養蜂家の青年は、不測の事態におののく
マクシミリニャンが帰ってきて、納屋に体当たりした――くらいの物音である。
そうだったらいいのに、そうではないのだろう。
「クリーロかセンツァが、小屋からうっかり出てしまって、納屋にぶつかったのかしら?」
アニャがポツリと呟く。
そうだ。そうに違いない。
ものすごい物音だった。もしかしたら、怪我をしているかもしれない。
灯りを持って、様子を見に行かなければ。
「じゃあ、俺が外に――」
「いいや、大角山羊じゃないだろう」
ツヴェート様が言い切る。どくんと、胸が跳ねた。
「山羊は目がかなりいい。夜でも、草を見分けて食べるくらいだ。納屋にぶつかるドジはしないだろうよ」
「言われてみれば、そうかも」
ドクン、ドクンと心臓が重たく脈打った。
頼むから、嫌な予感は当たらないでくれと願う。
無情にも、ツヴェート様が俺の嫌な予感を口にしてしまった。
「おそらく、中型から大型の、獣だろうね」
思わず、頭を抱え込む。
納屋には、家畜の餌を保管していた。それを目的に、やってきたのかもしれない。
もしも熊だったら、最悪としか言いようがない。
以前、マクシミリニャンが話していたのだ。
熊は、異常に食い意地が張っていると。
熊の爪痕がある木の木の実や、糞がある場所のキノコは採ってはいけない。
近づいたときに、どこかに潜んでいる熊に襲われる可能性があるから、と話していた。
数年前、麓の村でも、好奇心旺盛な若い熊が出没したことがあったという。
物置に侵入し、保管していたリンゴの味を覚えて何度も出没していたらしい。
退治しようとした村人に噛みつき、全治三ヶ月の怪我を負わせた。
一度、味を占めた熊は、何度もその場に現れる。
見つけたら、即退治すべきだと。
これまで、何度かマクシミリニャンから猟銃の扱い方を習った。
けれども、実際に山に入って獣相手に使ったことはないし、練習用の的に当てたこともない。
なぜ、マクシミリニャンがいないときにやってくるのか。
いや、でも、この先の人生、ずっとマクシミリニャンがいるとは限らない。
俺が、家族を守らないといけないのだ。
やはり、俺が灯りと猟銃を持って外に行こう。
そう決意し、振り返る。
「アニャ、ツヴェート様、俺――」
勇気を振り絞って、「外の様子を見に行く」と言うつもりだった。
それなのに、背後にアニャとツヴェート様の姿はない。
アニャはすぐに、寝室から出てきた。手には、猟銃を持っている。
続けて現れたツヴェート様は、右手に鉈、左手に短剣を剥き出しの状態で手にしていた。
「イヴァンは家にいて。仕留めるから!」
「熊は鼻の下が弱点だ。襲ってきたら、これで叩いてやる!」
「いやいやいやいや!!」
勇敢過ぎないか、我が家の女性陣は。
戦々恐々としている間に、武器を用意してくるなんて。
いや、逆に俺が意気地なしなのかもしれないけれど。
アニャの小さな体に、大きな猟銃は不釣り合いだと思った。
ツヴェート様の鉈を持つ姿は、妙にしっくりきているけれど。
「ちなみにアニャは、熊を仕留めたことは?」
「ない。でも、お父様と一緒に年に一度、熊撃ちに出かけていたわ」
熊撃ち――それは、山に初雪が降った日の翌日に出かけるらしい。
この頃、熊は穴を掘って冬眠する。
だが、中には冬眠せずに活動し続ける個体がいるようだ。
それは二歳から三歳くらいの、世間慣れしていない未熟な若い熊が多い。
冬の山に、熊の食料は少ない。そのため、人里に下りたり、また山で暮らすアニャやマクシミリニャンの生活圏内に近づいたりする可能性がある。
そのため、見回るのだという。
普段、マクシミリニャンは猟銃を持って狩りをしないようだが、その時ばかりは熊を仕留めるらしい。
「毎年ではないけれど、熊を撃つ年があったの」
アニャはしっかり、マクシミリニャンが熊を猟銃で狙い、撃つ瞬間を見て覚えている。
だから大丈夫、なんて言うけれど。
「ぜんぜん大丈夫とは思えないから!」
「でも、このまま家でガクブル震えているうちに、熊はここを食料の拠点にしてしまうわ」
「それは、困るけれど」
「私が、仕留めるわ」
頼りないと思ったのだろう。アニャは「イヴァンは家にいて!」なんて言ってくる。
アニャのとてつもない勇ましさに、胸を撃ち抜かれたような気分になった。
「アニャ、俺が撃つから」
「ダメよ。お父様が言っていたの。イヴァンは猟銃の扱いに慣れていないから、もしもの時は頼むって」
「ウッ!」
否定できないのが非常に情けない。
熊とは無縁の土地で育ったので、平和ボケをしていたのだろう。
もっと頻繁に、猟銃を撃つ練習をしておけばよかった。
まさか、敷地内に熊が現れるなんて、想像もしていなかったのである。
「わかった。だったら、俺が灯りを持つから、アニャはそのあとをついて――」
「静かにおし!!」
シーンとする中で、物音が聞こえる。
がさごそ、がさごそ、ひたひた、ひたひた――。
窓の外は、何も見えない。
けれど、わかる。
何かが、接近していたのだ。
全身に、鳥肌が立つ。
同時にカチャ、という音が聞こえた。アニャが、猟銃の遊底を下げたのだろう。
ガラス窓に熊の姿が映ったのと、アニャが叫んだのは同時だった。
「イヴァン、伏せて!!」