番外編 アニャと小さなニキビ
「え、嘘! やだ、何これ!」
洗面所の鏡を覗き込み、朝から悲鳴を上げてしまう。
ツヴェート様に「うるさいよ!」と怒られてしまった。
「アニャや、どうしたんだい?」
「ツヴェート様、大変なの! ほらみて」
おでこにできたニキビを指差す。ツヴェート様は目を眇め、どこにあるんだと問いかけてきた。
「ここ! ここよ」
「んー、遠くから見たら、何もないように見えるけれど」
「ニキビがあるの!」
これまでもニキビができるときはあった。けれども、特に気にしていなかった。
今、気になるのは――。
「こんなところにニキビがあったら、イヴァンに嫌われてしまうわ」
「あんたねえ、あの男がニキビのひとつくらいで、アニャを嫌うわけないだろうが」
「イヴァンがそう言っていたの?」
「いや、直接聞いたわけじゃないが」
「だったら、わからないじゃない!」
必死になってニキビを前髪で隠す。すると、ツヴェート様に呆れられてしまった。
「むしろ、前髪を上げていたほうが、治りは早くなるんじゃないのかい?」
「そうだけれど、イヴァンにニキビを見られるのは恥ずかしいもの!」
なるべくニキビを刺激しないほうがいいのは、大いにわかっている。けれども、イヴァンに見られるくらいならば、隠しておいたほうがマシだった。
「はあ……」
「気にしすぎだというのに」
朝の仕事は帽子を深く被る。麦わらがニキビにチクチク刺さって痛い。けれども、我慢するしかなかった。
仕事が終わって母屋に戻ると、イヴァンが台所からひょっこり顔を覗かせる。
「アニャ、おはよう」
「お、おはよう!」
思わずおでこを押さえていたら、熱でもあるのかと覗き込まれる。
「顔も赤い。熱は?」
イヴァンの手が額に伸びてきたので、寸前で避ける。
「アニャ?」
「あ――へ、平気! 日差しが強いところで、作業していたの。だから、顔が赤くなっていたんだと思う」
「そうだったんだ。朝でも帽子を被っておいたほうがいいよ」
「そ、そうね」
なんとか追及を逃れてホッとしているところに、お父様がやってくる。手には麦わら帽子を握っていた。
「アニャ、さっき被っていた帽子、外に置きっぱなしだったぞ」
「……」
汗を掻いたので、外に干しておいたのだ。まさかそれを、お父様が即座に回収してくるなんて。
イヴァンのほうを見たが、小首を傾げる程度で何か言ってくることはなかった。
彼が「どうして嘘をついたの?」と聞いてくるような人ではなくてよかった。
イヴァンが作ってくれたおいしい朝食を食べ、一日の仕事を大急ぎで片付ける。
私には、やらなければいけないことがあったのだ。
夕方――やっとのことで自由の身となった。
これから、ニキビ用の薬を作る。
皆の目を盗み、寝室でこっそり作成する。
むくりと起き上がったヴィーテスには、唇に人差し指を当てて、静かにしておくようにとお願いしておいた。
材料は蜜蝋とブドウの種油、ホホバの油、ティーツリーの精油、柑橘精油。
湯煎で蜜蝋にブドウの種油、ホホバの油を入れて混ぜながら溶かす。クリーム状になったら、ティーツリーの精油と柑橘精油を垂らした。
粗熱が取れたら缶に詰め、空気を抜く。
ニキビ用軟膏の完成だ。
ちなみに、精油をシトロネラ精油にしたら虫除け軟膏になる。ペパーミント精油に変えたら、足の疲れを取る軟膏となるのだ。
そんなことはさておいて。
イヴァンが仕事から戻る前に、軟膏をニキビに塗ろう。
前髪を上げると、赤くぷっくり腫れたニキビと再会する。
隠そうとしたのがよくなかったのだろうか。朝より症状が悪化しているように見えた。
軟膏を塗りおえると、深いため息がでてくる。
「はあ……」
ニキビ軟膏の蓋を閉めるのと同時に、背後から扉の開く音が聞こえて飛び上がるほど驚いた。
「アニャ、いる?」
「イ、イヴァン!?」
「どうしたの? そんなに驚いて――あ!」
イヴァンがズンズンと大股で近づき、私の顔を覗き込む。
前髪は上げたままであった。ついに、ニキビが見つかってしまった。
「アニャ!」
「な、何よ」
「前髪を上げているの、初めて見た! 超絶可愛い!」
「は?」
「前髪下ろしているのも可愛いけれど、上げているのも可愛いねえ」
ニコニコしながら、イヴァンは私を見つめている。
もしかして、私がニキビを気にしているのに気づいて、敢えて言っているのか?
「あの、慰めのつもり?」
「何が?」
「いや、可愛いってやつ。ほら、ここにニキビがあるから、気の毒に思って褒めたんでしょう?」
「あ、本当だ。ニキビある」
次の瞬間、イヴァンは信じがたいことを言い始めた。
「アニャはニキビも可愛いんだなー」
「は!?」
「え?」
「ニキビが、可愛い?」
「うん、可愛いけれど」
「どこが!?」
「わからないけれど、可愛い」
嘘を言っている顔ではなかった。イヴァンは本気で、私のニキビを可愛いと言っているのだろう。
「わ、私、朝から、ニキビを気にしていて……。イヴァンに気づかれたら、嫌われるって思っていたの」
「ニキビのひとつくらいで、嫌うわけないよ」
ただ、朝の挙動不審の理由がわかってよかったと言う。やはり、私の言動のおかしさについては気づいていたようだ。
「俺は何があってもアニャの味方だし、嫌うことはないから」
「う、うん。ありがとう」
朝から憎たらしいとしか思っていなかったニキビであったが、ほんのちょっぴり愛おしくなったのは言うまでもない。
その後、ことの顛末をツヴェート様に報告した。
「というわけで、大丈夫だったの」
「言っただろう? あの男はアニャを嫌うことはないって」
「ええ、そうだったわ。でも、どうしてわかったの?」
「異国の言葉に、シミもえくぼに見える、なんて言葉があるのさ」
一度惚れてしまったら、顔にできたシミですらえくぼのように愛らしく見えてしまう、というものらしい。
「たしかに、イヴァンは私のニキビを可愛いって言っていたわ!」
「それは重症だねえ。可哀想な子だ」
否定できないのがなんとも切ない。
けれども、ニキビを気にするなんて小さなことなんだと思うようになった。
もちろん、彼の言葉に甘んじることはない。
二度とニキビを作らないように、肌のケアを怠らないようにしなければ、と気合いを入れたのだった。




