養蜂家の青年は、山を下りる
毛刈りから二週間くらい経ったら、山羊たちの体を洗浄液が染み込んだ布で拭いていく。
なんでも、山羊の体にまとわりついている寄生虫や卵を殺す効果があるらしい。
寄生虫が原因で、山羊が死ぬこともあるという。そのため、大事な作業であった。
ここ数日は、汗ばむ日々が続いていた。
毛皮を刈った山羊たちの足取りは、心なしか軽いように思えた。
また来年になったらよろしくと、声をかけておく。
彼らの刈り取った毛は、我が家を支える収入の一部となった。
雪解け水を吸って育った草花は、夏になるにつれてもっとも輝く季節を迎える。
養蜂家にとってもっとも忙しい、流蜜期となった。
代わる代わる山を駆け抜け、蜂蜜を回収しては遠心分離機にかけるという作業を繰り返した。
家ではツヴェート様が、蜂蜜を詰める瓶を煮沸消毒してくれたり、蜜蝋を取ってくれたり、おやつを差し入れてくれたり。非常に助かっている。
おかげで、質のよい蜂蜜や蜜蝋を得られた。
今日はマクシミリニャンとふたり、山を下りてリブチェス・ラズで蜂蜜と蜜蝋で作った蝋燭やクリームなどを売りに行く。
今日のために、ツヴェート様が麦わら帽子を作ってくれた。マクシミリニャンとお揃いである。
内部に布が当ててあって、被っても頭が痒くならないのだ。
マクシミリニャンと一緒に山を下りるのは、久しぶりであった。
ここ最近はずっと、アニャと一緒だったから。
今回は蜂蜜の出荷ということで、力自慢が選抜されたというわけである。
これまではずっと、マクシミリニャンがひとりで何往復もしていたらしい。
「イヴァン殿がいるから、出荷に行く回数も少なくて済む」
「お役に立てて、何よりです」
しかしながら、数年経ったら養蜂の規模も少なくしていこうと言われた。
「少し、無理のある量だったのだ」
アニャと俺がふたりでできるような量に減らし、収入は他で賄おうと提案される。
「今はまだ、蜂蜜が売れているが、麓の村もどんどん人が減っておる。この先、同じように蜂蜜が売れるとは限らない」
「そうだね」
若者はどんどん都会に行っているという話を聞いたことあったので、マクシミリニャンの言いたいことはよくわかる。
過疎化がみるみるうちに進んでいるのだろう。
湖畔の街に売りに行けばいいだけだが、そうすれば何日か家を空けなければならない。
アニャに家畜や野菜の世話を任せるのは、心が痛む。
時代に合わせて、商売のありかたを変えていく必要があるのだろう。
「イヴァン殿、すまない」
「いいよ」
マクシミリニャンの謝罪には、さまざまなものが含まれているのだろう。
すべてを理解しているわけではないが、なんの謝罪だと尋ねて彼の罪の意識を紐解く必要はないと思った。
「イヴァン殿がいたら、我はいつでも安心して逝ける」
「またまた、そんなことを言って」
マクシミリニャンはずっと、アニャを独り遺して逝くことに対して恐怖を感じているようだった。
絶対に、俺はアニャを独りぼっちにはさせない。
彼女の人生を見届けることが、俺の数少ない望みである。
ただ、個人に振り分けられた人生はどれだけ生きようと望んでも、思い通りにはならない。
だから安心して逝ける、なんて言うマクシミリニャンのほうがアニャより生きる可能性だってあるのだ。
俺たちにできることは、毎日精一杯生きること。
それだけだ。
八時間かけて山を下り、土産屋さんに蜂蜜を売りに行く。
以前、アニャとバトルした若おかみノーチェがいるお店である。
今日は旦那さんが店番をしていた。年の頃は四十歳半ばほどで、人のよさそうな男性である。
年若い妻を娶り、デレデレ……といったところだった。
なんだかんだ言って、夫婦仲は良好そう。
今年も蜂蜜は大人気で、予約も入っているらしい。高値で取り引きしてもらえたので、懐も暖かくなった。
続いて向かったのは、なんでも屋さん。
ここで、ある品物を受け取る。
それは――結婚指輪。
王都に出入りしている商人に注文して、作ってもらったのだ。
アニャの指輪の寸法は、早起きして調べたものである。きっと、ぴったりなはずだ。
指輪を預かっていたなんでも屋さんの主人が、完成した指輪を見せてくれた。
それは、アニャとお揃いの銀の指輪。精緻な蔦と花が彫られている。
以前アニャが俺のために、蔦の帯を縫ってくれた。
蔦は〝結婚〟の象徴らしい。
だが、もうひとつ意味がある。
それは、〝永遠の愛〟。意味を知ったときは、驚いたものだ。
指輪のモチーフとして、王都でも人気らしい。
俺はこの指輪と共に、アニャに永遠の愛を誓いたい。そう思って注文した。
アニャは喜んでくれるだろうか。
渡すのが楽しみだ。
もちろん、これは花嫁衣装と共に贈る予定である。
なんでも屋さんの主人が指輪の試着を勧めてくれた。頼んでいたときよりも指が太くなっていたらどうしようかと思っていたが、ぴったりだった。
主人はアニャの指輪をマクシミリニャンに差し出そうとしたので、「そちらは花嫁の父親です」と突っ込んでおく。
一瞬、マクシミリニャンが「え? 私が?」みたいな表情を浮かべていて、ちょっと笑いそうになった。
まさかの大抜擢だったのだろう。