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養蜂家の青年は、修道女を助ける

「わ、私――」


 ロマナはわなわなと、震え始める。それは、水に濡れた震えとは、異なるものであった。

 死ぬつもりだったのに、死ねなかった。

 彼女が感じる恐怖がどんなものかまでは、わからない。

 大粒の涙を流しつつガタガタと震えるロマナを、アニャはぎゅっと抱きしめた。


「大丈夫よ。今は、何も考えないで」


 これまで、アニャはたくさんの患者に接してきた。

 不安に陥ったとき、どういう態度で接すればいいのかわかっているのだろう。

 ここは口を挟まずに、アニャに任せることにした。


 アニャが優しく背中を撫でていたら、ロマナの震えは治まっていった。


 街まで歩いて行く体力は、今のロマナに残っていないだろう。

 思いがけず寒中水泳することになった俺の体力も、残り僅かだ。

 というか、今、ロマナより震えているかもしれない。

 アニャ、俺も抱きしめて……なんて馬鹿なことを考えてしまう。

 もちろん、この状況では絶対に口にしないが。


「ねえ、イヴァン。彼女をどこか暖かい場所につれて行きたいのだけれど、あそこの建物って――」

「実家」

「そ、そうよね」


 美しい美しいブレッド湖のほとりにある花畑と大きな家――そこは生まれ育った生家である。当たり前だけれど、外観はなんら変わっていない。


 俺たちの会話を耳にしたロマナは、ハッと弾かれたようにこちらを見上げた。


「あなた……イヴァン?」

「うん、ロマナ、久しぶり」

「ああ、なんてこと……!」


 せっかくアニャが落ち着かせていたのに、再びロマナの全身は戦慄わななく。


「ご、ごめんなさい……、ごめんなさい。あなたは、私のせいで、家をでていくことになって――」

「ロマナのせいじゃないよ。俺は自分で選んで、家を出たんだ。今は、幸せに暮らしている。だから、気にしないで」


 ロマナは涙を流すばかりで、会話にならなかった。

 実家に連れて行くわけにもいかないので、ミハルのお爺さんの小屋に連れて行くことにした。

 今はツィリルが小屋の管理をしている。

 あそこならば、しばらくゆっくり休めるだろう。


「ねえ、立って歩けるかしら?」


 アニャの問いかけに、ロマナは頷いた。

 肩でも貸したほうがいいのかと思ったが、アニャが大丈夫だと制する。

 ロマナはアニャの手を借りて、一歩、一歩と進んでいった。


 なんとか小屋までたどり着く。鍵はかかっているが、予備の鍵が外に隠されているのだ。屋根の隙間に、鍵が差し込まれている。それを手に取り、小屋の扉を開いた。

 中には以前持ち込んだタオルや着替えがそのまま残っていた。

 他に、ツィリルが持ち込んだであろう、木の棒や木の実、靴などが置かれている。


「これ、着替え。使って」

「あ、ありがとう」


 ロマナが着替えている間に、その辺にある木の枝を拾って焚き火を作った。

 火に当たりながら、濡れた体を拭いて着替える。


「イヴァン、体に異常はない?」

「うん、平気」


 以降、アニャとは会話もなく、焚き火の火を黙って見つめていた。

 着替えたロマナが、小屋から出てきた。

 いたたまれない様子である。無理もないだろう。


「ロマナ、寒いでしょう? そこ、座ったら?」

「体を、温めたほうがいいわ」


 ロマナは頷き、焚き火の前に腰を下ろす。

 三人揃っても、ただただ火を見つめるばかりであった。

 気まずいものの、無理に事情は聞きださないほうがいいだろう。今は、この状況を我慢するしかない。


「あの、助けていただいて、本当に、ありがとうございました」

「え、ええ」

「まあ、なんていうか、偶然、目撃してしまったからね」

「あなたはどうして、湖に飛び込んだの?」


 アニャがズバリと聞いてしまう。

 ロマナは顔を伏せ、お腹の辺りを摩った。


「――あ!」


 思わず、声をあげてしまう。

 以前ツィリルから、ロマナの妊娠を聞いていた。

 あれからずいぶんと経ったのに、お腹の膨らみはまったくなかった。


「お腹の子を、死なせてしまったのです」 


 ロマナの目から、涙が零れる。

 どうやらサシャとロマナの子どもは、生まれる前に天に導かれてしまったようだ。


「わ、私の、せい、なんです。私が、母親になる資格なんてないから、生まれてこなければいいのにって、思ってしまったから、子どもを、死なせてしまった」

「そんなことはないわ!」


 アニャがぴしゃりと言いきる。


「子どもは、私達がどうこう思ってどうにかなるものではないのよ。生まれてこなかったのは、そういう運命だったと、最初から決まっていただけ。あなたは、悪くないの。絶対に。だから、自分を責めないで」


 ロマナは首を横に振る。

 自分は子どもを死なせてしまった、罪深い女だと。

 そんなことまで、言いだしてしまった。


 アニャが力強く励まそうとしても、ロマナは自分を責める言葉を口にし続ける。

 誰が何を言っても、彼女の心には届かないのだろう。

 今はそっとしておいたほうがいい。アニャに声をかけたが、「イヴァンは黙っていて!」と逆に怒られてしまった。


「助けてくれたことには、感謝しています。けれども、私みたいな母親になれなかった女に、生きる資格はないのです」


 アニャはロマナをジッと見つめ、意を決したように話し始めた。


「あのね、私、初潮がきていないの。だから、母親になりたくても、子どもを産めない体なのよ」


 初めて、ロマナがアニャの言葉に反応を示す。光のない瞳が、アニャを見つめていた。

明日、31日も更新します

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