養蜂家の青年は、湖の孤島を目指す
サシャが追いかけてくるわけではないのに、ブレット湖のほとりを目的もなく走る。
アニャやミハルは、文句を言わずに付き合ってくれた。
「もう、ダメ。走れない……!」
「イヴァン、お前、なんで走ったんだよ」
「いや、なんか、走りたい気分だったから」
「なんじゃそりゃ!」
俺とミハルは息切れしていたものの、アニャはひとりケロッとしていた。
さすが、山育ち。足腰がうっとりするくらい丈夫な上に、体力や持久力もあるのだろう。改めて、惚れ惚れしてしまう。
「イヴァン、俺、帰るわ」
「あ、うん。ミハル、ありがとう」
「なんのお礼だよ」
「兄さん達に、いろいろ言ってくれたから」
「ああ、それか。気にすんな」
ミハルは俺の背中をバン! と叩く。激励の一撃は、「ウッ!!」と声を上げてしまうほど力強いものだった。
「アニャさん、イヴァンのこと、よろしく。頑張り過ぎないか、きちんと見張っていて」
「もちろん、そのつもりよ。イヴァンったら、放っておいたら、休みなく働くから。家族で、目を光らせているの」
「それを聞いて安心した」
去りゆくミハルに、今度手紙を書くからと叫ぶ。「いらねえよ」なんて返ってきたので、笑ってしまった。きっと、照れているのだろう。
「いい人ね」
「でしょう? ミハルがいたから、俺はくさらずに、やっていけたんだと思う」
サシャがどれだけ横暴でも、悪さの責任をなすりつけられても、ミハルはいつだって味方してくれたのだ。
彼のおかげで、サシャと比べられても気にしていなかったのかもしれない。
「っていうか、実家の問題が次から次へと……! アニャ、本当に本当に、ごめん」
「そうなるんじゃないかって、想像はしていたわ」
「俺はぜんぜんしていなかったから、心臓がもたない。今もちょっとバクバクしてる」
「それは、走ったからでしょう」
「そうだった」
アニャはある程度、俺の家族との衝突を予想していたらしい。そのため、どん! と構えていたのか。
「実家に戻ってくるんだから、誰かしらに会うとは思っていたわ」
「うん。でもまあ、会ったのがサシャとミロシュ兄さんでよかったのかも」
サシャはさておき、ミロシュは兄達の中でも温厚なほうだし。
「家族を見かけたら、全力で逃げようって思っていた。でも、逃げなくてよかった」
なんだか、胸のつかえが下りたと言えばいいのか。妙にスッキリとした気分だ。
「ツィリルが前向きに暮らしているのも、確認できてよかったかも」
「そうね。あの子、いい子だわ」
「でしょう?」
「一緒に暮らせたら、よかったわね」
「本当に」
でも、ツィリルはツィリルで新しい夢を抱いている。それを、応援したい。
「よし! アニャ、湖を渡って、孤島に行こう」
「え、あそこ、上陸できるの?」
「できるんだな」
古い桟橋とは逆方向に、新しい桟橋がある。そこには、手漕ぎの船がズラリと並んでいた。初夏から秋にかけての観光シーズンは、ここに列を成しているのだ。
冬となり、寒さも厳しくなると湖を見ようという観光客はぐっと減る。
今日は、船の順番を待つ人は並んでいないようだった。
ここで、船漕ぎをしたこともある。秋になって、蜜蜂の世話がかからなくなったころに、働きにきていた。
だから、ここで働く人達も顔見知りである。
「おい、イヴァンじゃないか!」
「どうも」
「なんで今年はこなかったんだよ」
「結婚して、家を出たんだ」
「そうだったのか!」
ボーヒン湖の周辺に住んでいるというと、「あそこもいい湖だ」と言ってくれた。なんだか嬉しくなる。
「久しぶりに、嫁さん乗せて自分で漕ぐか?」
「うーん、どうしよう」
船は十人ほど乗れる、大型の物だ。行き来するだけで、体力を消費する。
「乗船賃、半額にするぞ」
「乗った!」
乗せるのはアニャひとりなので、そこまで疲れないだろう。
そんなわけで、自分で船を漕ぎ、ブレッド湖の孤島を目指すこととなった。
「イヴァン、こんなに大きな船を、ひとりで漕ぐの?」
「そうだよ。多いときは、十人以上のお客さんを乗せていたんだ」
「そうだったのね」
先に乗って、アニャへ手を差し伸べる。
「船、初めてなのよ」
「大丈夫だよ」
アニャはそっと手を差し伸べる。触れた指先をそっと握り、傍へと引き寄せた。
ぐらぐらと揺れたのが怖かったのだろう。アニャは「きゃっ!」と小さな悲鳴を上げた。おまけに、胸に縋ってくる。
怖くない、怖くないと言いつつ、優しく背中を撫でた。
船の揺れが落ち着いたら、ゆっくりと水を掻き分けるように櫂を動かした。
最初は怖がっていたアニャだったが、美しいブレッド湖を眺めているうちに慣れたようだ。
「イヴァン、見て、水草が見えるくらい、水が澄んでいるわ!」
「あまり覗き込むと、落ちるからね」
「わかっているわよ」
楽しそうなアニャの横顔を見ていると、来てよかったと思う。
この景色を、彼女に見せたかったのだ。
「ここが、イヴァンの育った場所なのね」
「そうだよ」
ブレッド湖の景色に心癒され、棲む魚に食生活を助けてもらい、船漕ぎの仕事で家族の暮らしを支えた。
ブレッド湖に育ててもらったと言っても、過言ではないだろう。
と、そんな話をしているうちに、孤島に到着した。




