番外編 恋を叶えるメモ紙
夜――アニャから借りた本を読んでいたら、一枚の紙がひらりと落ちてくる。ふたつに折り曲げてある、何かのメモ書きのようだ。
「アニャ、本に何か挟まっていたんだけれど」
「あら、何かしら」
隣で編み物をしていたアニャに、メモ紙を手渡す。
開いて確認したアニャは、見た瞬間ハッとなった。
「これ、都へ嫁いで行った村のお姉さんから貰ったメモ紙だわ! やだ、懐かしい」
なんでも、受け取ったのは五年以上も前だったらしい。
特別仲良くしていたようで、アニャは笑みを浮かべながらメモ紙を眺めていた。
「これ、好きな人との会話に困った時の一覧表なの。そのお姉さん、これを使って好きな人と結婚できたから、もしも好きな人ができたときに使ってってくれたのよ」
「そうだったんだ」
なんでも、好きな人の前だと緊張して、会話が途切れてしまうらしい。そういうときに、このメモが大いに役に立つそうだ。
「ふふ、私達はこういうの、必要なかったわね」
「いや、俺はちょっと欲しいかも」
「あら、どうして?」
「アニャがあまりにも可愛いから、言葉が出なくなった覚えが何度かあるから」
「そうだったの? ぜんぜん気づかなかったわ」
俺の場合はそこから無口になるのではなく、取り繕うように言わなくていいことを続けざまに発し続ける。そのため、あとで「なんであんなことをアニャに言ったんだー!」と脳内で反省会が行われるのだ。
「アニャはずっとお喋りだったよね」
「だって、緊張する以前に、あなたがいろいろやらかすんだもの」
「俺、なんかやっちゃってたっけ?」
「怪我は放置するわ、休憩なしに働くわ、私がいいと言うまで食事に手を付けないわ……とにかくいろいろよ」
「うん、言われてみれば、いろいろあったね」
山での暮らしは、これまでと大きく異なっていた。
俺が怪我を放置するせいで、毎日アニャに怪我がないかチェックされていたのも今は懐かしい思い出である。
いや、今でも怪我をしていないか確認されることはあるが。
「私だって、イヴァンを前にドキドキして、どうやって間を繋いだらいいのか、わからない瞬間があったわ」
「そうだったんだ」
「でも、会話が途切れた瞬間、イヴァンは決まって〝よし、作業を再開するぞ!〟なんて言うから、こう、なんていうか会話に困る瞬間はほぼなかったわね」
アニャと見つめ合って、もじもじする時間を過ごしたかった……!
この辺、死ぬほど鈍感だったのだろう。
「このメモ紙については、すっかり忘れていたわ。私が、誰かを好きになることなんて、イヴァンと結婚するまでなかったし。イヴァンは?」
「俺は毎日蜜蜂達のことしか考えてなかったからね」
「イヴァンらしいわ」
兄達から「蜜蜂のことしか考えていないのはおかしい」、と詰られた記憶もある。
けれども俺は、別にそれが恥ずかしいとは思っていなかった。
「私も同じよ。毎日蜜蜂のことを考えて、生きていたわ」
「じゃあ、俺達は蜜蜂を大事に思う者同士、お似合いだったわけだ」
「そうね」
アニャという大天使に出会わせてくれてありがとうと、神様に感謝する。
「ちなみに、そのメモ紙にはなんて書いてあるの?」
「質問しましょうか?」
「うん、お願い」
アニャはゴホンと咳払いしてから、メモを読み上げる。
「まずひとつめ。願いがなんでも叶うとしたら、何を願う?」
「え、うーーん、そうだな」
真剣に考えたが、何も思い浮かばない。
何かあるだろうと必死になるも、望みや願いといった類いはないとしか言いようがない。
「嘘でしょう。願いがないなんて」
「だって、ここには可愛いアニャと頼もしいお義父様、優しいツヴェート様に幸せそうに眠るヴィーテス、健康な蜜蜂達に山羊や羊、鶏においしい食事、それからやりがいのある仕事――これ以上、何を望むのかって思うけれど」
「たしかに」
アニャも特に願いはないらしい。毎日、満たされた暮らしをしているという話で落ち着いた。
「じゃあ、次の質問ね。性別が逆だったらどうする?」
「俺が女だったらってこと?」
「そう」
「いや、なんていうか、俺、ミハルと結婚しているかも」
「わかるわ」
アニャも即答だった。
「前に、イヴァンがミハルさんの話をしてくれたときがあったでしょう? 食事を分けてくれたり、お兄さん達に意見してくれたり、仕事を紹介してくれたりって。それを聞いたときに、イヴァンがもしも女性だったら、ふたりは結ばれていたわねって思ったのよ」
「すごい想像力だ」
「でも、それくらい愛を感じたの」
アニャはずっと、ミハルに対して「イヴァンを愛してくれてありがとう」と伝えたかったのだという。
「ミハルさんのおかげで、今の明るいイヴァンがいると思っているから」
「そうだね」
ミハルの存在は偉大だ。
アニャと共に、感謝することとなった。
「最後の質問よ。世界が終わるとしたら、イヴァンは何をする?」
「別に、特別なことはしないかな。今みたいに、アニャとゆっくり過ごすと思う」
「どうして?」
「ジタバタしても、どうにもならないような状況だろうから。それだったら、いつもの幸せな時間のまま、終わってほしいと思う」
「今、この時間が幸せなの?」
「ものすごく幸せだよ」
アニャは微笑み、そっと身を寄せてくる。
そう、これこそが俺の幸せなのだ。




