養蜂家の青年は、蜜薬師の花嫁と話す
アニャはローズヒップワインの瓶を大事そうに抱え、台所へ向かおうとしていた。
「アニャ、ワイン温めるの、俺がやろうか?」
「い、いい! イヴァンがしたら、酒精が全部飛びそうだから!」
何かこだわりでもあるのか。アニャは早口でまくしたてる。
こういうときは、無理に手伝わないほうがいい。それ以上食い下がらずに、「だったら、よろしく」とだけ言って寝室に向かった。
寝室では、アニャの愛犬ヴィーテスが寝床を温めてくれていた。
頭を撫でてやると、ふん! と鼻息を鳴らして寝台から下りていく。
ヴィーテスが温めてくれた布団はうっとりするほど温かい。酒なんか飲んだら、すぐさま眠ってしまいそうだ。
ところで、アニャはお酒を飲んだらどうなるのか。気になるところである。
あのマクシミリニャンの娘なので、すこぶる強そうに思えてしまう。
いや、酒に強いアニャも可愛い。
アニャは酒に強いのか、弱いのか。それを見届けるまで眠るわけにはいかなかった。
眠気が、少しだけ吹き飛ぶ。
ヴィーテスはすでに丸くなって眠っていた。気持ちよさそうな寝顔を見せている。なるべく、静かに過ごさなくては。
しばらく待っていると、アニャがやってくる。盆を持つ手がガタガタ震えていた。ワインの瓶と酒杯が載っているので、重たいのだろう。駆け寄って代わりに持つ。
「ごめん。手伝いに行けばよかったね」
「ううん、いいの。その……」
何やらアニャが口ごもる。ボソボソと小さな声で、「重たいから手が震えていたわけではないの」と言った。
「え、どういうこと?」
「それは――」
アニャはこの世の深淵まで届くのかと思うくらいのため息をつく。そして、寝間着のポケットから小さな包みを取り出した。薬を包んだそれである。
「何これ。まさかアニャ、病気なの!?」
「違う。これは、媚薬みたいなものなの。こっそり、イヴァンのお酒に入れようと思っていて」
「えー、そうだったんだ。ありがとう」
「な、なんでお礼を言うのよ! それに、入れていないわ」
「えっ、入れてないの?」
シーンと、静まり返る。
なんでも、アニャはこっそり酒に媚薬を入れて、初夜を行おうとしていたらしい。
しかし、黙って入れることはできなかったと。
媚薬であれど黙って薬を盛るのは悪い行為だ。そんなことを考え、アニャは手が震えてしまったらしい。
「ごめんなさい、イヴァン」
「いや、いいよ」
「な、なんであっさり許すの?」
「だって、アニャは結局盛らなかったし、こうして白状もしてくれたから」
「イヴァン、あなたって、本当にお人好しね」
「そうかな?」
「そうよ!」
アニャはもう一度「お人好し!」と叫んで涙を流す。
なぜお人好しが過ぎて怒られた挙げ句、泣かれているのか。
「アニャ、ごめん。まさか、お人好しなばかりに泣かれるなんて……」
「だって、イヴァンが心配になったの! こんなにお人好しで、いずれ悪い人から騙されるんじゃないかって!」
「いやいや、さすがに悪い人の言い分は許さないよ」
「でも、イヴァンは家族の言いなりになっていたから、信用できない! だから、泣いているの!」
アニャは怒りながら泣いていた。
俺を想って感情を爆発させている姿が、どうしようもなく可愛く思えてしまう。
ぶるぶると震えている肩を、そっと抱きしめた。
「大丈夫だよ、アニャ。ずっと、アニャの傍にいるから、悪い人には騙されない」
「その言葉を破ったら、絶対に許さないんだから!」
「うん」
アニャが落ち着いたところで一度離れ、質問してみる。
「こういう薬って、麓の村で売っているの?」
「いいえ。私が作ったの」
「え、すごっ!」
「でも、ここでは手に入らない材料があって、ツヴェート様に手伝ってもらったわ」
「そ、そうだったんだ」
恐らく、アニャはツヴェート様に相談したのだろう。夫となった男が、いっこうに手を出してこないと。
「ちなみに、どんな材料を使っているの?」
「トンカットアリっていう、熱帯気候の国に自生する樹の幹や根から採れたエキスが主な材料ね。他に、蜂蜜と粉末にした蜜蜂の幼虫、かしら」
包みを開いてみると、飴みたいな塊が入っていた。蜂蜜を固めただけのものなので、お湯に入れたらサッと溶けるわけである。
「なるほど、なるほど」
包み直し、アニャに手渡す。すると、アニャはぶるぶると震え始めた。
「え、どうしたの?」
「なんでこれを私に返すのよ」
「いや、いつでも温かい飲み物に盛っていただけたらなと」
「どうしてそうなるの?」
「だって、これを使うってことは、アニャの心の準備ができたってことでしょう?」
「え?」
「俺はいつでもいいから」
アニャの決意が固まったら、すればいいだけ。ずっとずっと、そういうふうに考えていた。
夜も、自分が朝に強いタイプで、夜はすぐに眠くなる奴だと信じて、眠るように努力をしていたのだ。
「前にも話したけれど、俺たちにはきっと、子どもはできない。だから、そういう行為はアニャの体を傷つけるだけなんだ。だから、俺は無理にしたくない」
義姉達から体が痛んだり、寝不足が原因で具合が悪くなったりなどという話を聞いていたのだ。
もしも恋人ができたときには、無理矢理しないでほしい。それからできるだけ優しくしてくれと、血走った目で訴えていたのだ。
「その……イヴァンは、したくならないの?」
「なるよ。だから、毎日疲れるまで働いて、すぐに眠るようにしていたんだ」
「そっか。そうだったんだ。イヴァンは、なんていうか……」
「性欲がない、もしくは薄いと思ってた?」
「え、ええ」
まさか、アニャに別の方面で心配をかけていたなんて。がっくりとうな垂れてしまう。
「ごめん。こういうのは、最初に話し合っておくべきだった」
「そうね」
再び、部屋の中は沈黙に包まれる。
いつのまにやら目を覚ましたヴィーテスが、呆れたように鼻息を鳴らす。ゆっくり眠れないと思ったのか、寝室から出て行ったしまった。
「うるさくしてしまったみたいね」
「うん」
せっかくアニャが温めてくれたローズヒップワインも、すっかり冷えてしまった。
「もう一回、温め直してこようか」
立ち上がろうとしたそのとき、アニャが上着をぐっと掴んだ。
「あの、イヴァン、私、初夜を、したい」
「え、いいの?」
アニャは頬を染め、コクリと頷く。
きっと、こうして口にするだけでも恥ずかしいのだろう。勇気を出して、言ってくれたのだ。
珍しく、アニャのほうから抱きついてきた。
抱き返すと、アニャの柔らかな髪が頬に触れた。
金色の髪は太陽の光に透かした蜂蜜の色と一緒で、きれいだと思った。