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養蜂家の青年は、青空を仰ぐ

 アニャが歩きたいというので、ボーヒン湖周辺をぶらぶら散歩する。

 エメラルドグリーンの湖は、美しい夏の山を映し出す。

 途中、村人が漕ぐボートが通り過ぎ、湖面に波紋を残していった。

 ゆらり、ゆらりと、湖は揺れる。

 ボーヒン湖はブレッド湖よりも大きく、歩いて一周するのは無謀だろう。どこかで、引き返さなくては。


 アニャは俺と並んで歩かず、三歩先を歩いていた。なんとなく、背中から並ぶな、という圧を感じる。

 と、勝手な忖度をしていたら、アニャが振り返った。


「イヴァンの甥っ子、とっても可愛かったわ。お友達は、感じがよくて話しやすかったし」

「そっか。よかった」


 ぱちぱちと、二度瞬いただけで、アニャは涙目となる。いったいどうしたというのか。ギョッとしてしまった。


「え、アニャ、どうしたの?」

「私、イヴァンを、家族から奪っちゃったんだって思ったら、申し訳なくて」

「いやいや、俺は、望んでここにきたから。ごめん。ロマナのことだけじゃなくて、きちんと、家の事情も話していなかった」


 湖のほとりに腰かけ、楽しくもない実家の事情を語って聞かせた。


「――そんなわけで、俺は独り立ちしようと思ったわけ。偶然にも、お義父様は養蜂をしているって話していたし、役に立つんじゃないかって思ったんだ」

「そうだったのね」


 選んだのは自分自身だ。マクシミリニャンに拐かされるように、ここに来たわけではない。


「だからね、アニャ。安心して」

「ええ、わかったわ」


 そう返したものの、アニャの表情は晴れない。


 続いて、第二部ロマナについて話さないといけない。

 アニャはロマナを意識している。俺との関係も、怪しいと疑っているのだろう。ここではっきり、説明しておかなくては。


「それで、ロマナについてなんだけれど」


 途端に、アニャの目つきが鋭くなった。そんな顔をしなくても……。


「ロマナが双子の兄サシャの妻で、俺の腰帯を作ったって話を以前したと思うのだけれど――」


 身売りをしようとしていたロマナを拾い、家に連れ帰って養蜂園で働けるように取り計らった。彼女は帰る家もなく、大家族が暮らす家の片隅に転がり込む形となったのだ。


「親の愛情を受けないで育ったロマナは、とにかく卑屈で、自分を大事にしなかった。だから、余計に気に懸けて、何言ってんだよって、バシバシ背中を叩いていたんだよね」


 ロマナに対しての感情は、友達であるミハルとは違う。かといって、家族とも違っていた。


「恋でもなければ愛でもないし。うーーん、難しいな」


 放っていたら死んでしまいそうな儚さがあって、見放すことなんてできなかった。


「ごくごく普通の人になるまで、数年かかったかな」


 それくらい、ロマナの心の傷は深く酷いものだったのだ。


「それから、ぼんやりしている間に、サシャとロマナの結婚が決まって。あー、いつの間にか仲良くなっていたんだなーって思っていたんだけれど」

「ロマナさんは、イヴァンのことが好きだったのね?」

「まあ、うん」


 ロマナの気持ちに気づいたのは、ごくごく最近。ずっと、気づかずに過ごしてきた。

 だから、俺の気を引くためにサシャと結婚したとか、結婚したあとも好きだったとか、とんでもない話の数々を聞いて白目を剥いたくらいだ。


「それで、ロマナの子は、サシャの子だからね」

「うん、わかっている」

「本当に?」


 追求すると、アニャは明後日の方向を向いた。


「最初に聞いたときは、ちょっと疑ったけれど……冷静に考えたら、イヴァンが不誠実なことをするわけないと思って」

「そうそう。俺は、誠実なの」


 アニャに手を伸ばし、頬に触れる髪を耳にかけた。ハッと驚いた様子を見せていたが、嫌がっている感じではない。


「ねえ、アニャ。やっぱり、教会に行ってさ、結婚の誓いをしてこようよ」

「いや!」

「どうして?」

「だって、だって――」


 アニャの眦から、ポロリと涙が零れる。

 また、泣かせてしまった。アニャの泣き顔は、心臓に悪い。こんな顔を、させたくなかったのに。


「神様の前で誓ったら、それはもう、破棄することなんてできないでしょう?」

「破棄できないから、神様の前で誓うんじゃん」


 アニャは消え入りそうな声で囁く。神様の前で誓ったら、ずっと俺を縛り付けておくことになると。


「なるほど。だから、いやだって言ったんだ」


 がっくりと、うな垂れる。教会で夫婦の誓いをしたくないとか、なんだか不可解な発言だと思っていたのだ。


「私は、いやなの。イヴァンみたいな人が、山の奥地に縛られるのが。もっともっと、たくさんの人に必要とされて、きちんとした女性に、愛されるべきだから……!」


 神様の前で誓わなかった結婚は、本物ではない。いつでも解消される、ままごとのようなものだと。


「あー、もう。アニャさー、どうしてそんなこと考えるんだよ。俺は軽い気持ちで、この地に来たわけじゃないのに」


 アニャは泣くばかりで、こちらの言葉に応えてくれない。そんな彼女を抱き寄せ、耳元で囁く。


「――ねえアニャ、聞いて」


 結婚式のときに、兄や義姉達が誓っていた言葉は、一語一句覚えている。

 それを、アニャに聞かせてやろうと思った。 

 覚悟しておけ。そんなことを考えながら。

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