養蜂家の青年は、警戒される
アニャは厳選した平たい石を握り、湖の水面を睨む。
遠くにいた水鳥が飛び立った瞬間、アニャは腕を大きく振りかぶった。
手にしていた石を、水面と平行になるように投げる。
アニャが投げた石は、スキップをするように湖の水面をぽん、ぽん、ぽんと三回跳ねた。
「やったー!」
アニャはその場で大きく跳ね、振り返ったあと太陽よりも眩しい笑顔を見せてくれる。そして、こちらへ駆け寄り、抱きついてきた。
「イヴァン、見た? 三回も、跳ねたわ!」
「アニャ、すごいじゃん!」
「でしょう!?」
アニャは一通りはしゃいだあとピタリと動きを止め、一歩、二歩と離れる。目を伏せ、頬を真っ赤に染めていた。
まさか、我に返って恥ずかしくなったとか?
これまで、まったく意識されていないと思っていたけれど、これは脈ありなのか?
いや、自分の妻に、脈があるとかないとか、気にするのもどうかと思うが。
しかし、男として意識されるのは嬉しい。
アニャは俺のこと、ずっと近所の気の良い兄ちゃんみたいな感じで接していたし。
すぐには難しいかもしれないけれど、一緒に過ごすうちに、本当の夫婦になれたらいいなと思う。
アニャが気まずそうにしていたので、もう一度水切りを行う。石は水面で五回跳ねた。
「イヴァンは、水切りが上手いのね」
「子どものときは、誰が一番石を跳ねさせるか、争っていたんだ」
湖畔の町は、遊び場も自ずと湖になる。最近の親は、危ないから子ども達だけで湖に行くなと叱るみたいだけれど。俺達の時代は、毎日湖に遊びに行っていた。
「熱中し過ぎて、喧嘩になるほどだったな」
当時、一番大きな体をしていた精肉店の息子が、子ども達のリーダーだった。
水切りも彼が一番だったのだけれど、サシャがある日記録を抜いてしまい、他の人も巻き込んで大喧嘩になったのだ。
「そういえば、イヴァン。あなた、喧嘩の仕方を知っていたじゃない」
「うん?」
「足払いとか、手を叩き下ろしたりとか、していたでしょう?」
「ああ、あれね」
あれくらいだったら、俺にだってできる。喧嘩相手は要塞のように大きな精肉店の息子だったので、力では勝てない。だから、せこい搦め手ばかり習得していたけれど。
「喧嘩のやりかたを知っているのならば、どうしてお兄さんとの喧嘩のときは、やり返さなかったのよ」
「サシャは、もうひとりの自分だから。俺は、自分で自分のことは殴りたくないだけ。サシャは、たまに自分を殴りたくなるような人なんだ」
「よくわからないわ」
「ごめん」
一卵性の双子は、もともとはひとつだった存在なのだ。
左右対称でもある。
俺は右利きで、サシャは左利き。
二人同時に動いて、ぶつかることはしょっちゅうだった。
息を合わせていないのに言葉が重なるのは、星の数ほどあったし。
「でも、双子の兄弟は不思議な世界の中で生きているって、聞いたことがあるわ」
「そうかもしれないね」
アニャがいい感じにまとめてくれたので、この話は終了となる。
今度こそ商品を雑貨屋さんに持ち込み、必要な布や雑貨と交換してもらった。
「イヴァン、もう一軒行くわよ」
「了解」
アニャに手を引かれて向かった先は、村の外。少し離れた場所に、花々が咲く大規模な庭があった。奥のほうに、平屋建ての家がある。
春の盛りを迎えた花畑は、息を呑むほど美しかった。
「アニャ、ここは?」
「染め物屋さんよ。糸や布を持って行って染めてもらうお店なの」
自分では再現できない色を、ここで作ってもらうようだ。
「私の染め物の師匠でもあるのよ」
「だったら、挨拶をしなきゃね」
「ええ」
庭に、麦わら帽子を被ってせっせと働くお婆さんの姿があった。
「ツヴェート様ー!」
アニャの声に反応し、顔を上げる。警戒するように、じっと眇めた目でこちらを見ていた。六十代半ばくらいの、お婆さんである。
「お久しぶり! 元気そうで、何よりだわ」
「アニャ。あんたは相変わらず、口から生まれたみたいにお喋りだねえ」
「でしょう?」
にこにこ返事をしつつ、ツヴェート様と呼びかけたお婆さんに手荒れ用の軟膏を差し出していた。
「押し売りかい」
「違うわ。お土産よ」
ツヴェート様はエプロンのポケットに軟膏を入れたあと、俺のほうを睨みつける。
「で、あの男は?」
「私の旦那様よ」
「は?」
「イヴァンっていうの」
「旦那様って……」
ツヴェート様はそう呟き、指折り数を数える。
「いや、あんたはもう十九だったか。しかし、あんなきれいな男、どこで拾ってきたんだい」
「湖畔の町の人なの。お父様が気に入って、連れ帰ってきてくれたわ」
「連れ帰って、山暮らしを受け入れたって?」
「ええ」
アニャがここまで説明しても、警戒は解かれない。ただただ、鋭い目で見つめていた。
「アニャや。あまり大きな声では言えないが、あんたは、騙されている」
「ツヴェート様、お声、大きいわ」
「あいつに聞こえるように、わざと大きな声で言ったんだよ」
「そうだったのね。でも、大丈夫よ。騙されていないから」
「いいや、騙されている」
ツヴェート様はずんずんとこちらへ接近し、背中や胸をバンバン叩き始めた。頬を引っ張り、歯も覗き込まれてしまう。
「体は丈夫。足腰も問題ない。歯もぜんぶあるし、肌はツヤツヤ、顔色はすこぶるいい。毛並みも抜群で、目も濁っていない。こんなド健康で若い男が、山での暮らしを選ぶわけがないだろうが!!」
勢いに呑まれて、「まったくそのとおりなのだ!」と言いそうになってしまった。




