養蜂家の青年は、蜜薬師の娘が作った夕食を食べる
風呂から上がり、用意されていた綿の布で体を拭く。
服を着て、浴室から出るとアニャが立ちはだかるようにいた。
「大人しく、しゃがみ込みなさい」
「え、何?」
「髪、濡れているでしょうが」
アニャの手には、布が握られていた。髪の水分をきちんと拭ってから、母屋に戻るように言いたいのだろう。
しゃがみ込み、布を受け取ろうとしたが、アニャは思いがけない行動に出る。なんと、俺の髪をわしわしと拭い始めたのだ。まるで、洗った犬を拭いてやる飼い主の如く。
容赦なく、拭いてくれた。
「自分で、できるんだけれど……」
「自分でできる人が、髪から水滴をポタポタ垂らしてやってくるわけないでしょうが」
「その通りで」
「でしょう? よく水分を拭っておかないと、風邪を引くのよ」
台所では、いい匂いが漂っていた。鍋がぐつぐつ煮立つ音も聞こえる。
途端に、腹がぐーっと鳴ってしまった。
「あなた、お腹が空いているの?」
「まあ、それなりに」
「準備するから、母屋で待ってて」
手伝うことはないかと尋ねたが、患者がする仕事はないと言い切られてしまう。
完全に、患者扱いである。
どうやら、マクシミリニャンはアニャに結婚についての話をしていないようだった。いまだ、アニャは俺を患者だと思っている。
「あの――」
「まだいたの? いいから、いい子で待っていなさい」
「いい子って……、そういう年じゃないんだけれど」
「言い訳はしない」
背中をぐいぐい押され、台所から追い出されてしまった。やはり、彼女は消えてなくなりそうな外見に反し、力が強い。
そんなことはさて措いて。
母屋にマクシミリニャンがいると思っていたが、誰もいない。窓を開いて外を覗き込むと、離れに灯りが点いていた。もしかして、「あとは若い二人で」などと思っているのだろうか。結婚について、しっかり説明していて欲しかったのだけれど。
「ん?」
窓の外枠に、鐘が取り付けられていた。用途はなんだろうか?
訪問者がやってきたときに、鳴らすとか? よくわからない。
ジッと観察していたが、強い風がピュウと吹く。耐えきれなくて、窓を閉めた。
春とはいえ、夜は酷く冷え込む。
暖炉のほうを見てみたら、火が小さくなっていた。薪をいくつか追加しておく。
「あら、ありがとう」
アニャは両手に料理を持ってやってくる。どちらか持とうかと手を差し伸べたら「両方のお皿でバランスを取っているから、止めて」と怒られてしまった。
「あなた、なんなの? お手伝いしたがりさんなの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけれど」
「だったら、安静にしていなさい。でないと、治るものも治らないわよ」
アニャはテキパキと、夕食の準備をする。
もしも、実家でその様子を眺めているだけだったら、義姉や母に「手伝え!」と怒られていただろう。
下僕精神みたいなのが、骨の芯まで染みこんでいるのかもしれない。彼女が忙しそうにしているのを見ていると、酷く落ち着かないような気分になる。
俺はアニャの言葉を借りたら“お手伝いしたがりさん”なのかもしれない。
何度も行き来している様子に耐えきれなくなって、ついにはアニャに声をかける。
「ごめん、俺、お手伝いしたがりさんなんだ。何か、手伝わせて」
「は?」
アニャはポカンとした表情で、俺を見る。
「誰かが働いているのを、見ていることができない性分なんだ」
そう答えると、アニャは意味を理解したのか、突然笑い始めた。
「やだ、あなたって、変な人!」
「変な人で結構。あの鍋を、母屋に持って行けばいいの?」
「任せて、いいの?」
「いいの」
「じゃあ、お願いするわ。ものすごく重たいから、気を付けてね」
鋳鉄製のどっしりとした鍋を、母屋に持って行く。鍋敷きの上に置き、カトラリーを並べたら夕食の支度は調ったらしい。
カゴに山盛りにされた蕎麦のパンに、牛肉と野菜をやわらかくなるまで煮込んだシチュー“グラース”、鮭とジャガイモ、チーズを重ねて焼いた“ギバニッツア”、炙ったソーセージ“クランカ・クロバサ”など。豪勢な夕食だ。
木のカップに注がれているのは、黄金の蜂蜜酒だろう。
「これでよしっと。お父様を呼ばなきゃ」
「呼んで来ようか?」
「大丈夫よ。ここから呼べるから」
離れに向かって叫ぶというのか。そこそこ離れているので、喉が嗄れそうだ。などと思ったのは一瞬で、アニャは窓を開いて外枠に取り付けられていた鐘をカランカランカランと、三回鳴らした。すると、マクシミリニャンがやってくる。どうやらあの鐘は、離れにいるマクシミリニャンを呼ぶためのものだったようだ。
「おお、いい匂いがする」
「今日はイヴァンがいるから、ソーセージを焼いたわ」
「そうであったか。いただこうぞ」
食卓を囲み、祈りを捧げる。
この世の恵みに感謝し、犠牲になった生きとし生けるものに感謝を。
マクシミリニャンが食べ始めたのを確認してから、アニャも食べ始める。
「イヴァン、あなたも、たくさん食べてね」
「ありがとう」
誰かとこうして食卓を囲むなんて、いつ振りだろうか。
いつも、部屋の隅だったり、外だったり。時間がないときは花畑に向かいながら食べるときもあった。行儀が悪いのは百も承知だが、あの日は巣箱周辺にスズメバチの大群がやってきたとかで仕方がなかったのだ。
まずは、スープをいただく。
「あ、おいしい」
「本当? よかったわ」
アニャの料理は、どれもおいしかった。一つ一つ感想を言っていたら、アニャの手が止まっていたことに気付く。
「ごめん。食事の邪魔をして」
「いいのよ。お父様はいつも黙って食べるから、おいしいか、おいしくないかわからなかったの」
「アニャの料理は、お店が出せそうなくらい、おいしいよ」
「あら、そう?」
アニャの白い頬が、真っ赤に染まる。どうやら、口数の少ないマクシミリニャンは娘を褒めずに育てたらしい。こんなおいしい料理を食べておきながら、感想を言わないなんて。
「ねえ、イヴァン。あなた、しばらくここにいなさいよ。暴力をふるう兄弟のもとに帰るなんて、心配だわ」
アニャがそう言った瞬間、マクシミリニャンの動きが止まった。口の中にあったものをごくんと飲み込み、気まずそうな表情で俺を見つめる。
その顔は、なんだ。雨の日に捨てられた、子犬のような表情は。
もしかして、俺に結婚について説明しろと言いたいのか。
アニャはマクシミリニャンがブレッド湖の街に、婿を探しに行ったことも知らないのかもしれない。
「二人とも、どうしたの?」
誰も何も答えないので、アニャは怪訝な表情となる。
マクシミリニャンは、天井を仰いでいた。どうやら、説明するつもりはないらしい。
しょうがないので、俺が言うしかない。
「アニャ、俺は、君の婿として、ここに来たんだよ」
「は!?」
アニャは瞳が零れ落ちそうなくらい、目を見開いていた。