18.傷に触れる
「サザ……?」
サザはユタカが呼ぶ声で目を覚ました。
ユタカがベッドから体を起こしてサザの肩に手を当てている。
サザは椅子に座ってベッドで眠っているユタカの様子を見ているうちに、枕元に突っ伏して眠ってしまったようだ。
外は真っ暗で、遠くでふくろうの鳴く声がする。
「起こそうか迷ったけど、その体勢で朝まで寝たら辛そうだったから」
「お気遣いありがとうございます……お身体は大丈夫ですか?」
サザは目を擦りながら言った。
「ああ、何事も無かったみたいに治ってる。やっぱりネロ先生は腕がいいな」
「でも、また傷が増えてしまいましたね」
サザはベッドの上で、シャツを羽織ったユタカの体にできた新しい傷を見つめた。
肩から胸にかけて縦に大きく切られている。
治ったとはいえ、もう少しで死ぬところだったのだ。さぞ苦しかっただろう。
「そんなこと気にしなくていい。おれはサザがいなかったら確実に死んでたよ。
生きてたのは全部サザのおかげだ」
「役に立てたなら、良かったです」
もしサザが加勢していたなら最初から防げた怪我なのだ。サザは釈然としない気持ちのまま答えた。
ベッドの上にあぐらをかいたユタカはサザに向き直って口を開いた。
「サザ。結婚すると言ったけどさ、やっぱり帰りなよ」
「え」
予期しなかったユタカの言葉にサザは目を見開いた。
「狙われてるのはおれだから、おれから離れれば安全なはずだ。また何か起きる前に帰った方がいい。
結婚しなかったことで周りに何か言われたら、それはおれが全部責任取るから。さすがに事情が事情だから国王陛下も加味してくれるさ」
「そんな……」
まさかそんなことを言われるとは思わなかった。確かに、死にそうな目に遭わされたとなれば、身分の低いサザ側からでも十分に破談にできるだろう。
とはいえ、本当に破談になったら人望の厚いユタカとはいえ、さすがに悪い評判が立つはずだ。それを分かった上でユタカはサザを心配してくれているのだろう。
でも、サザは決めたのだ。
ユタカを殺そうとしている誰かを突き止めなければ。
「いえ。私は帰りません」
「正気か? もうあんな目に遭いたくないだろ」
サザの返答に驚いた様子のユタカは少し声を荒らげた。
「私はあなたと結婚すると決めたんです」
「……サザが良いなら、おれは嬉しいんだけどさ」
ユタカはあぐらをかいた膝に頬杖をついて、サザの目をじっと見つめる。いつ見ても曇りのない、真っ直ぐな黒の瞳だ。サザは今度は目をそらさずにその目線を真っ直ぐと受け返した。
しばしの沈黙の後、ユタカは少し陰りのある笑みを見せた。
「今回はギリギリ生きてはいたけど……
今日みたいに戦って死にかけた後は、おれの方がやられて死んでいく夢をよく見るんだ。すごく怖くなる」
(あれだけ強い人でも、怖くなることがあるんだ……)
サザはユタカの思いがけない言葉にはっとし、唇をぐっと結んだ。
「もちろん、おれは弱い人達を守るために望んで剣士になったんだから、それはおれが負うべき覚悟でもあるんだ。
でも……そういう夜から、どうしても逃れられない時がある。
そういう時おれは、まだ弱いんだなって思うんだ」
「そ……そんなことはありません!」
サザが強い口調で口を挟んだので、驚いたユタカがびくりと身体を動かした。
サザも、酷い身体の痛みや死にかけた恐怖で涙を流した夜は何回もある。でも、サザの側にはいつもアンゼリカとカズラがいて励ましてくれたのだ。
この人は剣士だから、戦っている時はいつも一人だ。
あんな気持ちを抱えた夜を今までずっと一人で明かさなければいけなかったとしたら、ここまで生きている事なんて出来なかった気がする。
「死ぬような目に遭って恐怖を感じるのは当然です。弱くないと、私は思います」
ユタカはサザの言葉に少し沈黙したのち、少し俯いた。
「怖いなんて言ったら、がっかりされると思った。おれは国で一番強いことになってるのに」
「そんなこと、絶対に思いません」
「……そう言われると思わなかったな。
本当にさ、死にかけた後って眠れなくなるんだよな。
おれはカーモスの国王を殺した日、側近の剣士に斬られて後もう少しで死ぬところだったんだよ。こっちの、一番大きい傷な」
ユタカはシャツの首元を引っ張り、肩口に一際大きく残った刀傷を指差した。
「イスパハルに戻って怪我が完全に治っても、おれの方が殺される夢を見てずっと眠れなくてさ。
おれは英雄扱いされてたけど、そんなの受け取ってる余裕は全然無くて、死ぬかと思ったな。戦争は終わったっていうのに」
「……」
「今日、その時ぶりにあの死に際の感覚が蘇ってきて、怪我をして森の中で一人でいる時、本当に恐ろしくなって。
あの時サザが戻ってきてくれて、おれはすごく安心したんだ」
あの時のユタカの安堵した表情は、サザにでは無くユタカ自身にだったのだ。
(いくら強くても傷つかない訳じゃないし、傷ついたら苦しいのは誰でも同じなんだ。私は、それが分かってなかった)
「……サザ、抱きしめてもいい?」
サザの顔を覗き込む様にして、ユタカが掠れた声で言った。
「……ええ」
ユタカはベッドの上から椅子に座ったサザに手を伸ばして、身体を強く抱きしめた。
あたたかい肌を通してユタカの心臓の鼓動が伝わってくる。生きている音だ。
サザは手持ち無沙汰になった両手をそっとユタカの背中に乗せた。
指先がユタカの薄いシャツの上から傷で引きつった肌の凸凹に触れた。きっと背中も傷だらけなんだろう。
この人はイスパハルを守るために、自分の心と身体を犠牲にしてずたずたに傷ついている。
ユタカが鼻を啜る音がして、温かい何かがサザの首筋に滴ったのを感じた。涙だ。
「こうやって泣いたり甘えたりして、本当に恥ずかしくなるよ。
でもおれは本当に普通の奴だから、こういう時に人の温かさに触れてると少し落ち着くんだ。
本物の英雄みたいな高潔な人だったらそんなもの必要ないんだろうな。
こんなことにサザを必要とすべきでないって、分かってるけど」
ユタカはサザを抱きしめたまま、片手で目を擦りながら言った。
「そんなことはありません。泣くのだって普通です。
自分が恐ろしい思いをすると分かっていながら人を助けようとするのは、すごく強いと思います」
「ありがとう……そんな事を言ってくれた人は他にいなかったな」
サザがそう答えられたのは、ユタカと同じようにサザも人を殺すことが仕事だったからだ。
暗殺者だったことがこんな風に役立つとは思わなかった。
「もう少しこうしていてもいいか?
でも、おれはサザのことを傷つけることだけはしたくないんだ。本当だよ」
「……信じます。大丈夫です」
サザは深く傷ついたユタカが今、人の肌の温かさを必要としていることをよく理解したし、それを与えられるのが自分だけならそうしたいと、素直に思った。
「嫌になったら言って」
「ええ」
ユタカはサザの身体を持ち上げてベッドの上にぼすん、と置くと、もう一度サザの身体を強く抱きしめた。サザはユタカの頭をそっと抱きしめ返した。