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日本人は「制服」がお好き?

作者: 瑞希 祐作

みなさんは、「制服」について考えたことはありますか? 


 制服と聞いて人それぞれ、いろいろなことを想像すると思います。大概学校での制服が一番でしょうね? それ以外にも職業柄から、工場で働く人、お医者さん・看護士さん、パイロット・CA、警察官、軍隊等々さまざまなものがあります。また漫画やアニメから日本の文化となった「コスプレ」とか、はたまたちょっといやらしい雰囲気のものを想像する方がいるかもしれません。


 まあそういうのを全部ひっくるめて、私は「日本人は制服が好きな民族である。」という仮説を持っています。まあ日本ほど制服が征服しているような国はあまりないでしょう。ではそれはなぜでしょうか?


 日本人は従来保守的な思考が強い民族だと思います。歴史的に世界では稀に見る「単一民族国家」でありながら「島国」であり、長い期間「独立性」を維持し続けています。唯一第二次世界大戦で敗北し、しばらくの間米国に駐留されていた以外は、日本は独立国家の地位を維持し続けてきました。長い「独立性」のある歴史を維持するためにはもちろん外的要因も必要ですが、内部に確固とした「組織性」と「保守性」がなければ成り立ちません。天皇制、幕府政治が基盤となった政治体制はその組織を確立するためにさまざまなことをしてきました。またその組織を守るために、思想統制や共通認識、仲間意識の構築を日常でも教育でも常に国民に浸透させるようにしてきたのです。「常に周りの人とバランスをとりながら・・・。」とか「大事なことはよく確認してから・・・。」のようないわゆる「KY」とか「石橋論(石橋をたたいて渡る)」から来るような「美徳」は、このような保守性から出てきたものです。逆に「出る杭は打たれる」のような目立つものの存在、すなわち組織を乱す行動は「悪徳」として考えられてきたのです。つまり、自分はみんなと同じようにしていることが大事だと教わってきたのです。


 この組織性・保守性の象徴が制服なのです。これを着ていれば、少なくとも外観は他の人から逸脱はしませんし、また仲間意識を芽生えさせる上で非常に有意義だと考えられます。着ていない人からみれば、「あ、あの制服だ!」ということでそれを着ている人間をあるひとつのカテゴライズすることが可能になります。またカテゴライズされた人は、それを外から聞くことにより、次第に自分自身が洗脳されていくのです。洗脳されることにより仲間意識が芽生え、外部との人間との間に今度は自分たちで壁をつくるのです。それを見た外部の人は、制服を着た人間を今度はある一定の別の範疇に再度押し込めるのです。こういった外部→内部→外部→内部→・・・というループを繰り返すことにより、組織としての形をサイドから自動的に支援しているのです。


 それぞれの制服がカテゴライズされると、今度はそれに対する「憧れ」のようなものが芽生え始めます。理想的な職業や優秀な学校の制服は誰もが着てみたいと思うはずです。着れば外部の人からそういう目で見られるからです。一種の優越感に浸れるわけです。組織性の中にいる人間にとってみれば、自分の個性を強く表現できないわけですから、自ずと他者との区別とか優越感に浸ることはありません。だからこういう制服を着ることで、他者から自分を区別してもらうような考えも起きるわけです。ささやかな優越感への抵抗が、制服に対する憧れを産み出すのです。


 ところで、米国の場合、「個=個性」を大切にする国ですから、このように制服で人をカテゴライズすることは嫌がります。あくまでも「個性の追求」がこの国での自由主義であり、一般的に制服は似合わない国なのです。しかしながら、軍隊、警察のような共通認識や仲間意識が必要な職場ではそういうものがあります。でも日本のように巷に制服があふれているようなものとは全然違います。こういう文化の違いも日本の「制服文化」を助長させている要因だと考えられます。


 しかしながら近年日本でもこうした「個」の追求をする方が増えてきました。いわゆる「目立ちたがり屋」というだけではなく、従来の範疇にしばられない、しばられたくないような人々が増えてきているのです。だからと言って既存のものを全部ぶち壊してまで自由にしたいと考える人はそういません。やはり長きにわたる組織性・保守性の教育が脈々と体の中に受け継がれているからです。このような矛盾した「殻をやぶりたい」という気持ちと「その反動が怖い」という思いが、妥協として「抑えた変化」、すなわち「徐々なる変革」として現れてくるのです。これが制服にも影響を与えているのです。


 すなわち、ちょっと変わった制服、かっこいい制服というものがありますよね? また流行に敏感な若い女性はそれをベースにして新しいものを作っていますよね? そしてそれが新しいカテゴライズとして他の人に認知されるようになるのです。一人だけが飛びぬけるような「個」の表現ではなく、あくまでも特定の仲間同士、組織間の中で、「新しいもの」を作り出しているのが現状だと言えると思います。


 こう考えてくると、制服というのは日本の歴史的背景、すなわち組織性と保守性の象徴ではないかと考えられるのです。故に日本人は制服が好きなのではないか? と思うのです。


 さて、余談ですが制服にはもうひとつ意味があると思います。前に制服はカテゴライズされるもの、という内容のことを書きましたが、これは別の言い方をすれば、ある資格や基準・規則の「象徴」であると言えます。例えばパイロットとか警察官であればそれなりの勉強をして資格を取らないと着ることができません。学校だって試験に合格しないと着れない制服もあります。つまり制服そのものが資格の象徴であるわけです。誰もがなりたい職業とか行きたい学校などは、その憧れの象徴として制服が視覚的に認知されているのです。またこういう制服を着れば、今度はしてはいけないことも出てきます。それが「規則」としての表れです。警察官であれば当然犯罪はしてはいけません。ある学校の制服を着れば、「優秀な生徒」と認識される一方で、それを穢す振る舞いをしてはいけないということになります。認識は基準、穢すような振る舞いをしないことは規則と読みかえれば、それらが制服の象徴であると言えるでしょう。


 では憧れの制服は誰もが着れるかというと、実際に着れる人はその希望者数に比べればはるかに少ないものでしょう。希望がかなわなければなるほど、無性にかなえたいと思うのが人間です。それがある意味今度はバーチャルな世界へと人をいざなうわけです。これが所謂「コスプレ文化」の発現なのかもしれませんね。バーチャルであれば、現実の世界のものでもいいわけですし、もっと変わった漫画やアニメのものでもいいわけです。要は自分の追及する「個」にあてはまればいいわけで、それに見合ったものがあれば例え現実ではなくても着てみたい、と考えるのがコスプレの原点だと思います。こういう考えかたをすれば、制服は憧れであると同時に「犯してはいけない聖域」であり、「殻をやぶりたい」と考える人にとってみれば、「踏み込みたいけど踏み込めないもの」の象徴であるとも言えると思います。ちなみに風俗業界でこういうものを題材にしたプレイが受けているのは、「聖域を破りたいと考える人間」のひとつの欲求の表現方法ではないのかな? と思います。


 「変わりたいけどなかなかそれができない日本人」の憧れと象徴が「制服」なのでしょう。


 何もこんなに熱く「制服」を語ってどうするの? という方がいるかもしれませんが、こういう見方からすると意外と面白いものではないでしょうか? みなさんはどう思いますか?



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