいにして済まそうとしているってわけだ。〈黒影術式〉を使う以上は四門一族だとバレるので仕方がないと言えば仕方がないが、本来は味方であるはずの四門本家に騙されぶっ飛ばされる漢栄軍たちは不憫だ。
「やっといなくなったわね」
地下施設内にいたほぼすべての人間を昏倒させたトメ子は、さっぱりしたとでもいう風に自分の肩を揉んだ。
「帰りには物凄い人数や兵器で守られてるんじゃない?」
「いいのいいの。帰りは別の出口から出る予定だし」
「……、あのさぁ。隠密裏に通ることも出来たんじゃないの?」
私はトメ子のあまりの暴れっぷりに疑問を抱いた。
「これでいいのよ。普段は大人しいアタシが、こんなに暴れてるってことが大事なんだから。今回ばかりは何をするかわからないぞって思わせるのよ」
「誰によ? それにあんたはいつでも何をしでかすかわからない危険人物でしょーが!」
「まあまあ、落ち着いて」
「あんただよ!」
私は呆れて力が抜けてきた。
これもトメ子が言っていた策の内なのだろうか。鬼と漢栄軍を戦わせるつもりなのか?
「ああ、ここここ!」
地下道をずいぶんと進んだ辺りでトメ子が急に立ち止まり壁を叩いた。
「ここが何よ?」
「漢栄は鬼に会うために地下を掘ったわけじゃないのよ。たまたま鬼に会っちゃったのよ。それでその穴を塞いだってわけ。この先に鬼の住処に通じる地下道があるのよ」
トメ子は軽い感じで言ったつもりらしいが、その声には潜在的な恐怖が滲んでいた。
「ここから数百メートル進めば、きっと下級の鬼が気づいて襲ってくるわ」
「下級の鬼? 鬼に下級も上級もあるの?」
「ええ、あるらしいわ。健敬の話ではね」
「……、で? 下級の鬼はどれくらい強いの?」
「さぁ。それはあんたの鬼火の力がどれくらい効くかによるわね。もしまったく効かなかったら、すぐに取って返すしかないわ」
トメ子はそう言うと黙り込んだ。
私たちはじっと見つめ合った。
「でもさぁ。漢栄も鬼の力を利用しようとしたんじゃないの?」
私は通路を進みながら雰囲気を和らげようと発言した。あれから一キロは進んでいるはずなのに、何の気配もないからだ。
トメ子は何かを怪しみながら、
「今でも利用しようとはしてるみたいだけどね。そのために宇宙人を味方につけようとしているのよ。でも宇宙人も鬼には敵わないのよ。それで今は様子見ってところらしいわ」
「宇宙人? やめてよ。そんな変な話」
「だってしょうがないでしょう。本当のことだもの。あんたを追っている黒い奴らもいるでしょう? 世の中はおかしなことばかりよ。あんた含めてね!」
トメ子は色々考えると腹が立つらしく、強い口調で吐き捨てた。
「まったく……」
「あらッ、来たみたい!」
トメ子は鋭い声で言うと、すぐに地面に影を広げてその中に入っていく。少しずつ地面に埋まって消えて行く。
「あんた逃げる気ッ!?」
「馬鹿ね。サポートよ。アタシの攻撃じゃ傷は与えられないだろうから、鬼を攪乱するわ。とにかく鬼火で頼むわよ!」
トメ子はそう言うと影の中に完全に消えた。その影が三つに分かれて地下通路の壁を這うように動いた。
私は咄嗟のことだったので、歌を歌わずに〈五色界〉を展開する。こめかみがビキビキと痛み、鼻の奥の血管が幾本か切れる。血の臭いがする。
世界が赤く染まる。異界の炎たちが視界に浮かんでくる。幾つかの炎は使える炎だ。つまりは弱い光の炎で暴走の心配がない。他の幾つかの炎は光が強い。それらを使ってしまうと制御できるかどうか怪しい。そして、一つだけおかしな炎がある。
私の力は〈五色界〉の内の〈赤色界〉という力で赤い世界に赤の炎が見えるはずの力だ。その赤色世界の中に黄色い炎が一つ揺らめいている。あれは絶対にヤバイ。あれに触れるときっと一瞬で暴走してしまう。
私は一度心を落ち着けるために息を吐いた。
「あんた! 何やってんのよッ!」
トメ子の声が響いた。
私ははっとした。目の前に何かが飛んで来ていた。
あっ……
プスッ プスッ
飛んで来た髪の毛、と言っても尖った小石のようなものが、私の目の前に突然現れた黒い腕に突き刺さった。黒い腕が鬼の髪の毛から私を守った。
「クッ! あんたしっかりしなさいよ!」
小石の刺さった黒い腕は地面に落ちると虫が散らばるように霧散した。地面には小さな血の跡が残った。
私は再度狙われないよう左に飛び退きながら懐の折り紙を取り出した。そのまま近くの炎にてんとう虫の折り紙を触れさせた。炎に触れた折り紙はぽっと燃えて、燃えたところから受肉していく。手のひら大ほどの大きなてんとう虫が現れた。
てんとう虫は鬼を警戒しながら私の頭上を回った。私には気配しか感じられなかった鬼の居場所を特定したらしく、その方向に向かって血を吐き出した。血は膜のように噴射され鬼を覆った。鬼の姿が視認可能になった。
ジュジュゥ
鬼の肌が焼ける音がした。
「少しは効くみたいね」
「効くみたいね、じゃないわよ。気を抜くんじゃないよ!」
「わかってるわよ」
私は強気に返したけれど、トメ子に借りを作ったことが気にかかった。
そんなやりとりの間にも、鬼が放った幾つかの髪の塊が飛んで来た。私はそれを避けながら、次の折り紙を取り出した。今度は強い光の炎に触れさせた。金魚の折り紙はぼおっと燃えて受肉化していく。人の頭ほどの胴体の金魚がその何倍ものある巨大な尾びれを揺らしながら現れた。尾びれはシーツを何枚も折り重ねて広げたようだ。その光景に鬼も気を取られて一瞬動きが止まった。
私はその隙にてんとう虫と金魚を操って連携攻撃をさせる。
まず金魚の尾びれを幾千にも細かく千切って辺り一帯に花びらのように舞わせる。そして、その尾びれの乱舞に向かっててんとう虫に血を吐かせる。血に濡れた花びら群が渦を巻いて舞い始める。千々の尾びれの花びらは酸のような血を浴びたことになる。つまりこの尾びれの群れは刃物であり、かつ酸での溶解も行える破片群になった。これに触れれば切られると同時に溶かされる。しかも、無数の欠片で敵を囲むので回避は不可能。普通の相手ならこれでおしまいだ。
「これでも喰らいなさい!」
私は尾びれの花びらで鬼の周りを囲んで、鬼を中心に旋回させる。そして渦巻いている尾びれの花びらの回転円を少しずつ狭めていく。鬼の逃げる隙も隙間も与えずに確実に仕留めるつもりだ。
ぐぎぎぎぃ
鬼が呻いた。
鬼は何かに抵抗しようとしている。よく見ると鬼の足には黒い文字の術式が蠢いている。トメ子が足止めをしているのだ。これなら尾びれは一つ残らず鬼に命中する。
ぎぎぎげぇー
鬼が叫んだ。鬼の腿の筋肉がぼんと膨らんだ。トメ子の術が破られた。しかし、その動作も一瞬遅かった。鬼がその場から飛び退こうとした時には、すでに私が放った尾びれの花びらが渦巻きながら鬼の体に命中していた。尾びれの花びらは初弾が当たるとまるで追尾能力でもあるかのように、次々に鬼の体に食い込んでいった。絶え間ない鬼の苦悶の声が響いた。
げぇぇぇぇ
ジュウジュゥ
鬼の体中の肉が切られ溶かされていく。特に左脇腹と左の顔の損傷が激しい。渦が右回りだったので左半身への命中が多いのだ。鬼の脇腹の肉は殆ど剥がれて黒い骨が見えてきた。
「なんだぁ。やれるじゃない?」
私がそう言うと、
「気を抜くんじゃないわよ。よく見なさいよ!」
トメ子が鬼の削られた脇腹に追撃の黒い槍を飛ばしながら言った。
私は鬼の脇腹を見た。ついさっきまで見えていた黒い骨が見えなくなっている。何か白いものが傷口を覆い始めている。よくよく見るとそれは毛髪のようだった。鬼の髪が体から生えてきていた。肉の中から生えてきた髪が脇腹の傷を覆い始めている。脇腹だけではない。体中至る所の傷口が鬼の体内から生えてきた白い髪に覆われて、私が繰り出した尾びれの花びら群を弾いている。そして、白い髪に覆われた部分を黒紫の肉が覆って、鬼の体は次々に修復されていく。
トメ子が放った影の槍も鬼の白い髪の上で弾かれた。または黒紫の皮膚に刺さらなかった。。
ぎゅぎゅぎゅぅ
鬼が私たちを見て笑った。そのことが明確に伝わって来た。
私はぞっとした。
「この鬼は下級なの? 上級なの? ねぇ!? どうなの!?」
私は気づくと叫んでいた。
「そんなことはどうでもいいわ。とにかくもっと強い術を出して!」
トメ子が叫び返して来た。
私は懐から折り紙を取り出した。その着物の折り紙を炎に触れさせる。炎で燃えた部分から着物が実体化していく。それは燃えながら私の体に纏い付いた。私は実体化した朱色の着物を着ていた。攻撃の為ではなくて、自分の体を術の負荷から守るためだ。
「ちょっと暴走させるわよ!」
私は一応トメ子に宣言する。
「どういうこと?」
「ギリギリのところを渡るってことよ!」
私はそう言って、宙に浮いて見える弱い炎に直接触れた。式を折った折り紙を使わずに炎の力を私の体に取り込むのだ。
異界の炎に触れたことで力が流れ込んでくる。弱い光の炎の力でも気を抜くと暴走しそうだ。私はこの異界の力を私のイメージする流れに乗せて、暴れさせながらコントロールする。たぶん魚を釣る感覚に似ている。炎の力を泳がせながら制御していく。
私はもう一つの炎に直接触れた。つまり異界の炎を二つ直接取り込んだ。こちらの炎も暴れを少しずつ収束させて操っていく。
それから私は体中の血を鼻の奥に集めた。その血に心臓の鼓動や呼吸で式を折っていく。
「あんた、もう一回鬼の足止めしといて!」
私は叫んだ。
「出来たとしても一秒ももたないわよ?」
「それでいいわ。鬼が油断している今しかチャンスはないわ」
私は鼓動と呼吸を速めていく。
鼻の奥に集めた血に対する私の体内での式の折り重ねが完成した。その瞬間にトメ子が放った黒影術式の黒文字が鬼を捉えた。私はそれを確認してから、両腕を前に突き出した。蛇の上顎を右手、下顎を左手でそれぞれ模した構えをとった。
「〈血炎封印、蛇炎鏖殺〉」
私はすぐに術を唱えた。すると私の目や口や鼻から血が噴き出した。それは両腕で作られた蛇の頭の砲台から飛び出し、赤い舌となって鬼へと放たれた。その赤い舌は見る見る太くなっていく。一抱えほどの太さまで太くなると、それは赤い舌から赤い蛇へと変わった。その蛇はうねるような動きをして、鬼を絶対に逃がさないよう追い詰めながら迫っていく。鬼は逃げようとしたが、トメ子の術でまたも一瞬動きを妨げられた。その一瞬が命取りだった。
私が放った蛇炎は鬼を頭から丸呑みにした。丸呑みにしたあとに、とぐろを巻いてその場に留まり、飲み込んだ鬼を締め付けた。
ぎゅびゅぎゅぅ
微かに鬼の声が聞こえた。苦しそうにもがいていた。
「とんでもない術ね」
鬼が飲み込まれるのを見たトメ子が呟いた。
「血炎封印の別の術は黒いやつに効かなかったけどね。鬼にはなんとか効きそうね」
私はほっとして言った。通路の奥の方を見やった。まだ先は長そうだと思った。この先もこんな鬼が出てくると厄介だと思った。こんな大技は何発も出せない。
ぎゅぎゅぎゅぎゅぅぎゅぅ
鬼の声がして、私ははっと振り返った。
蛇炎がとぐろを巻いた格好で震えている。自分の体を自分でさらに締め付けて、内部からやってくる力を抑え込もうとしている。しかし、大きく巻いたとぐろの内側、見えない所が破られたのが伝わって来た。
私は自分の顔が引きつっているのがわかった。
「来るわ……」
「……、あれでも……」
トメ子も絶句した。
鬼は蛇炎の腹を突き破り、とぐろを巻いた体を引き裂いて出てきた。さすがに無傷というわけにはいかないらしく、骨だけになった全身を白い毛で覆っていた。骨と毛だけの生物と化している。黒紫の肉体の再生はまだ追いつかない。しかし、少しずつほんの少しずつ体が再生していっているのが見て取れた。
ぎゃいぁぁぁやぁ
鬼は叫んだ。
鬼は自分が黒い骨と白い髪で覆われただけの無残な状態になっていることなどお構いなしに、叫んですぐに私に向かってきた。
「あっ……」
鬼の動きはとにかく速かった。筋肉がない体とは思えない。弾けるような速度で私に突っ込んできた。その動きに私はただ呆然とするしかなかった。
「何やってんのよッ!」
トメ子が叫んだ。
トメ子は私と鬼との間に影の壁を出して鬼の突進を妨害した。しかし、鬼はその壁をまるで予期していたかのようにさっと避けた。一度横にステップをして、その反動を使ってより速い速度で私に迫った。
トメ子も影の壁を避けられることは予想していたらしく、影の輪っかを幾つも繰り出した。それは幾重にも重ねられるたことで網のような役目をした。鬼の体に絡みついて鬼を拘束した。
鬼はトメ子の影の輪に捕らわれてその場に転がった。その鬼がふっと笑った気がした。すると鬼の体がぐわっと盛り上がった。黒い骨と白い髪しかなかった体に、突然はち切れんばかりの筋肉が盛り上がった。黒紫の体が完全に復活した。トメ子の出した影の輪はすべて千切られ霧散した。
「時間を与えるとダメなんだわ……」
私は役に立たない推理を働かせた。それが分かったからといってどうにもならない。私に出来る最大レベルの術も効かない。もうこの後は鬼に殺されるか、〈五色界〉を暴走させるか、そのどちらかしか選択肢はない。
もし鬼に殺されれば、私の力は娘に移って、娘の魂袋はそれに耐えられずに娘が死ぬかもしれない。
もし五色界を暴走させれば、この世界は終わるかもしれない。
私は視界の端に黄色い炎を捉えた。あれに触れれば、私はきっと何かになる。そしてこの鬼を殺して、そのまま世界を……。
鬼が私に迫る。
私は黄色い炎に手を伸ばしかけた。
私は、私は……。
「ちょっと何やってんのよ! 世界がどうなってもいいの!?」
トメ子が辺りを見回して叫んだ。
鬼の手刀が私に届いた。私はそう思った。
その瞬間に鬼は真横に吹っ飛んで行った。その飛んでいく鬼を追い掛ける黒い影が見えた。壁に激突した鬼の前に何かが立ちはだかって、鬼を見下ろしていた。その何者かは壁にめり込んだ鬼の元に静かにしゃがんだ。そして、ゆっくり鬼の腹に手刀を刺し込んだ。
ぐしゅぅぅ
鬼の許しを請うような声が聞こえた。
鬼の前に立ちはだかった何者かはもう一撃、鬼の頭に手刀を刺し込んだ。それで鬼は動かなくなった。
私はあまりの出来事に呆然と立ち尽くした。動けないどころか何も考えられなかった。
「あんたねぇ。遅いのよ!」
トメ子が溜息と怒りとの入り混じった声で言った。
鬼の前にしゃがんでいた何かが立ち上がった。こちらを振り向いた。私はぞっとした。理由はわからない。わからないけれど、それは鬼よりもずっと恐ろしい何かだった。
「……、遅いのよ、じゃないよ。俺を利用するんじゃないよ」
それは男だった。人間の男。
「利用も何も、鬼に会いに行くなら、あんたを連れてくるしかないでしょう!?」
「……、どういうこと……?」
私はやっと声を出した。
「ごめん、こいつが本当に来るかどうかわからなかったからねぇ」
私はトメ子と男とを見比べた。
「……、羽山健敬?」
私の声は震えていた。
「あんたは最大の切り札だったのよ。健敬をおびき寄せるためのね」
トメ子が珍しくちょっとばつの悪そうな顔をした。しかし、すぐにしてやったりという顔で健敬を見上げた。
「で? こいつは上級の鬼なの?」
トメ子が健敬に訊ねた。
「まあ、よく見積もって中の下ってところだな」
「なるほどねぇ……。やっぱりあんたをおびき出してよかたったわ。わたしたちじゃ交渉にもならないもの」
トメ子がにやりと笑った。
健敬は鬱陶しいとでもいいように鼻を擦って頬を軽く掻いた。私はその何気ない所作にも恐ろしい練度を感じた。体の動かし方の精度が私たちとはまったく違っていると直覚した。
私はついさっきまで地上最悪の生物だと確信していた鬼の方を見た。鬼には何の反応も見られなかった。
ここは最早私の理解できる世界ではないと思った。私は考えることを止めた。
私は健敬に縋りついてしまいたい自分と、健敬の前から今すぐ逃げ出したい自分とがいるのを感じた。しかし、それを感じただけで体も頭も働かなかった。
私は赤色界を解いて、その場にへたり込んだ。それが今の私ができるただ一つのことだった。