人の口に戸は立てられない
「ノアが、婚約?」
パリーンという音と共に先ほどまで手の中にあったグラスだったものは床へと散らばる。
「リュカ様、血が出てますわ」
うふふ、と笑う目の前の少女。
ハンカチを差し出すでもなく彼女は微笑んだままワインを一口飲んだ。
「すまない、少し取り乱してしまった」
「あらいいんですのよ。元はと言えば悪いのはお姉様なのですもの」
すぐさま駆けつけた執事や侍女がそれぞれグラスの片付けをし、リュカの手当てにあたる。
「お相手をご覧になりたいなら今度その方とお姉様が出席する夜会にお連れ致します。その代わり先ほどの話…」
「ああ、わかっている。君とロイの縁談が上手くいくように取り計らせてもらおう」
リュカがそう言うと目の前の少女、エミリーは満足そうに微笑む。
「お姉様は私の恋のキューピッドですの。今度は私の番ですけれどあまりグズグズなさるようなら私はオーウェン様に寝返りますわ」
「…オーウェンって言うんだね…」
「情けない顔はしないでくださいな!リュカ様ときたらお姉様のことになるといつもそうですのね。お姉様の理想は普段のリュカ様そのままですのに…」
残念王子め…とエミリーは苦い表情になる。
(そんなことだからお姉様を不安にさせるのですわ)
この様子では姉がリュカ殿下から手を引くのもわからなくはない。政務中は知らないがたまに来る視察や夜会の時には完璧で素敵な王子様だというのに姉の行動ひとつで見てられないほどのへこみっぷり。
「君は会ったことがあるのかい?」
「ええ、控えめに申し上げてお姉様の好みドストライクな方ですわ」
「……」
「へこんでいる場合ではありません!お姉様を諦めるというのなら話は別ですが…」
そうでないならここで奮起してもらわねば困るし家族の目を盗んでこのように乗り込んでまで来た意味がなくなってしまう。実質次の夜会が最後のチャンスでは無いかというぐらいにはギリギリの期限だ。
「ノアを手放す気は無いよ」
「その調子ですわ」
全く手の焼ける。
父上が陛下に婚約辞退を申し出るまであと3週間。その間にこの王子様には頑張ってもらわなければ。
「ところでエミリー嬢は良かったのかい?実家が秘密裏に動いていることを言いに来たりして」
「ええ。お姉様にはリュカ様と結ばれていただかなくてはいけません。私がロイ様と結婚するならば家格として我が家の方が上ですし、今オーウェン様に婿養子に来てもらっては困りますの。あの家は私が継ぎますわ」
「君は見かけによらず強かだね。まさか君とロイが恋人になっているなんて思ってなかったよ」
「貴方様がお姉様をあの日呼び出してくださったおかげでお姉様の代わりに私がロイ様とデートしてからですからね。これでも一応リュカ様にも感謝しておりますのよ」
ふふ、と扇子で口元を隠しながら笑う。
私は幼い頃から姉はリュカ殿下と結婚するものだと思って育っている。打算なしでも姉にはこの王子殿下と結ばれてほしいとは思っていたが今は状況が状況だ。使えるものならば利用しない手はない。
「ご武運をお祈りしておりますわ」
上手くやってくださいましね、と私は殿下に笑顔の圧力をかけた。