養蜂家の青年は、ガクブル震える
伏せたのと同時に、銃声が鳴る。
アニャが放った銃弾は窓を貫通し、のっそり顔を覗かせた熊の額を打ち抜く。
ガラスがバラバラと砕け、強い風が部屋に吹き込み、熊の咆哮が響く。
静かな山の夜にふさわしくない、大きな音だった。
熊は、銃弾で絶命しなかった。
マクシミリニャンが言っていたのだ。熊の毛皮や脂肪は厚く、仮に命中したとしても、食い止めてしまうときがあると。
熊は、すぐには死なない。だから、十分距離を取って、銃を発砲するように、と。
間違っても、接近戦を挑んではいけない。
絶対に負けるから。
熊はガラスが割れた窓枠に手をかけ、白いツバをまき散らしながらぐいぐいと、家に体当たりしている。
ぐら、ぐらと家が揺れた。
アニャは銃を撃った反動で、銃を握ったまま倒れていた。
ツヴェート様は、呆然としている。
無理もないだろう。山の脅威が、目の前で暴れているのだから。
こういうとき、どうすればいいのか。
わからない。
野生の獣とは、無縁の土地で育ったから。
何を、何をすれば……。
瞬間、背後でヴィーテスが吠えた。
ふいに、アニャの言葉を思い出す。
ーーヴィーテスは、護畜犬だったの。
そうだ。
守らなければいけない、家族を。
体が、自然と動いた。
暖炉に突っ込まれた薪を握り、ツヴェート様が落とした鉈を手に取った。
まず、窓から顔を出す熊に向かって、薪の先端に灯る火を突き出す。
すると、熊は怯んだ。
その隙に、熊の鼻の下を鉈で素早く叩く。
どん、どんと二回。
力いっぱい鉈を振り落としたのに、皮膚を切り裂けなかった。
それでも、熊にとっては大きなダメージだったらしい。
熊は苦しげな悲鳴を上げて、窓から離れていく。
逃がすわけにはいかなかった。
熊は一度覚えた怒りを、忘れないという。
怪我が治るまでどこかに潜み、脅威となった俺たちにいつか復讐しにくるだろう。
ここで、絶対に仕留めなければ。
アニャの持つ猟銃を手に取り、周囲に散らばっていた銃弾はポケットにねじ込む。
そして、勢いのまま外へ飛び出した。
背後から引き留めるような声が聞こえる。けれど、止まるわけにはいかない。
ごうごうと、冷たい風に晒された。
今、このときになって恐怖にじわじわと襲われる。
だって、熊に襲われるなんて経験、これまでに一度もなかったから。
震える手で弾を装填し、ボルトハンドルを引いて戻す。そして、前に倒して、照準を合わせた。
周囲は真っ暗。熊の位置ははおそらくそこにいるだろうな、くらいしかわからない。
けれど、やるしかない。
引き金を指先で絞る。すると、ダーン!! という音と共に銃弾が発射された。
ぐらりと、体の均衡が崩れる。そのまま背後に倒れそうになったが、なんとか踏ん張った。
ボルトハンドルを操作すると、空薬莢が飛び出てくる。運悪く、左目に当たってしまった。
痛い。地味に痛い。けれど、気にしている場合ではない。
銃弾は、熊に直撃したのだろう。熊の体が、ぐらりと揺らいだ。
けれども、逃げる足は止まらない。
アニャが一発。俺が一発。二発銃弾が当たっても、死なないらしい。
なんて体力なんだ。憎たらしい。
もう一発。
新しい弾を握った手が、先ほどよりも震える。
熊の姿は先ほどよりも遠ざかっていくのに、これでは照準がぶれてしまうだろう。
いくじなしめ……!
なんて、自分を責める言葉ばかり脳裏に浮かぶ。
「イヴァン!!」
アニャがやってきて、背中に手を添えてくれる。
続けて、ツヴェート様が叫んだ。
「落ち着いて!! 大丈夫だ、イヴァン。あんたなら、できる!!」
アニャの手が、ツヴェート様の大声が、心に響く。
自分でも驚くほど、震えが止まった。
集中力を遮断する物音も、気にならなくなる。
周囲は真っ暗で何も見えないはずなのに、目の前に熊の姿がはっきり見えるような気がした。
撃てる。
そう思って、引き金を絞った。
ダーーーン!!
銃声で、ハッと我に返る。
一瞬、意識がぶっ飛んでいたような。
それよりも、熊はどうなったのか?
「熊……、熊は?」
「イヴァン、大丈夫よ。さっきの銃弾で、倒れたわ」
「よくやった!! えらいよ!!」
ツヴェート様がどんどんと、背中を叩く。その勢いのまま、倒れてしまった。
「きゃあ! イヴァン!」
「ちょっと、これしきで倒れるなんて」
気づけば、胸騒ぎは治まっている。
もう、熊が脅威となることはないのだろう。
「よかった。本当に、よかった」
嬉しさが安堵か、それとも恐怖か。よくわからない涙が、こみあげてきた。
今夜ばかりは、いくら泣いても許されるだろう。




